第2章 「幸せにする」と言ったあとで
恋人が失踪した。
私はその事実に、泣くことも叫ぶこともなく、あぁやっぱりと静かに納得した。
彼は時折空虚な目をすることがあった。私ではこの人の心を埋められない。そう思ってもどうすることも出来ない。彼にとって私は何よりも魅力がなかった。それだけのことなのだ。
私は小説家だった。
原稿用紙に文章を書き連ねている時だけ全てを忘れられた。小説の中で、私は犯罪者でたくさんの命を奪い、死に美しさを見出し、狂気的に自死を受け止める。そんな存在だった。ネットに公開すればコアなファンが面白可笑しく議論を交わし、作品の正義についてが語られた。そこに答えはないが、私が作品を生み出すことで喜ぶ人がいた。もちろん作風が受け入れがたいと眉間に皺を寄せる人もいた。それでよかった。私は私の作品に触れたすべての人を愛した。その中に彼がいた。
「いつも熱心に書いてるよね。」
「えっ。」
「あぁ、突然ごめん。今時原稿用紙って珍しいなと思って。」
いつもの喫茶店、昼休憩に小説を書いていたら後ろから声をかけられた。
「人事部の・・・。」
「どうも。えっと、経理部の子だよね。」
「はい。」
最初はぎこちない会話から。だんだん弾んできたところで、彼の腕時計がピピッと昼休みの終わりを告げる。
「もうこんな時間か。・・・良かったらこれ、暇な時でも連絡して。」
会社の名刺を差し出される。眼鏡の奥に見え隠れするそれを私は見逃さなかった。受け取りながらそっとその目に視線を送る。お互いの視線がかみ合ったところでチリッと痛みを感じた。熱を帯びるのを感じる。誰かが彼を呼んだ。視線を逸らし、彼がそれに答える。若い男の子が遠くで手を振っている。彼を呼んだ子だろう。それじゃと短く言って彼はその場を後にした。
1人その場に取り残される。名刺に残った彼の熱が恐ろしかった。
彼と進展するのにそう時間はかからなかった。
1か月後にはディナーを、3か月後には交際を、半年経つ頃には深いところで繋がれていた。
彼がその話をしたのも丁度その頃だった。
「君と同じく小説を書いていた男の子がいてね、部署は違うんだけどすごく素敵なお話を書く子なんだよ。君にも今度紹介したい。」
「あら、私がその子に浮ついた心を持つとは思わなくて?」
「君は俺のことだけ見ているだろう?」
都内の夜景の見える高級フレンチに連れてこられ、そんな話になる。他の小説家が社内にいる・・・それはすごく魅力的かもしれないけど、彼の口からその話を聞くと醜いくらいに嫉妬のような感情が燃え上がった。だが、私はそんな世間話をひどく覚えていた。彼が外の景色に視線を投げる。その目が何も思ってないような空虚な目をしていたのを同じように覚えていたように。
「そうだ、これ。」
「えっ。」
彼がふと気がついたように小さな箱を取り出した。それが意味するのは私にも嫌でもわかった。
「幸せにする。」
彼にしては珍しく淡白な台詞。
私はそれに頷くと、中身を手に取った。
澄んだ銀色に心を乱される。いいのか、これで。
果たしてその問いかけは正しかったのか。
彼はその次の日失踪した。