第9話「接近」
帝都に初夏の気配が満ちる頃、
王宮主催の夜会――夏の入り口を祝う舞踏会が開かれた。
名家の貴族たちが集う、華やかで格式高いこの夜会。
その招待状が、リディアの元にも届いていた。
これまでの彼女なら、即座に断っていたはずだった。
だが今回は――断らなかった。
「お出かけになるのですね、リディア様」
侍女が慎重に問いかける。
「……今なら、少しだけ外の空気を吸ってみてもいいかもしれない」
その答えは、決意というより、心の変化の証だった。
着付けられた淡い藤色のドレスは、以前より少しだけ身体に合っていた。
体調が少しずつ回復している証でもあった。
髪を整え、薄く紅を差し、リディアは鏡の中の自分を見つめた。
「……こんなふうに着飾るのも、久しぶりね」
夜会の会場には、花々の香りと楽団の優雅な音楽が満ちていた。
煌めくシャンデリアの下、貴族たちが談笑し、グラスを交わし、踊りに興じている。
その喧騒の中に、ひときわ静かな気配が現れた。
リディアが会場に足を踏み入れた瞬間、周囲の空気がふっと変わる。
「……あれが、公爵夫人……いえ、元夫人か」
「ずいぶんと、お美しくなられて」
ささやきが流れる中、リディアはその視線すべてを背負いながら、落ち着いた歩調で進んでいく。
決して気取っていたわけではない。
ただ、もう“逃げる必要”がなくなっただけだった。
彼女の姿に、すぐさま気づいた男がいた。
黒の礼服に身を包んだエリオット。
彼は人混みを縫うように近づいてくる。
そして、リディアの前に立ち、深く一礼した。
「もうこういう場には来ないかと」
「招待状をいただいたので」
「それでも、僕が居ると思うと足が遠のいていたのでは…、でもこうしてまた会えて嬉しいよ」
その目には、以前よりも深く、静かな感情が宿っていた。
「リディア。今夜、君と踊ることは叶わないだろうか?」
彼の言葉に、リディアは迷うように目を伏せた。
人々の視線。自分の鼓動。そして――あの、手。
差し出された手は、震えていなかった。
けれど、どこか熱を秘めていた。
(この手に、もう一度、触れても……いいの?)
ほんのわずかな逡巡のあと、リディアは、そっと自分の手を差し出した。
「一曲だけ。私が疲れる前に、ね」
エリオットの目に、はっきりと光が宿る。
「ありがとう」
音楽が変わり、ゆるやかなワルツが始まった。
彼女の手をとり、腰にそっと触れる彼の動きは、以前よりも丁寧だった。
「……相変わらず、踊るのは苦手なの」
「それは僕もだよ。でも、君と踊れるなら、下手でも恥ずかしくない」
ふたりの距離は、ごく自然に近づいていた。
手のひらに伝わる体温。
視線がふと合って、互いに目を逸らす。
周囲のざわめきが、まるで遠い世界の音のように感じられる。
このひとときだけは、過去の痛みも、未来の不安もなかった。
「……君が笑ってくれると、僕は嬉しい」
「ずるいわね。そんなこと言われたら笑えないわ……」
「また、笑ってもらえるように、努力するよ」
踊りの終わりが近づくにつれ、リディアの頬にも、ほんのりと色が差していく。
音楽が終わり、手を離すその瞬間――
エリオットはそっと、彼女の手の甲に唇を寄せた。
「ありがとう、リディア。本当に、ありがとう」
彼女はその手をそっと引いて、言った。
「……もう」
それは、拒絶ではなかった。
けれど、まだ“許し”でもなかった。
それでも――
ふたりの距離は、確実に、縮まっていた。