槇野葉月×矢吹冬馬 1
「槇野葉月です。聴くばかりで演奏はしませんが、音楽が好きです。よろしくお願いします」
新しいクラスになって初めてのホームルームで、自己紹介をした時、矢吹君の印象は最悪だった。
私の自己紹介に、「槇野葉月って、なんか聞いたことあるってか、何かに音が似てる気がするんだよなー」と呟いた、浜田君という男子がいて、その声にぼそりと反応したのが、私の後ろの席の男子。
「…柿の葉寿司…?」
「…ぶっ」
…それが、矢吹君だった。
笑う浜田君も最悪だが、変に反応した矢吹君も嫌だ。
無言でジロリと睨むと、矢吹君は今更悪いことを言ったと気づいたのか、「ご、ごめん」と小さな声で謝った。
「…人の名前いじるなんて最低」
「…そんなつもりは…いや、ごめん」
悪気はなかったようだが、それって余計タチが悪い。
その上、自分の自己紹介はぼそぼそ何言ってるかわかんないし。前髪長すぎて顔の半分隠れてて陰気だし。
自分からは極力関わらないようにしよう、と私は決心した。
…まあ、何の因果か、その日のうちに決心は崩れ去るのだが。
その日の放課後、私は友達を待って誰もいない教室で音楽を聴いていた。
兄の影響で聴くようになった洋楽。自分の周りで知っている人はいないから、そういう話をすることはないけれど、大好きな曲だ。
「ねえ、その曲」
突然、真横で声がして、驚いてぱっと声の方向を向く。
イヤホンをしていたから気づかなかったが、隣に矢吹君が座っていた。
「何?」
イヤホンを外して聞き返すと、矢吹君は、曲を流していた私のスマホを指さし、その低い落ち着いた声で聞いた。
「好きなの?」
「まあ、うん。知ってる?」
「うん。すごく好き。友達と一緒に弾いたこともある」
「まじ!すごいじゃん」
思わず素で興奮して褒めると、矢吹君は照れくさそうに「いや…」と笑った。
「音楽好きなの?」
「うん。友達とバンド組んで、入れあげて留年したくらいには」
「まじで?ガチじゃん」
笑いごとじゃない気もするが、矢吹君が笑いながら話すから、私も「何やってんの」
とつっこんで笑ってしまう。
「ほんと、バカだよね。今も留年のことで先生に呼び出しくらって話してきたし。友達とめちゃくちゃ頑張ってやってたバンドも、結局ケンカしてそれっきりだし」
「そうなの!?」
あまりにあっけないオチに私はまた呆れて笑う。
「そう。しかも友達はちゃんと進級してるのに、俺だけ留年」
「バカじゃん」
「うん、バカ」
流石にちょっと悲しそうにしているから、私は励ますように兄の笑い話を始めた。
「でも、それ、うちの兄ちゃんとすごい似てる。バンドやってて、プロになってやる!って意気込んでたのに、急に現実見えてきてバンドやめて。詳しく聞いてないけど、一回ひどい荒れ方して帰ってきたことあったから、多分バンドの人とケンカしてやめたんだろうね」
けらけらと笑うと、矢吹君はびっくりした顔で固まっている。
「え、それって」
「何?」
きょとんとして首を傾げると、彼は複雑な表情で「いや…」と笑った。
今思えば、聞きたいけど聞くのが怖い、そういう気持ちだったんだと思う。
その日、帰った後、なんとなく矢吹君のあの表情が気になって当時の兄を思い返していた。
一時期、「――はすごいんだ」と毎日のように力説し、「俺も頑張らないと」と夜にギターを弾いて怒られていたっけ。
お兄、友達の名前なんて言ってたかな。
すごく言いやすい名前で、「〇ーマ」だった気がする、ゆうま、そうま?
と、考えたところで、矢吹君の下の名前を思い出した。
冬馬。
はっとした。というかなんで気づかなかった。
思い返せば、兄はいつも「トーマはすごい、天才、プロになれるまじで」ときらきらした笑顔で繰り返していた。
それが「トーマはすごい、俺とは違う」に変わったのはいつだったか。
本格的に寒くなる前、ちょうど文化祭が終わってしばらくした頃だったか。帰ってくるとひどく不機嫌で、ずいぶんと荒れていた。
部屋の中で机をダンと叩き、ベッドだか棚だかを蹴って当たり散らしているのを聞いて、今日は絶対にお兄には話しかけるまいと思ったのを覚えている。
「トーマを見てるとイライラすんだよ、あいつはすごいのに、なんであいつは、…」
「俺が相手じゃなかったら、…」
お兄が部屋の中で泣いているのも、なんとなく分かったから、その日は黙って母と一緒にお兄の晩ご飯にラップをした。
矢吹君のバンド仲間は、間違いなくうちのお兄だ。
何があったのかはよく知らないが、あの感情的なバカが矢吹君に何かした可能性は高い。
お兄は故意に人を傷つける奴ではないけれど、故意でなければ人を傷つけないですむかと言えばそうではないから、人間関係というのは厄介なのだ。
となれば。
矢吹君の留年も、もしかすると、お兄が原因かもしれない。