第13話「心を交わす夜」
温室での再会から数日後、
リディアはふたたび、公爵邸を訪れた。
今回の誘いは、花束でも豪華な催しでもなかった。
ただ、短く添えられた一文――
『よければ、少し話をしないか』
その言葉に、心が静かに揺れた。
春の柔らかな風が吹き抜ける午後。
リディアは庭のベンチに腰を下ろし、ぼんやりと花壇を眺めていた。
色とりどりに咲き誇る花々。
けれど、その美しさが胸に響くことはなかった。
心に残っていたのは、埋まらない空白と、答えの出ない記憶だった。
そのとき、小さな足音が後ろから聞こえてきた。
「奥様」
振り向けば、そこには長年仕えてくれていた侍女――エマの姿。
「エマ。どうしたの?」
リディアが声をかけると、エマはどこかためらうような目で近づいてきた。
そして、深く一礼したのち、ゆっくりと口を開く。
「実は……黙っておけと言われたのですが、公爵様のお気持ちについて、どうしてもお伝えしたくて参りました」
リディアは目を細めた。
“彼”の名前を聞くだけで、胸の奥がかすかに揺れる。
「エリオットの……気持ち?」
「はい。奥様のご体調について、公爵様は婚約のときからすでに深くご理解なさっていました」
「ええ、それは知っていたわ」
「けれど、公爵様は“奥様に無理をさせないこと”を第一に考えておられました。
そのため、“近づきすぎないこと”“言葉をかけすぎないこと”を、あえて選ばれていたのです」
リディアは息を呑んだ。
「……それって、避けられていたようにしか見えなかったわ」
「奥様がそう感じてしまわれたこと、心より申し訳なく思います。
けれど、それは“冷たさ”ではなく、“優しさ”だったのです」
「優しさ……?」
「はい。公爵様は何度も医師に相談なさっていました。
『妻の体に負担をかけたくない』『自分の言葉がストレスにならないだろうか』と」
思い返せば、急に照明が柔らかなものに替えられた日。
食事が消化の良いものへと変化した時期。
些細な気遣いのようでいて、すべて“誰かの意志”がなければできないことだった。
「……まさか、あれも?」
「はい。ほとんどが、公爵様のご指示でした」
リディアは、手のひらをぎゅっと握った。
自分が「気にされていない」と感じていた時間の裏で、
エリオットは、別の形で“守ろうとしていた”のだ。
「だったら、どうして……どうして、言ってくれなかったの?」
「それも、公爵様のお考えでした。
“本人に余計な気を遣わせたくない”“自分の存在が負担になるかもしれない”――
そう仰って、私たちにも『決して伝えるな』と」
エマは深く頭を下げた。
「でも私は、もう黙っているべきではないと思いました。
奥様が“愛されていなかった”と思ったままでいるのは、違うと、どうしても……」
風が吹き、ベンチに座るリディアのスカートが揺れた。
「……エマ、教えてくれてありがとう」
かすれた声で、リディアはそう呟いた。
頬に流れた涙を、彼女はそのまま拭わなかった。
その涙は、後悔でもなく、悲しみでもなく――
ようやく触れた“真実”の温かさだった。
午後。
通されたのは、かつて、エリオットが仕事をしていた部屋。
大きな机と本棚に囲まれた空間は、無機質だったあの頃よりもずっと柔らかくなっていた。
暖炉には火が入り、窓からは夕焼けの光が差し込んでいる。
リディアはカップを手にしながら、ぽつりと呟いた。
「……昔、この部屋、あまり好きじゃなかったの」
エリオットが驚いたように顔を上げる。
「どうして?」
「あなたが、ここでずっと仕事をしていたから。
私が入っていく隙間なんてなかった。声をかけるのも、怖かった」
沈黙が流れた。
エリオットはカップを置き、そっと彼女の顔を見た。
「……僕は、君が入ってきてくれないことを、ずっと寂しく思っていた」
「なら、どうして言わなかったの?」
「言えると思ってなかった。
君が僕をどう思ってるか――怖くて、聞けなかった」
それは、かつてのふたりにはなかった“正直な会話”だった。
リディアは微かに目を伏せ、けれどその口元に浮かんだ表情は、わずかに柔らかかった。
やがて、ふたりはソファを少しだけ引き寄せ、
肩がふれるほどの距離に座った。
緊張よりも、静かな安心感がそこにあった。
「リディア……君が、本当に欲しかったものを教えてほしい」
問いかけるように、エリオットが優しく尋ねる。
リディアは一瞬、視線を伏せた。
けれど、逃げるような気持ちはなかった。
「あなたとの会話……それだけだったの
贈り物も、広い屋敷も、肩書きもいらなかった。
私の名前を、たった一度でも呼んでくれたら、それでよかった」
その静かな告白に、エリオットの肩がわずかに揺れる。
彼の手が、少しだけ震えていた。
「リディア……ありがとう。
今さらだけど、君の名をこうしてまた呼べて、嬉しい」
リディアは、彼を見つめた。
過去ではなく、“今”の彼を。
「今なら、あなたの言葉が理解できる。不思議ね」
その笑みは、悲しみも、喜びも、すべてを受け入れた人のそれだった。
その夜、ふたりはずっと語り合った。
昔のこと。
すれ違いの理由。
好きだった本や、観たことのない夜空の話。
言葉は、とぎれることなく続いた。
けれど、沈黙もまた、会話だった。
それは、かつてなかった心の交わり。
傷つき合ったふたりが、はじめて“対等なまなざし”で向き合えた夜だった。
小さな笑い声と、途切れがちな言葉と、微かな涙。
そのすべてが、“はじまり”の証だった




