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「確かに、契約は締結したよ」
アルムはサインをした後、親指から少し血を出して血判を押した。
すると大きな魔力が揺らめき、アルムの契約が正式に効力を発揮した事を理解する。
「僕は、父の意志を継ぐことをここに誓います」
アルムの静かだが力のこもった宣言に応えるように、契約書の血判がほのかに光る。サークリエはそれを見て安らいだ顔で目を細める。
「随分と、ここまでくるのに時間がかかった。カッターとは別の意味であんたは色々と読めない子だね」
終わりの見えない数ヶ月の苦しみから解放され、思わず脱力するサークリエ。
アルムもどうやら色々とサークリエの手を煩わせた事に気づき、気まずそうに頬をかきながら笑う。
サークリエは喜びに浸りつつ、微かな疲労の余韻に身を任せていると、それを打ち破るようにドアがバンッと開く。
アルムは急にいつもの講義で使う部屋のドアが開いた事にギョッとする。
一方で、サークリエは安らかなひと時を妨害した人物の方を見てジロっと睨む。
しかし静寂を打ち破った件の人物は全く気にせずツカツカと執務室に入ってくる。
「終わった?漸く?」
「ああ、今しがたね。その喜びの浸ってたのに誰かが邪魔をしてくれたわけが」
「精算しただけ、今までの迷惑料を」
暗にワザとだと告げられ、サークリエの目つきがますます悪くなり、アルムも恐怖覚える振る舞いもする人物にオロオロしてしまう。
そもそも一体誰なのか、サークリエとどんな関係なのか、無表情で独特の空気を纏う人物にアルムは困惑する。
その人物はサークリエの睨みつけにも涼しい表情で、急にアルムの方を向く。
「新しい直弟子でしょ、貴方?」
「そうだけど、えっと、貴方は誰なの?」
アルムが怪訝そうに問うと、ムスッとした表情のままサークリエが答える。
「この恐怖とか讃崇の概念を母親の腹ん中に置いてきちまった娘っこは、遺憾ながら私の直弟子さ。付け加えるとアルムが来るまでは近々では唯一の直弟子で、最も私の後継者に近くもある術師だ。誠に遺憾だがね」
嫌味たっぷりにサークリエが紹介すると、その美少女はペコリと頭を下げる。
「フェドーシア・パルパロトツイ・ノチェクルクヴォボサス。略称はフェーナ。蟲人種の大瑠璃蝶人族。師匠の直弟子でもある、誠に遺憾ながら」
毒をサラッと吐き返すその美少女はアルムとそう変わりない年齢に見えた。
アクアマリンのような透き通る水色の髪は宝石の様な光沢を放っており、頭頂部の方でメッシーバン、所謂団子ヘアにして纏めている。額から二本の線が出ており、アルムはそれが触角に似ていることに気づく。黄土色の目は真っ直ぐアルムを見据えていて、左目の下のチャーミングな泣き黒子が無表情で感情の篭らない彼女の独特な、人によっては威圧感を感じる雰囲気を少し緩和していた。
宝飾品の如き美麗な髪に整った顔立ちと無表情さが相まって、まるで精緻な人形に息を吹き込んだかのような、神秘的でさえある異質なオーラを放つ美少女に、アルムは何故かゾクゾクすると共に奇妙な興奮をしていた。
「僕の名はアルム・グヨソホトート・ウィルターウィルだよ。フェーナさんの弟弟子になるのかな?」
「アル………アルミュ………ウィルターウィルからとってウィルって呼んでいい?発音しづらいから。あとしなくていい、さん付けは」
ペースも話し方も独特なフェーナに圧倒され、アルムはコクリと頷く。
「やっぱり懸念通りじゃないか。あんたはペースが独特すぎるんだよ。一応言っておくがね、フェーナの語順が少し独特なのはフェーナの母語の語順で喋っとるからだよ。わかってる上でワザとやっとるから気にしないでおくれ」
「余計なことは言わなくていい、師匠は。いつも一言多い」
本当に怖い物知らずなフェーナの発言にアルムはなんだか感心さえしてしまった。
「それで、その、今まで一度もあったことがないと思うんだけど、どうして急に?」
だが未だなぜ今まで一切姿を見せなかった彼女がいきなりアルムの前に姿を表したのか、アルムにはよくわからなかった。
「貴方のことは聞いている、かなり前から。鬱陶しいほどに師匠は貴方の事でずっと悩んでいた。私は貴方の存在を知ってから助力を申し出るつもりだった、貴方が誓いを正式に立てたら」
「それは異種族擁護活動を援助するってこと?フェーナさ………フェーナも師匠の協力者なんだね」
初対面の少女を呼び捨てにするのは気が引けるアルムだが、本人が敬称を嫌がっているようなのでなんとか呼び捨てでアルムは話しかける。
すると、フェーナは首を横に振った。
「私は特に興味ない、みんなで仲良しこよしなんて。ただ、いい加減閉鎖的でも進歩はないことは認めるべきだし、互いに妙に奢りも謙りもせず同じ目線で話すべき、私はそう思っている。
あとこれは個人的事情。
私は知っている、貴方の父親がカッター様である事を。師匠から聞いた。私の種族は救われた、貴方の父親に。それは両親からも他からもよく聞いている。私は生まれていなかった、もし貴方の父親が私たちの種族を救わなければ。受けた恩は必ず返すだけ」
そう述べるフェーナをジロっとサークリエは睨む。
「私には受けた恩を返してもらった記憶が無いんだがね?」
「師匠は色々勝手過ぎる。恩はそれで帳消し。私はしない、無償の奉仕は。受けた恩に対してそれと同等の物を返すだけ」
平然とサークリエにピシャリと言い返すフェーナに、アルムは困ったような表情をして肩を竦める。
「例えそれが本当でも、僕は父さんじゃないよ?」
そんなアルムにフェーナは即座に解答する。
「私はこの世に生を受けることができた、貴方の父親が両親を救ったから。だから私は考える、その人の子供にまでは恩を返すべきと」
「面白い考え方だね」
アルムが感想として素直に述べても、フェーナは反応を示さなかった。
「特に理解は求めていない、これは私の考え方だから。今までは師匠に止められていたけど、これからは色々と縛りも無くなったから貴方と出会すこともあると思う、多分」
自分なりのルールがしっかり定められているだけで、意外と会話に応じてくれるのかな?とアルムはフェーナを評価する。
「とりあえず、よろしくね?」
アルムは親指の先を人差し指側面に乗せて上に向けた状態で拳をフェーナに差し出す。
その手を見てフェーナはほんの僅かに瞳を揺らした。
「間違っていなかった、師匠の言っていたこと。主に大瑠璃蝶人族の住む地域に住む種族だけの共通の挨拶、知ってるとは思わなかった」
フェーナもアルムと同じような手の形をして、自分の手をアルムの手にコツッと軽くぶつける。
それは一部地域のみで共通する握手と同じ意味合いがある挨拶の方法。フェーナは久しくしていなかった方法で握手を交わす。
「よろしく、ウィル」
「うん、よろしくねフェーナ」
軽く微笑むアルムに対して、フェーナは魔法で漸く感じられるほど微かに口角を上げるのだった。




