2話 曙光
部屋から出るとすぐ、片側の壁が全て硝子で覆われた広々とした廊下が現れる。
淡い朝日が斜めに射し、丹念に磨かれた大理石の床を眩しく照らしている。
反対側の壁には、アストリフィア家の歴代当主達の肖像画が見下ろすように並んでおり、高く広がる天井には精緻な彫刻が施されている。
「やっぱり、いつ見てもこの家は広すぎるわ。こんなに大きな建物を造っても、使わない部屋の方が多いのに」
ティアルは天井を見上げながら、呆れた様子でそう言葉を漏らす。
「確かに、初めてここへ来た時は本当にびっくりしました。私がこんな立派なお屋敷に住む事になるなんて、夢にも思ってませんでしたから」
リランはティアルの方へ振り返ると、明るい無邪気な笑顔を見せる。
「でも今こうしてお嬢とお屋敷を歩いてるだけで、私はとても幸せに思いますよ」
「……そう。それなら、私も嬉しいわ」
その言葉を聞いた瞬間、リランの顔がぱあっとより一層明るくなり、感極まった様子を全身を使って表現した。
「お、お嬢!? そのようなお言葉は、リランにはもったいないです!! これはご褒美……? いや、普段からお嬢に尽くしてる私を評価した天からの贈り物かも!?」
両手で顔を覆い、ぴょんぴょん跳ねながら独り言のように早口で喋るリラン。
その様子にティアルは小さく息を吐き、呆然としたように、けれどどこか嬉しそうに目を細めた。
「リラン落ち着いて。こんな朝からよくそんな元気が出るわね」
「もちろん! お嬢のおかげで毎日元気溢れまくりですよ!」
リランはまるで子供のように目をキラキラと輝かせて、全身から有り余るほどの活気を放っていた。
そんな和気あいあいとしている空気に割り込むように、二人の背後からコツ、コツ、と規則正しい足音が響いてくる。
それに気づいたティアルがふとその方向へ視線を向けると、端整な身なりのメイドが廊下の角を曲がって現れるのが見えた。
その手には少し黒ずんだ雑巾が軽く握られており、ティアルと目を合わすや否や、ハッとした表情を浮かべて咄嗟にそれを背中の後ろに隠す。そして、慌てた様子でぺこりと頭を下げた。
「おはようございます、ティアル様、リラン様」
その言葉に反応して、続いてリランもそちらへ視線を向ける。
「あ! おはようございます、シェリンさん!」
「すみません、先程まで窓の清掃を行っていたもので……。朝からこのような物をお見せしてしまって大変申し訳ないです」
無礼を働いてしまったと思ったのか、シェリンは緊張した様子で深々と頭を下げた。
「いえ。こんな早くから屋敷のお仕事をしてくれているんだもの、むしろ感謝したいくらいよ」
「なんて有難いお言葉……! きょ、恐縮です!」
先程までの硬い姿勢から一転して、その表情にあどけない微笑みが浮かんだ。
「専属のメイドにまでなんてお優しい……! さすがお嬢です!」
そのやり取りを見ていたリランは、どこか感心したような口調でそう呟いた。
その瞳にはうっすら涙が浮かんでいて、感動のあまり今にも泣き出しそうな雰囲気だった。
「大袈裟な子ね……。私は上下関係とか、そういうのがあまり好ましくないだけよ」
一見、淡白そうな性格に見えるティアルだが、その根幹には『誰もが対等であるべき』という真っ直ぐな願いが秘められていた。
幼い頃から厳しい環境で育ってきたティアルは、感情を顕にする事こそ少ないが、その分他人を思いやる気持ちは人一倍強かった。
「ところで、本日は学園初日との事で……。僭越ながら、良い学園生活を送れるよう応援しております」
「ありがとう。私達がいない間、お屋敷の事はお願いするわ」
「かしこまりました! では、私はこの辺で失礼します」
シェリンは深く一礼すると、背筋を伸ばしたままの優雅な足取りで廊下の奥へと去っていった。
ティアルは彼女のその抜かりない所作に感嘆を覚えていた。
「よく出来た人ね。リランも見習ったら?」
チラッとリランの方へ視線を送るティアル。
「なっ、何をおっしゃいますかお嬢! 私だって負けてませんよ! お嬢の起床より二時間早く起きて朝食の準備や予定の確認もしますし、寝る前には屋敷全体の清掃も……!」
リランがそこまで言いかけて、遮るようにティアルが口を挟む。
「冗談よ。あなたがどれだけ頑張ってるか、私はちゃんと知ってるもの」
「もー! お嬢はいじわるです!」
そう言って頬をめいっぱい膨らませ、軽くぶんぶんと腕を振るリラン。
その時――ぐぅぅ、とティアルの小さなお腹の音が廊下に響き渡った。
「……ご飯にしましょうか」
ティアルはいつもの無表情のまま、少しだけ間を置いてそう呟いた。
「すっかり忘れてました……! 私、先に厨房で最後の仕上げをしてきますので、食堂で待っていてください~!」
リランは申し訳なさそうに眉を下げながら、やや焦り気味な小走りで廊下を駆け、奥の階段を下っていく。
その姿が見えなくなった後も、ティアルはしばらくその方向を見つめていた。
はぁ、と微かに息をついたティアルは、その後を追うようにゆっくりとマイペースに歩みを進めた。
階段を降りる手前、微かな小鳥のさえずりがティアルの耳に届くと、自然と足が止まった。
分厚い硝子の向こう、見えるのは広々とした庭園の上空を飛ぶ二羽の燕。ティアルは手を目の上に翳し、眩しげに外を眺める。
大空を描くように旋回する燕たちは、木々の間を縫って優雅に飛び回っている。
それを見つめているティアルの青い瞳は、どこか切なく、そして静かに澄んでいた。
しばらくして燕たちが空の彼方へ消えていくと、ゆっくりと目を伏せ、無言のまま一階へと続く階段を降りていった。
その先に見えるのは、広々としたエントランスホールだった。
高い天井には豪奢なシャンデリアが吊るされ、壁際のアーチ窓から入る陽の光を受けてきらきらと輝いている。
早朝の屋敷は、まだシンと静まり返っており、エントランスを横切るティアルの足音だけが軽く響き渡っていた。
西の扉を開け、見慣れた内装の廊下を上品な足取りで進んでいく。毎朝通っているルートなだけに、彼女の動きに迷いはなかった。
やがて大きな観音開きの扉の前に差し掛かると、ティアルは片方のドアノブにそっと手を添え、静かに押し開けた。
「あっ、お嬢! こちらです!」
焼きたての甘いパンの香りと共に、リランの明るい声が聞こえてくる。
声のする方へ視線を向けると、ティアルがいつも座っている席に湯気の立つ料理が並べられ、その隣に息を切らしながらも万遍の笑みを浮かべるリランがこちらを見ていた。
「そんなに慌てて用意したの? すごく息が切れてるけれど」
「ぜぇ……ぜぇ……お、お嬢を待たせるなんてとんでもないですからね! ささ、私の事は気にせず熱いうちにどうぞ!」
ティアルは一瞬リランを見つめ、それに応じるようにひとつ瞬きを返す。
そして待ってましたと言わんばかりの軽いステップでリランの元へ歩み寄り、周りより少し高貴な椅子に腰をおろした。