表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/20

プロローグ

静かな朝だった。

だが、その静けさは決して心地よいものではなく、空気には張り詰めたような緊張が漂っていた。


リディアは、いつものように食卓に紅茶を並べた。

けれど、向かいの椅子には誰も座っていない。


エリオットは、既に執務室へと引きこもっていた。


「……いただきます」


ぽつりと呟いた声が、思いのほか広い部屋に響いた。


結婚して三年。

かつては目を見て微笑み合っていたふたりは、

いつしか、ほとんど言葉を交わさなくなっていた。


最初は、彼の仕事が忙しくなっただけだと思っていた。

けれど、日が経つごとに、彼の視線は彼女を素通りするようになっていった。


会話はどんどん短くなった。


「エリオット、お昼ごはんはご一緒に……」


「今日は外ですませようと思う。仕事もあるし」


断られるのは、いつものことだった。

驚きはしない。けれど、心は確かに痛んでいた。


それでも、リディアは努力した。

新しいレシピを試したり、彼の好きだった音楽を流したり。


けれど、エリオットが顔を上げることはなかった。


「君は、何も問題ない。穏やかで、理想の妻だ」


そう言われた日、リディアは気づいた。


――彼は、私を“見て”いない。


身体はそばにあっても、心は遠くにある。

目を合わせても、どこか他人のようだった。


ある夜、思い切って問いかけた。


「……エリオット。私たち、最近、話してないわね」


「……そうか?」


その返答で、彼が自分と同じ時間を生きていないことを痛感した。


日々の違和感が積もり、やがて言葉にならない苦しみとなって胸を蝕んでいく。


そして、ある日――


「公爵様、最近とある伯爵令嬢と親しくしておられるとか……」


社交界の噂が、屋敷の中にも静かに浸透していた。


リディアは、何も言わなかった。

それが“最後のきっかけ”になると、自分でも気づいていたから。


熱で倒れた日。

夜になっても、彼は戻らなかった。


枕元にいたのは、侍女ひとり。

かつてのように額に触れる手も、温もりも、どこにもなかった。


(ああ……私は、もう必要とされていないのね)


そう思った瞬間、胸の奥で何かが静かに崩れた。


翌朝、庭に出て、彼が他の女性と談笑する姿を見た。


ミレーネ・カーヴィル伯爵令嬢。

穏やかな笑みを浮かべながら、エリオットの袖に軽く触れるその仕草。


エリオットは、それを拒むでもなく、ただ静かに微笑んでいた。


(私は、あの笑顔をもうずっと見ていない)


心が、張り裂けそうだった。


その夜、リディアは静かに机に向かった。


震える指先で、ペンを取る。


ゆっくりと、けれどためらいなく――

離婚届に、自分の名前を書いた。


涙は流れなかった。

ただ、胸の奥がひどく冷えていた。


もう、終わりにしよう。

愛していたからこそ、終わらせなければならないと思った。


この冷たさが、ふたりの最後の温度だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ