日下部睡蓮×草野春樹 0 (春樹side 前編)
前回よりもさらに時系列が遡ります。
僕は、隣のクラスの日下部さんが、少しだけ気になっている。
きっかけは、高校1年の秋。
長く尾を引いた残暑が、段々と薄れ、肌寒くなってくる頃だった。
登下校中に香る金木犀が、僕に否応なく季節の変化を感じさせる。
次に教室に活ける花は、何がいいだろう。僕は金木犀が好きだが、活けやすさと万人受けを考えればコスモスあたりだろうか。
緑化委員の僕は年中こんなことばかり考えている。もっとも、緑化委員じゃなくても、僕の考え事の8割は家に活ける花はどうしようかとかだから、あまり変わらない。
「教室に緑を絶やさない」
これが緑化委員の今年の目標であり、使命だ。これを実現すべく、それぞれのクラスで緑化委員が観葉植物なり花なりを置いている。観葉植物は世話に手間がかからないので人気らしい。
僕は活ける花で季節を感じたいし、世話が苦にならないので切り花を花瓶に活けている。
正直、委員の仕事をこんなに嬉々としてやっている人間はそういないだろう。僕にとっては天職以外の何物でもない。
当然の如く僕のクラスに花が絶えたことはないし、手入れも行き届いている。
しかし、これまた当然の如く、緑化委員全員が僕みたいな人間というわけにもいかない。
隣のクラスの1組は、浦田という男子生徒が委員をやっているが、植物に興味がありそうなタイプには見えなかった。おおかた、じゃんけんにでも負けて渋々引き受けたのだろう。
1組の教室をちらりと覗いてみると、菊の花が活けてある。
…別にいいのだが、多分あれ墓花のセットだ。
枯れかけた青紫色のリンドウが、白と黄色の菊の後ろにひっそりと隠れている。葉もだらりと萎れていて、正直言って虫の息だ。しっかりと世話されている雰囲気はなく、もしかすると水さえ換えていないかもしれない。
恐らく、活けたまま放置し、とりあえず枯れた花から捨てていって残ったのが日持ちのする菊だったのだろうと推察される。
ああああ。花が可哀想だ。
今、水を換えれば、リンドウも生き返るかもしれないのに。
隣のクラスの花にまでお節介を焼くのはどうかと思うが、花好きとして我慢ならない。
放課後、誰もいなくなったタイミングで水だけ換えてしまおう。大丈夫、花瓶の水を換えたかどうかなんて誰も気にしない。
そう決心して、授業が終わった後、掃除の時間もずっとそわそわしていた。僕は掃除当番ではなかったから、図書室で三十分ほど時間を潰し、そろそろかなというタイミングで戻ってきて、1組の前で足を止める。
荷物を床に下ろし、壁にもたれかかってスマホをいじり、いかにも人待ちですという顔で、教室がもぬけの殻になるのを待つ。そんな時だった。
スマホに目を落としたままの僕の耳に、よく通る澄んだ声が届いた。
「浦田ー。ずっと前から気になってたんだけど、これ花の水換えてんの?」
その声に、浦田がいかにもだるそうに返事する。
「は、水?」
「うん。比較的日持ちする花ばっかなのに、すごい勢いで枯れてんじゃん」
「水、まだ入ってんじゃん」
「いやだから、換えてんの?って」
「え、換えなきゃダメ?」
「そりゃそうでしょ」
「めんどくさ」
浦田は、ぱっと荷物を担いだかと思うと、教室を出る。
「日下部、換えといて!」
茶目っ気たっぷりに手を合わせると、「じゃっ」と廊下を爆走していく。
「はあぁ?」
という呆れた声。でも、彼女は心の中で、「しょうがないな」と笑っているような気がした。
そんな言葉でさえ、嫌味がなく聞こえるほど、澄んだ声だと思った。
彼女は、教室から出てきて、目の前の洗面所に花瓶を置く。
その時彼女は髪を下ろしていて、ゆるいウェーブがふわふわと肩のあたりで揺れていた。
その髪を、彼女はシュシュできゅっと結び、花を一旦置いて丁寧に水を換え始めた。
しばらく放置されていた水は汚れ、青臭い匂いがかすかに漂ったが、彼女は文句も言わず黙々と花瓶をすすぐ。
きれいな水で花瓶を満たし、花を活ける。
リンドウも菊も、心なしか生気を取り戻したように見えた。
教室の窓から差す西日はまだ強く、ガラスの花瓶がその光をきらきらと反射する。
彼女は眩しそうに目を細めながら花を教室に運び、廊下に突っ立っている僕と一瞬、目が合った。
僕は、なぜか妙に動揺し、ぱっと顔を伏せてスマホに集中していますという顔をする。
去ったはずの夏のような、赤い西日が当たって顔が熱い。
彼女が完全に教室に入ったのを感じてから、僕はそっと顔を上げて、理由もなく後ろ姿を目で追ってしまう。
窓際に立つ彼女の姿は、放課後の、夕陽が差し込む穏やかな空気に、すんなりと馴染んでいた。