運命
「司はさ、運命ってあると思う?」
雫は司に問いかけた。
「運命?
物理学科だからな。神様はサイコロを振らないという古典物理学的考えもシュレディンガーの猫のような量子力学的考えも持ち合わせている。」
「なるほどね。
未来予測は確定している部分もあるだろうし、確率論的な部分もあるってことね。」
「発言者の僕よりも解釈がとても的確だね。
雫の言う通り、ある程度未来は決まっていることは肯定するが、その未来が変えられないことはない。そう信じているよ。」
「ふうん。どっちつかずの答えね。」
「じゃあ、運命は変えられる!」
「男らしい! じゃあ、そんな男らしい司に質問。」
司なら私の運命も変えられる?」
「雫の運命?」
「うん。私の運命。
私の運命は決まっているの。私は変えることは出来ない。でも、司なら変えてくれる?」
「雫がその運命に従うことが嫌なの?」
「分からない。
遠い昔に、私は運命に抗うことはやめたの。そして、今はその運命に従うことはいいのかなって思っているわ。
でも、その考えすら、運命に支配されているのかなって思うの。」
「典型的な古典物理学の誤謬だな。」
「ああ、確かにそうかも。全部決定論で考えちゃってるわ。
アインシュタインと同じ間違いしちゃってるわ。」
「残念ながら、今の物理学ではアインシュタインの信じたラプラスの悪魔は否定されているのさ。」
「そうね。」
「昔の古典物理学が進んだ頃、全ての物体の動きは物理法則によって未来予測することが可能なのではないかと思われていた。
その未来予測が可能であれば、全ての未来は決定している。
この考えのモデルとして生まれたのがラプラスの悪魔だ。ラプラスの悪魔は否定することができなかった。実際、あの有名な物理学者であるアインシュタインでさえ、その考えを信仰していた。
それゆえに、アインシュタインは『神様はサイコロを振らない』と言った。これは、物事の未来を決める神様は、サイコロのような確率に頼る道具を使うことは無い。未来は物理法則によって、決定されている。
だから、神様はサイコロを振らない。
しかし、この考えは後に間違いだと分かった。量子力学の世界では、完全にランダムな確率的な物体の動きが観測されたからだ。」
「説明はありがたいけど知っているわよ。」
「物理学科としてのうんちくを垂れ流したかったんだよ。
で、何を言いたいかと言うと、俺は運命を完全に信じちゃいない。その方が面白いからね。」
「面白い?」
「だって、神様がサイコロを振らないなら、誰も楽しくないだろう?
神様がサイコロを振らないなら、俺達は物理法則に支配されたまま、動き続ける無機質な人生だ。それに、神様もサイコロを振って遊ぶことができないから、無機質な俺達を眺めているだけだから、神様も俺達もつまらない。
でも、神様がサイコロを振ってくれるなら、俺達も神様も楽しいはずだぜ。神様はサイコロを振って、俺達がどんな動きをするのか楽しむことができるし、俺達はどんな目が出て、どんな動きになるのか楽しむことができる。
神様と俺達ですごろくをしている感覚だな。」
雫は吹き出して、笑い始めた。
「なんだよ! そんなおかしかったか?」
雫はしばらく笑い続けた後、喋り始めた。
「……いや、本当、司らしいなって。
神様とすごろくか。確かに、神様がサイコロを振るなら、そう言うことも考えられるね。私は考えたこともなかったよ。きっと、司は優秀な科学者になるよ。」
「なんか、馬鹿にされている気がするな。」
「いいや、馬鹿になんかしてない。
司なら、私の運命を変えてくれるかもね。」
「ところで、雫の運命ってなんなんだ?」
「それは言わない運命になっているわ。」
「なんだよそれ! もったいぶるなよ。」
「あれ? 司は私の運命を変えてくれるんじゃなかったの?」
雫はそう言って、にやりと笑った。
「じゃあ、まず1つ運命を変えてみようか。」
「私の口は堅いわよ。」
雫は人差し指を自分の唇に当てた。
「見た感じだと、硬そうには思えないけどな。」
司は雫の顔を引き寄せて、唇にそっとキスをした。雫の唇はとても柔らかく、唇から伝わってくる体温は温かかった。
これが司と雫の初めてのキスだった。
それから2人は何度もキスをした。だが、司が運命に閉ざされた雫の口を開かせることは出来なかった。
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「雫とは付き合っていたよ。」
「もしかして、あの講義より前に出会っていたのか?」
「証拠は提示できないけど、雫との出会いは2年春の柊教授の講義だよ。だから、この洋館の穴ができた後に出会ったことは変わらない。」
「……やっぱり好きだったのか?」
「政略結婚じゃあるまいし、好きじゃないのに付き合うカップルなんていないよ。」
「……そうだよな。」
「いつから勘付いていたんだ?
他のメンバーがこのことをゲストルームの暴露大会で言わなかったから、全くバレていないと思っていたけどな。」
「確かに、上手く隠していたと思うよ。実際、他のメンバーは気が付いていなかったみたいだしな。でも、俺は雫と司が喋っている所や雰囲気から、なんとなく分かったよ。
ただ、なんで交際を隠すんだろうとは思っていたよ。」
「俺と雫が付き合っていることを隠したのは、雫の願いだった。サークル内では恋愛が何となく禁止の風潮ができていたらしい。なぜか、美空と圭人の2人は許されていたみたいだが、新しいカップルの誕生は駄目だったらしい。
詳しくは聞かなかったが、美空と圭人の2人のカップルができた時に、色々あったらしいな。」
「なら、雫は彼氏である司を登山サークルに誘ったんだ?」
「登山サークルは今言ったいざこざのせいで、なんとなく暗い雰囲気が漂っていたから、新しい空気を入れたかったらしい。だから、俺と雄馬の2人を入れたんだってさ。」
「俺は雫のサークル勧誘を二つ返事で承諾したが、そんな思惑があったんとはな。」
「そういうことだったらしい。」
「……じゃあ、雫と付き合っていた人間として、雫が俺達を殺す理由を知っているか?」
「……運命だったからかな。」
「運命?」
「雫は運命には抗えないものだと考えていた。だが、俺に運命を変えて欲しいと思っていた。
俺はその運命の存在を最後まで聞くことができなかったが、確実にその運命の存在が雫の死に関わっていると考えている。」
「まあ、死んでいないかもしれないけどな。」
「あっ、そうだったな。まだ雫は死んだと決まった訳じゃなかったな。」
「でも、その運命の話を早めにしてくれても良かったんじゃないか?」
「運命なんて曖昧だし、何の足しにもならない情報だと思ったんだ。それに、雫はサークル内で運命の話はしなかったから、俺と雫の関係がバレてしまうんじゃないかと思って、黙っていたんだ。」
「まあ、そうか。それを言ったら、雫を死なせたサークルのメンバーへの復讐と捉えられてもおかしくないからな。」
「だが、もう俺達が犯人じゃない推理が出た今なら、言ってもいいかなと思ってな。」
「なるほどな。
……だが、運命か。どんな運命が雫をこの殺人に向かわせたんだろうな?」
「それは雄馬が考えておいてくれよ。俺は考え抜いた末に、分からないという結論にたどり着いたんだ。」
「じゃあ、無理だ。」
「まあ、考えておいてくれよ。まだ朝までは時間があるからな。」
「確かに、眠気覚ましにはちょうどいい歯ごたえのある考え事だ。」
雄馬は少し笑いながらそう言った。
「……ところで、このランプと懐中電灯は1日持つのか?」
司はチェストの上に置いたランプを持ち上げる。
「持つか持たないかは分からないが、点けておいた方がいいだろうな。こういう全員が集まっている状況は、停電の闇に乗じて殺すのが普通だろ?」
「かと言っても、ランプは使い過ぎで切れるかもしれないぞ。」
「じゃあ、1人が目をつぶっておこう。」
「どういうことだ?」
「片方が目をつぶっておけば、闇に目が慣れるから、突然ランプの明かりが消えても対応できる。」
「でも、目をつぶったら、眠ってしまうかもしれないぞ。」
「代わりばんこで目をつむる方と目を開ける方を変えればいい。そうすれば、一夜を明かせるだろう。」
「いい案だが、裏切られたら終わりだな。」
「何言っているんだ? 俺達2人は犯行は不可能だっただろう。
俺達2人がそろっている時に人が殺されているんだから、互いが犯行が無理であることは証明し合っている。だから、司は俺を信じるに足るし、俺は司を信じるに足る。
そうだろう?」
「その通りだな。俺達に犯行は無理だ。」
「だろ? だから、互いに信じあっていこうじゃないか?」
「分かった。雄馬を信じるよ。」
「先にそっちが目をつぶっていいぞ。目をつぶるだけで大分体を休められるからな。」
「お言葉に甘えて、少し目をつむろうかな。別に徹夜するのはいけるだろうが、今日1日は心も体も疲れることが多すぎた。とても1日も経たないうちに、こんなにも人が死ぬとは思っていなかった。」
「同感だ。」
「だから、少し休む。寝ていたら、起こしてくれ。」
「ああ、任せろ。」
司は1度部屋の周りを見渡した。ベットの上の来実はすやすやと寝ている。雄馬はライフル銃を持っていた。司はその雄馬の姿を見ながら、ゆっくりとまぶたを閉じた。
これが生きた雄馬の最後の姿だった。




