6話 自然
「あの、お嬢……大丈夫ですか?」
噴水の広場を抜け、人通りの少ない路地に入ったティアルとリラン。
『普通』を望む彼女にとって、アストリフィアの令嬢という肩書きは、どんなに遠くへ逃げてもついてくる足枷のようなものだった。
「ええ。気にする事はないわ」
王都で婦人と話した時と同じように、避けられない運命なのだと、ティアルはそう割り切った。
「私達、城下町の方でもこんなに有名だったんですね」
「そうね。アストリフィアの名を持つだけでこんな扱いを受けるなんて、不便なものね」
「学園の方でもこのような感じだと、まともな学園生活送れないですよ……」
「……その時は、その時よ」
ティアルは涼しい表情でそう返すが、その声色には僅かな不安の響きが忍んでいた。
「思い詰めてても仕方がないわ。それに、学園へ通うと決めたのは私。どんな環境であれ、最後までやり遂げてみせる」
ティアルは軽く拳を握る。
「私も、全力でお嬢の力になります!」
リランも自分の胸に手を当て、どんな時もティアルの味方である、という意志を示した。
「頼りにしてるわ、リラン」
そう言ってティアルは再び学園へ向けて歩みを進める。
その言葉は従者にとって喜悦の最たるもので、主からの絶対的な信頼である証。リランは思わず顔を綻ばせながら、ティアルの背中を追っていった。
路地は人通りが少なく、ただ地形に沿って優しい風が吹いていた。辺りには不揃いな足音が軽く響き、ティアルはまるで二人だけの世界に入り込んだように感じていた。
一方リランはこの入り組んでいる路地で、迷いなくティアルを導いていく。
「お嬢、そろそろ街を抜けますよ」
リランの言葉に、ティアルは前方へ視線を向ける。
その先には、建物に挟まれた道の終わりに、開けた風景が見え始めている。そこへ近づくにつれ、石畳の隙間や建物の壁に苔が徐々に姿を現し始めた。
「郊外付近は好んで住む人がいないので、ほとんどの建物が空き家なんです」
「そうなのね。私はこの雰囲気、割と嫌いじゃないかも」
やがて足元の感触が完全に苔の絨毯へと変わっていき、薄暗かった路地を抜けると、眩しい陽光が燦々と二人を照らした。
そして目の前に現れたのは、どこまでも広がる緑一色の草原と、雲ひとつない青天の景色だった。
そんな人の手が何一つ加えられていない自然の世界は、ティアルにとって、何よりも魅力的に思えた。
「……綺麗」
ティアルの口から自然と言葉が漏れる。
「お嬢、見えますか? あの大きな建物が、ルミレイア学園です」
リランが指を差す方向へ視線を向けると、広大な草原の中に聳え立つ巨大な施設が見えた。
王都でもこのような建築物はなく、その異質さは確かな威厳を感じせながらも、どこか幻想的にも見えた。
「ルミナークの郊外に、あんなものがあるなんて……」
ティアルはその光景に惹かれるように、自然と一歩を踏み出した。
「あ! その階段も苔だらけなのでお気をつけて!」
リランの言葉にふと我に返るティアル。
自分でも驚くほど未知なる世界の魅力に取り憑かれていることに気づいたティアルは、階段を降りる手前で軽く深呼吸をした。
「私、気が高ぶっていたみたい。こんな景色、王都では見られないから……」
「お嬢の気持ち、とても伝わってきますよ。だって今、私も同じ気持ちですから」
リランはそう微笑んで返した。
「それでは、時間も迫ってますし、あと少し頑張って歩きましょう!」
ティアルは小さく頷くと、草原へと続く苔むした階段を慎重に降りていった。
手すりはもちろん無く、傾斜もかなり急だった。少し重心を前に倒すと、そのまま真っ逆さまに落ちてしまいそうで、ティアルはほんの少し身震いした。
「本来であればこんな危ない階段を使うはずじゃなかったんですけどね。成り行きで路地に入っちゃったので、仕方なく……」
「大丈夫よ。冒険してるみたいで、なんだか楽しいじゃない」
緑に侵食された階段を一歩一歩踏みしめ、やがて地上へと辿り着く。
地上の優しい風がティアルの白銀の髪を儚げに揺らした。
せっかく整えた髪を乱されたリランは、隣であわあわとしているが、当の本人はあまり気にしていないようだった。
「学園はもう目の前ね。ここからは小走りで行きましょう」
「え? ちょっ、お嬢待ってください~!」
草原に細く敷かれた土の一本道を、ティアルは軽快に駆け抜けていく。
全身で感じる陽光と草の香りと追い風。それらは先程まで暗い思いを抱えていたティアルの気持ちを、前向きなものへと変えていった。
「お嬢が、あんなに楽しそうに……素敵です」
後を追うリランがそう呟く。しかしその声は風に乗って空へと溶け、ティアルの耳に届く事はなかった。
しばらく道なりに進むと、段々と整備の跡が見え始め、辺りに緑が無くなり土の地面へと変わっていった。
それを目処にティアルは歩調を緩め、いつもの静かな足取りへと戻す。
「……すごい」
今までに見たことのない光景が、その先には広がっていた。
来る者を歓迎する大きな金色のアーチ。その向こう側には、『学園』と一言で表すにはもったいない程の美麗な設備郡が広がっている。
その中でも一際目立つ一番大きな建物。おそらく、あれが本校舎で、これから毎日通うであろう学び舎。ティアルはそう心の中で想像を膨らませていた。
「これがルミレイア学園……間近で見ると、ものすごい迫力ですね。私達の屋敷より、全然大きいです」
後ろで見ていたリランも感心した様子で学園を眺めていた。
既に学園内部にはちらほらと生徒の姿が見え、少年少女達が笑い声を交えながらそれぞれの学園でのひとときを満喫していた。
そんな楽しそうな生徒達の姿は、ティアルにとってはとても眩しく感じられた。
「よく見たらこれは裏門のようですね。向こう側の、より大きな門からたくさん人が入ってきてます」
「そうみたいね。でもせっかくだし、私達はこちらから入りましょう」
「そうですね! せっかく目の前に入口があるのなら、わざわざ遠回りする必要もないです!」
リランはワクワクを隠しきれない様子で学園の中へと一足先に入っていった。
ティアルもそれに続くように、静かに歩みを進める。
「神様、お願いします。どうかこの場所で、私に『普通』を与えてください」
ティアルはアーチの前に立ち、祈るようにそう残すと、期待を胸に運命の門をくぐり抜けた。