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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夜行列車

作者: 白烏

 窓には陰鬱(いんうつ)な男の顔が映っていた。ガタン、ゴトンという走行音とともに男の顔の向こうでは、夜の景色が左から右へと流れていく。


 おれは景色の方に集中しようとしたが、どうしても陰鬱な顔が目に入ってしまい、さらにそれがおれ自身の顔であるので、見れば見るほど気分が萎えてきた。


 おれは逃げるように視線を車内に移した。乗客はおれを合わせても数人程度しかいないようで、とても静まり返っている。走行音以外に、話し声や身じろぎする音すらも聞こえてこなかった。


 特にやることもなかったので、おれは座席にもたれながら中空をぼんやり眺めた。そのままじっとしていると、思考だけがひとりでに動き出し、ここ最近の記憶を漁りはじめた。



「好きな人ができたの」


 と結婚を考えていた恋人に言われた。


 はじめは何を言われているのか理解できなかった。聞き返してみたが、彼女の言葉が変わることはなかった。好きな人が――。ようやく意味が呑み込めてきたおれは、彼女を引き留めようと話し合いに持ち込んだが、それも空しく、結局彼女は離れていってしまった。一緒に暮らしていた部屋にはおれが残ることになった。けれども、二人の生活に慣れていた心にはその部屋は広すぎたし、何より、彼女のことがまだ好きだった。唐突な終わりは、身体の一部を無理やりもがれたかのようだった。


 ちょうどその頃、地道に積み上げてきた仕事の成果を上司に横取りされるということが起きた。情熱も時間も注ぎ込んできたものが一瞬にして奪われ、「君は今まで何をしていたんだ?」と上役に言われる始末だった。頭が真っ白になり、夢でも見ているような心地だった。が、それは現実に起きたことだった。上司に対する怒りも当然あったが、それ以上に虚無感が重くのしかかってきた。


 恋人との別れが重なったことも相まって、崩れるのはあっという間だった。


 おれは仕事を休みがちになり、光を遮った部屋で過ごすことが増えていった。生活が乱れ、夜に寝付けなくなり、日が昇る頃にようやく眠気がやってきた。毎日だるくて疲れていた。何をするにも億劫(おっくう)で、気がつけば全てがどうでもよくなってきていた。仕事も恋も、そして己の人生さえも。生きる意味を見失っていた。


 いつしか、この現実世界からずっとずっと離れたどこかに行きたい、と願うようになっていた。誰か、どんな手段でもいい。おれをどこか遠くへ連れ去ってくれないだろうか……。


 その願いだけが原動力のように、おれは夜な夜ないたるところを徘徊するようになっていた。


 そんなとき、一本の夜行列車に出会った。黒光りした車体は、まるで棺のように厳かで、静かな冷たさを放っていた。


 これだ、と思った。おれを現世から連れ出してくれるもの――。


 ほとんど衝動的で、おれは引き寄せられるようにしてその夜行列車に乗り込んだ。



 思い出したくないことを考えてしまった……。


 おれは暗い記憶の再生を断ち切るように、一度窓の向こうに意識を移した。相変わらず夜の景色が流れていたが、やがて、トンネルにでも入ったのか窓の外は真っ暗になってしまった。おれの顔が今度はよりはっきりとそこに描き出される。ため息を漏らしながら、ふたたびおれは首を正面に戻した。やはり、やることはなかったので、思考のひとり歩きに注意しながら、ぼんやり中空に視線を彷徨(さまよ)わせる。


 違和感を覚えたのは一時間ほど経過したときだった。携帯電話で時間を確認したあと、おれは窓を見た。窓の外は未だに真っ暗だった。トンネルに入ったにしては長すぎやしないだろうか。おまけに、身体がやや前のめりになるような感覚が微かにあった。その感覚は徐々に大きく明確になり、どこかを掴んでいないと前に転びそうになるほどだった。まるで、下りに差しかかったジェットコースターのようだった。何が起きている? おれはわけがわからないまま、座席にしがみついていた。その状態はしばらく続いた。


 ようやく平坦な道になったとき、車内が一度だけ激しく揺れた。その衝撃のあと、ゴッと鈍い音がおれの耳に届いた。気になって音のした方向に身体を寄せると、通路で乗客のひとりが倒れているのが見えた。起き上がろうともせず、ぴくりとも動かない。ほんの少し待ってみたが、誰かが駆けつけてくる気配はなかった。


 これはまずいのではと思ったおれは、肝を冷やしながら倒れている乗客の元に急いだ。


「大丈夫ですか?」と声をかけてみるも、反応はなかった。うつ伏せになっている肩を揺らしても同様だった。


 乗客の状態を把握するために、その身体を慎重に仰向けにしたときだった。


 おれは、ひっと短い悲鳴を漏らしながら乗客の身体を投げ出してしまった。尻もちをついてしまう。


 乗客はすでに絶命していた。


 見開かれたままの濁った目、口から顎にかけて流れている大量の真っ赤な血、身体にある醜い裂傷。とても見ていらない有様だった。倒れただけでは到底負うことのできない傷は、人の手が加わっていることを容易に想像させた。


「だ、誰か! 誰かいませんか!」


 おれは何度も叫んでみたが、一向に人がやってくる気配がなかった。


 気力を振り絞りながらどうにか立ち上がったおれは、助けを求めてそばにいた乗客に近づいた。が、今度もおれは悲鳴をあげることになった。どうして――。その乗客にもすでに生命がなく、腰から先がちぎれていた。さらに他の乗客を訪ねたが彼らは全員生命を失っていた。首が取れかかっている者、身体がありえない方向に曲がっている者、四肢がバラバラになっている者――。車内は殺戮(さつりく)の行われた現場のようだった。


 おれはその場にうずくまり、胃の中のものを全て吐いてしまった。ひどく気分が悪く、脳裏で混乱が渦巻いている。


 一体どうなっているんだ!


 とにかく別の車両に避難しようと考えたときだった。車両間を繋ぐドアが開き、乗務員がひとりこちらへやってきた。


「お客様、どうかされましたか?」と乗務員は言った。


 おれは乗務員に縋りつく勢いで迫った。


「あの、何人もの死体が――」


 途中で言葉が止まり、おれはふたたび通路に尻もちをつくことになった。それもそのはず、乗務員の顔が骸骨だったからだ。虚ろな眼窩(がんか)でこちらを見下ろし、露わになっている首の骨を訝しそうに傾げていた。大丈夫ですか、と言って差し伸ばされた手も白い骨によってできていた。


 車内の状況も含め、あまりにも信じられない光景だった。


 何なんだ、この列車は……。思考が追いつかない。おれの脳みそは半ば麻痺していた。


「この列車は――」どうやら無意識のうちに声が出ていたらしい。骸骨の顎が動き、そこから返答の言葉が発せられる。「死者を埋葬するための列車です」


「死者を、埋葬?」おれは耳を疑った。


「ええ、その通りです。この列車は行き場を失ってしまった死者を乗せ、埋葬することを目的に走っているのです」


「……何の冗談だ?」


「冗談などではありませんよ」


 骸骨はついでのように付け加える。「終着点は地中の奥深くでございます。到着後、棺となるこの列車は地中に留まり続けます。つまり、土葬されるのです」


 何を言っているんだ、この骸骨は。とおれは思った。そして、骸骨と話している状況そのものが信じられなかった。


 きっと、たちの悪い冗談か悪戯に違いない。テレビ番組でも恐ろしい設定にタレントを巻き込み、最終的にはそれが嘘であることを明かして驚かせる、ドッキリというものがあるではないか。今回は一般人を巻き込んだドッキリで、どこかにテレビ番組のスタッフが隠れているのではないか。


「ああ、これはドッキリですね」とおれは言った。「もう十分ですよ、出てきてください。いるんでしょ、カメラをもった番組スタッフが」


 しかし、いつまで経っても番組スタッフは出てこない。


「わかりました、じゃあこちらから探し出してみせますよ」


 全く、手が込んでいるな。おれは呟きながら立ち上がり、最後尾の車両から出て、次々と前の車両を訪ねていくことにした。が、そこにいるのは死体だけであることがじきにわかってきた。前に行けば行くほど、その数は多くなり有様も酷いものになっていった。うじが湧いている者や(はらわた)から臓物がこぼれている者。さらに酷いものは原型すらなく真っ赤な肉塊となって座席に無造作に置かれていた。()()()()()()()()()()()で、とても直視することができなかった。俄かに胸がムカつき、同時に恐怖もせり上がってくる。


 おれは逃げるように先を急いだ。どこにいるんだ、番組スタッフは――。


 足先に何かが当たった。よく見るとそれは人の指だった。「うわあ!」と悲鳴がおれの口から飛び出る。親指、人差し指、小指。いくつかの指が芋虫みたにそこかしこに転がっていた。何だよ、これ。避けようとして飛び越えたところで、やわらかくて丸いものを踏みつぶしてしまった。ぐしゅり、と奇妙な音がする。目ん玉――という単語が過ったが、素早く頭を振ってどうにか考えないようにした。焦ってその場を去ろうとしたが、血だまりに足を滑らせて顔から思い切り転んだ。誰のかもわからない血が口内に入り、鉄の味が広がる。通路は赤い海で満たされていた。咄嗟に掴んだものがあったらしく、手元を見ると目のない頭部が握られていた。叫んだつもりだったが、声がでなかった。


 おれは頭部をどけながら慌てるように立ち上がり、口の中の血を吐き出した。恐怖で足が震えてしまう。下手をするとそのままへたり込んでしまいそうだった。


 今度は足を滑らせないように慎重に進んだ。ただし、視線はなるべく影響のない天井付近に向けながら。そうでもしないと尋常ではない有様に気が狂ってしまいそうだった。だが、生きている人間を見つけないといけないので、時々仔細に周りを確認しなければならず、それが辛かった。薄暗い車内には死体が所狭ましと鎮座し、通路だけでなく壁や窓も血で濡れていた。怪物の胃の中を彷徨っているかのようだった。


 ほとんど期待はできなかったが「誰かいるんだろう?」声を張り上げてみる。当然のように応答はなかった。ただ走行音のみが響いているばかりだった。


 まるで現実感がなかった。けれど、それらは決定的に存在していて、おれは確かにその中にいることを強く実感させられていた。


 次第に鉄の匂いや腐臭が濃くなっていった。前に行くごとに濃密になり、堪りかねたおれは一度立ち止まって吐いた。胃液しか出てこず、喉に痛みが走る。胃が痙攣する。臭気で視界が霞んでいくようだった。


 いくらドッキリだとしても、ここまで徹底する必要はあるのだろうか、とおれは思った。同時にドッキリである可能性を否定しはじめている自分がいることに気がついた。


 車両を移動するだけで体力が大幅に削られた。ともすれば、気力を奪われそうになりながらも、おれは外へ繋がる出口もついでに探した。もしかすると、脱出用の出口が設けられているのではと考えたのだ。そして何より、一秒でも早くこの空間から解放されたかった。しかし、外へ繋がるドアはおろか、窓さえ開けることができなかった。どれほど力を込めたところで、びくともしないのである。


 どうにか運転席まで足を運んだ。が、そこは無人だった。ひとりでに機械が動いているだけであり、愕然としたおれは膝から崩れ落ちた。番組スタッフが見当たらなくても、運転席になら生きた人間がいるだろうと期待していたのだ。列車を走らせるには操縦士が必要ではないか。交渉ができたかもしれないのに、見事に裏切られた。


 おれは撤退を余儀なくさせられた。


 元の最後尾の車両に戻っても、やはり、死体と骸骨だけで、番組スタッフの存在はもちろん、活動している生命さえ見当たらなかった。いくら待っても、ドッキリの成功を知らせる声は聞こえてこなかった。


「気は済みましたか?」と骸骨は低く穏やかな声音で言った。


「ふざけるのも大概にしてくれ」


 おれは、ふたたびこみ上げてくる吐き気を押さえつけるのに必死だった。胸のムカつきが収まらない。手で口元を覆う。


「ふざけてなどいませんよ」


「気分が悪い……。途中で降ろしてくれないか?」


「それはできません」と骸骨が言った。「たとえ、降りたとしてもそこは地中の深部ですよ。帰ることなどできません」


 地中の深部。おれは違和感を覚えた際の状況を思い出した。では、あのときの身体が前に傾く感覚は、列車が地中に潜っていくことで発生したということなのか。だから、窓の景色がずっと真っ暗なままだったのか。地中に景色などありはしないのだから当然だ。


「じゃあ、折り返すまで待つことにするさ」とおれは言った。


「折り返しはしませんよ。この列車は終着点についたのち、永遠にその場で留まり続けます。さきほども申し上げた通り、この列車は土葬されるのです」


 おれはキッと骸骨を睨みつける。「ふざけるな!」


「ふざけてなどいませんよ」


「どうにかして、おれをここから出してくれ! もうここにはいたくないんだ!」


「ですから、それはできません。わたしにはどうしようもないのです」


 今この場において、骸骨以外に交渉できる者はいなかった。


「たのむ、金ならいくらでも払う」


「お金の問題ではないのです」


「わかった! 何でも言うとおりにする。だから――」


 おれの言葉を受けた骸骨はしかし、首を横に振るばかりだった。


「いいかげんにしろ!」


 迫りくる焦りが背中を押すように、おれは骸骨に掴みかかった。「ここから出せ!」


 できません、と骸骨は調子を一切崩さずに言った。


「そもそもお客様自らこの列車に乗車したではありませんか」


 おれは一瞬押し黙った。たしかに、おれ自身が乗車することを選んだ。ろくに行き先も確認しなかった。でも、まさか地中に埋められに行くなんて誰が予想できただろう。


 闇を孕んだ眼窩が笑ったような気がした。


 瞬間、怒りの感情がおれの中で閃いた。


「いいから、何とかしろ!」


 勢い余り、おれは骸骨の身体を壁に打ちつけてしまった。衝撃で骸骨はいとも簡単にバラバラになり、通路に散らばっていった。


 途端に、静けさが戻ってくる。


 無機質な走行音だけが周囲を満たしていくようだった。


 骸骨はもう喋らなかった。おれは白い骨たちを眺めながら、しばらく呆然と立ち尽くしていた。怒りや焦りといったものは相手がいなくなるとたちまち消え失せ、代わりに、諦めにも似た感情が滲みはじめた。思考はぼんやりとしか働かず、果てしない迷路に迷い込んでしまったかのようだった。


 どうしてこんなことになった?


 やがて、おれはおもむろに天井を仰いだ。


 ああ、これはきっと夢なんだ、とおれは一つの答えを導き出した。


 実際のおれは部屋で眠ったままなのだ……。おれ自身がどこか遠い場所へ行くことを強く望んだせいで、こんな恐ろしい夢を見ているに違いない。頬をつねって確かめてみるか。……痛い。何て精巧な夢なのだろう。


 車内の、天井の白々しい明かりが目に刺さるようだった。


 目が覚めたら、今の会社を辞めよう――。そうだ、それがいい。そしてたっぷり休息を取ってから新しい仕事を探してみよう。孤独はすぐには埋まらないだろうけれど、環境が変わればまた次の恋が巡ってくるかもしれない。おれは微かに笑みを浮かべた。


 不意に、列車の速度が緩やかに落ちてきた。


 やや経ってから、その動きが完全に止まる。


 終点です、という声が背後から聞こえてきた。


 おれはゆっくりと振り向き、通路に転がっている頭骨に視線を合わせる。頭骨の顎が動く。


「みなさま、どうか安らかにお眠りください」


 一拍の間が置かれ、それから――、


「おやすみなさい」


 車内の明かりがパッと消えた。


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