第10話「過去と赦し」
舞踏会の夜から、数日が過ぎた。
あの夜のことを思い出すたびに、リディアの胸には淡い温もりが残った。
あの手の感触。彼の視線。音楽に包まれた沈黙。
忘れていたはずの記憶が、ふと心に浮かんでくる。
そして――彼女は、初めて返事を書いた。
『あの夜、あなたの手はとても温かかった』
それだけの、短い手紙だった。
けれど、それは確かに“心を開く第一歩”だった。
エリオットは、その手紙を読み、胸にぎゅっと抱きしめた。
「……ありがとう、リディア」
まるで宝物のように、大切に大切に封筒をしまった彼は、
長らく閉ざしていた書斎の引き出しを開けた。
その奥には――
彼女に渡せなかった、言葉たちがあった。
小さなメモ用紙に書かれた「今日はありがとう」や「君の笑顔が見られて嬉しかった」
照れくさくて出せなかった、婚約記念日の贈り物。
手作りの詩のような、つたない言葉の断片。
「……今さら渡しても、遅いかもしれないけど」
彼はそれらを一つずつ丁寧に箱に詰めた。
思い出の欠片を、ひとつひとつ確認するように。
そしてその箱を、短い手紙とともに、リディアの元へ送った。
リディアがその箱を受け取ったのは、雨の静かな午後だった。
侍女が戸口で手渡した小箱。
中を開けた瞬間、微かな時間の香りが立ちのぼった。
中には、小さなぬいぐるみがひとつ。
花の押し葉が、厚紙に丁寧に挟まれている。
結婚当初、二人で出かけた旅先で撮った一枚の写真。
そして、銀の小さなブローチ。かつて彼女が「可愛い」と口にしたもの。
リディアは、震える指でひとつずつ手に取った。
(こんなにも……覚えていてくれたの?)
彼の愛し方は、不器用だった。
そして、彼女の受け取り方もまた、きっと不器用だった。
互いにすれ違い、誤解し、言葉にできなかったものが、
こうして“形”になって初めて伝わるなんて。
「私たちは、きっと……ずっと間違っていたのね」
ふと、頬を伝った涙を、彼女は拭わなかった。
その夜、リディアは再び手紙をしたためた。
『あのとき、あなたの言葉を信じる勇気があればよかった。
でも、今は少しずつ思い出せるの。あなたと笑っていた日々を』
『それは、決して幻なんかじゃなかったのだと――思えます』
封を閉じ、蝋を落とす手が、ほんの少しだけ震えていた。
(これで……伝わるでしょうか)
彼女はまだ、許したわけではなかった。
でも、心の奥で確かに、何かが“和らいで”いた。
エリオットはその手紙を、何度も何度も読み返した。
声に出して読み、沈黙のまま読み返し、
そしてようやく、ゆっくりと目を閉じて――微笑んだ。
「……まだ、終わっていない。きっと」
長い夜の向こうに、ようやく“光”が差し始めていた。