1話 白と黒
お久しぶりです。約7年ぶりの執筆になります。
新作と共に、活動を再開します。
漆黒の霧が、果てのない虚空を覆っていた。
風も音も、たった一筋の光さえも存在しないその空間に、ぽつりと一人の白い少女が立っていた。
『世界の終わりは近い……』
どこからともなく低く冷えきった声が響く。
その声は誰かに似ているようで、全く知らないような、心の奥底を揺さぶるような声だった。
『あとは、お前さえいなければ――』
その瞬間、霧の奥から黒い影が姿を現した。霧と暗闇のせいでその正体までは分からない。が、その影からはドス黒くて禍々しいオーラが肌を通して少女にひしひしと伝わってくる。
「誰……?」
少女がそう問いかけても答えは返ってこない。
ただ影はゆっくりと、確実に距離を詰めてきていた。しかし逃げようにも足は棒のように固く動かない。
気がつくと、それは既に少女の目の前まで迫ってきており、輪郭のない影から腕のようなものが少女目掛けてゆっくりと伸びる。
闇が少女の視界を飲み込もうとしたその刹那――。
「……ッ!」
勢いよく瞼が開かれる。
視界には先程までの空間はなく、見慣れた自室の天井だけが広がっていた。
額には冷や汗が滲み出て、息も荒くなっていたが、少女は夢だったんだと察しすぐにいつもの落ち着いた顔つきを取り戻す。
額の汗を手の甲で拭い、少女はゆっくりと上体を起こした。
それと同時に、コン、コン、と控えめに扉をノックする音が聞こえた。
「お嬢、失礼します……って、今日は珍しく先に起きてますね」
扉を開けて現れたのは、真っ黒なショートヘアの少女だった。くせっ毛なのか毛先は少しふわっとはねている。
他にもボレロやシャツ、膝下のフレアスカートにローファーなど、身に付けているものも全て黒一色で、まるで『黒』そのものを具現化したかのような少女だった。
「ええ、おはようリラン」
淡く微笑むでもなく、ただ静かに言葉を返す少女。
彼女の名はティアル・アストリフィア。ここルミナーク王国が誇る名門貴族、アストリフィア家の若き令嬢である。
リランと呼ばれた黒い少女は、そんな彼女に仕える執事だった。
主と従者という関係でありながら、その雰囲気はまるで長年寄り添った姉妹のようにも見えた。
「今日はいつも以上にすごい寝癖ですね。身支度の前に、私が梳かして差し上げます」
リランの言葉に、ティアルは無言で自分の髪へと視線を移し、ふわりとはねた髪の一部を指先で少しいじいじと撫でてみる。当然それだけでは直る気配もなく、ティアルは小さくため息をついた。
「そうね、お願いするわ」
そう呟くと、ティアルは毛布をどかしてベッドの縁に腰を寄せた。そして小柄な身体をひょいと浮かせ、地面のスリッパに向かって飛び降りた。
その行動を見たリランは口元を微かに綻ばせる。ティアルは特にそれを気にする素振りも見せず、そのまますたすたと鏡台の方へと歩いていった。
パジャマは乱れ、派手な寝癖もついており、普通ならだらしないと映るその姿だが、不思議と凛とした気品が滲んでいた。
鏡台の椅子に腰を降ろすティアル。隣の開いた窓からは眩しい朝日が射し込み、白い大理石の床を照らしている。レースカーテンを揺らしながら優しく吹き込む早朝の風が心地よいのか、ティアルは小さく欠伸を漏らした。
「お嬢~。もう少しお嬢様としての自覚を持ってはいかがですか?」
「……別に、今はリランしかいないんだからいいでしょ?」
「そういう問題じゃないんですってば……」
やや呆れ気味に言うリランだが、その声には柔らかい音色があった。
こういったやりとりが彼女にとって何よりも大切で、優雅な時間だという事がそのゆるい微笑みから伝わってくる。
「では、失礼します」
リランは一度咳払いを挟んでからそう言い、鏡台の引き出しから艶のある櫛を取り出して、慣れた手つきでティアルの長い白銀の髪をそっと梳かし始めた。
櫛が通る度に無造作にはねた寝癖が少しずつ整っていく。朝日を受け段々と光を帯び透き通っていくその髪は、まるで女神の目覚めを象徴するかのようだった。
「はい、できました!」
そう言って満足げに櫛を外すリラン。ティアルは目の前の鏡に映った自分を一瞥すると、小さく頷いてリランの方へと視線を向ける。
「ありがとう、リラン」
無表情ながらも、優しさのこもったような声でティアルは言った。
突然の主の感謝の言葉に、リランは一瞬ぽかんとした表情を浮かべた後、反射的に目線を逸らして頬を赤らめた。
「い、いえ。執事として当然の事をしただけですから」
その言葉とは裏腹に、リランはどこか落ち着きがなく嬉しさを隠しきれていない様子だった。
そんな彼女をお構い無しに、ティアルは部屋の端にあるクローゼットへと歩みを進める。
「お嬢、お着替えですね? このリランめがお手伝いいたします!」
「結構よ。着替えくらいは自分でできるわ」
「はい……」
ティアルの返しは至極当然なものだったが、リランはどこか寂しげな様子で渋々背中を向けた。
その背中を見たティアルはふと何かを言いかけたが、結局言葉にはしなかった。
クローゼットの扉を開けると、ティアルは手馴れた様子でいくつかの衣類を選び取っていった。
そして一式揃えたのを確認した後、パジャマに手をかけ、着々と着替えを進めていく。
その途中ふとリランの方へ目を向けると、どこか落ち着かない様子で窓の外を眺めていた。ティアルは小さくため息をつくと、着替えの手を止めて優しく声をかける。
「別に怒ってないわよ。そんなにおどおどしなくても……」
「は、はい! お気遣いありがとうございます!」
背を向けたままリランは畏まった様子でそう返した。
「そんなに畏まられると、逆に気まずいわ」
「すみません……でも、そういうところもお嬢の素敵な所ですから!」
「何それ。よく分からないわね」
言葉だけ聞くと突き放すようだが、その声色は柔らかく、冗談めいた明るさを含んでいた。
それを聞いたリランは、後ろで手を組んで恥ずかしそうにモジモジと身体を揺らしている。その仕草だけでティアルは、彼女がどんな表情をしているのかわかる気がしていた。
その後ろ姿を見届けた後、ティアルはクローゼットの方へ視線を戻した。
数分後、着替えを終えたティアルはそっとクローゼットの扉を閉め、リランに声をかける。
「お待たせ。多分大丈夫だと思うけれど、最後にチェックお願いしてもいいかしら?」
「もちろんですお嬢!」
声をかけられるや否や、リランは急にいつもの元気を取り戻したように、ティアルの方へと軽やかな足取りで駆け寄った。
ティアルが身に纏ったのは、光り輝くような白を基調とした正装だった。
真っ白な長袖のパフスリーブのブラウスに、膝下まで広がるオーバースカート。純白の手袋はその指先まで上品に包み込み、さらに令嬢たる品格を醸し出している。
白のタイツやストラップ付きのローファーまで抜かりなく揃えられたその衣装は、シンプルなデザインながらも彼女の清廉さを湛えていた。
銀糸のように煌めく髪は腰の辺りまでふわりと伸び、端整な顔立ちと相まって、その凛とした佇まいは誰もが思わず振り返ってしまいそうな存在感だった。
リランも例外ではないらしく、目を逸らす事も忘れたようにじっと主の姿を見つめ、しばらくの間その美麗さに圧倒されていた。これまで幾度となく見てきた容姿のはずなのに、まるでこの日初めて目にするかのような反応に、ティアルは小さく首を傾げる。
既に完成されたその姿にはもはや手直しの必要などなく、リランは何やら誇らしげな表情でこう漏らした。
「……完璧です。今日のお嬢も、とってもかわ……いえ、お綺麗ですよ」
「そう、それなら安心だわ」
相変わらず淡々としている反応だが、ティアルの頬はほんの少し赤みを帯びていて、小さな喜びが浮かんで見えた。
燦然たる白を纏ったティアルと、深い闇のような黒を纏ったリラン。
まるで光と影が寄り添うように、二人の姿は極めて対照的だった。
色や雰囲気、性格など、どれもまったく正反対な二人なのに、完璧な均衡が存在している――。そう思わせる程の、美しき調和が確かにそこにあった。
「それでは、このまま朝食にしましょうか。お嬢の起床に合わせて下ごしらえもばっちりですので、すぐに出来たてをご用意します!」
そう言ってリランは楽しげな足取りで部屋の扉へと向かった。ティアルは軽く相槌を打ち、その後ろ姿を追って静かに歩き出した。
ティアルとリランの印象を細かく伝えたかったので、1話はかなり詩的に仕上げました。
2話からはもう少しテンポよく進むと思います。