第14話「触れる夜」
長い会話のあと、
リディアは久しぶりに、公爵邸の客間に泊まることを許した。
「疲れているだろう。よければ、今夜はこのまま……」
エリオットの静かな申し出に、リディアは数秒だけ迷い、そして頷いた。
通された部屋は、かつて彼女が使っていた客間とは違っていた。
けれど、ベッドに置かれた薄いラベンダー色のブランケット。
窓辺に置かれた椅子と読書灯。
そして、ジャスミンのドライフラワー。
(……私の好み、本当にちゃんと覚えていたのね)
時間が巻き戻ったわけではない。
でも、かつて置き去りにしたはずの“優しさ”が、そっと戻ってきたような気がした。
夜半。
リディアは窓辺の椅子に座り、本を開いていた。
眠れないわけではなかった。
ただ、今夜だけは、この静けさを少しでも長く味わっていたかった。
すると、軽やかなノックの音。
「……入っても?」
扉の外から聞こえたその声は、どこか遠慮がちで、どこか懐かしかった。
リディアは、そっと頷いた。
入ってきたのは、エリオットだった。
手には一冊の本と、ふたり分のカップが載った銀の盆を持っている。
「……寝る前に、少しだけ。君と時間を過ごしてもいいかな」
「……ええ」
ふたりは並んで窓辺に腰を下ろし、紅茶の香りに包まれながら湯気に手を伸ばした。
言葉は少なかったが、沈黙に戸惑いはなかった。
ふと、エリオットの手が伸びてきた。
その手が、リディアの手の上にそっと重なる。
彼女は驚かなかった。
ただ、その温かさに少しだけ胸を詰まらせた。
「……温かいわね」
「君の手も」
ただそれだけの言葉が、今夜は胸に深く届いた。
手のひらから伝わる鼓動。
ふたりの呼吸が、少しずつ同じリズムになる。
リディアはそっと、彼の肩に身体を預けた。
彼はためらいなく、彼女の肩を抱いた。
「こんなふうに、静かに過ごせる日が来るなんて……思ってなかった」
「私も」
外の月は満ちかけで、光がうっすらと室内を照らしていた。
その静けさは、かつて失った時間の埋め合わせのように、
ふたりの隙間をそっと満たしていく。
その夜、ふたりは言葉のない会話を交わし続けた。
手と手が触れ合い、目と目が合う。
紅茶が冷めても、まだ手は離れなかった。
「……エリオット」
「ん?」
「ありがとう。今日、呼んでくれて」
彼は静かに微笑んだ。
「ありがとう」
それ以上の言葉は要らなかった。
ふたりはそのまま、灯りを消さずに――
まるで“心が夜に触れていく”ように、静かに寄り添っていた。
夜は静かに更けていった。
けれど、ふたりの胸の内は、あたたかく、ゆっくりと満たされていた。