6.あの日はふたたび
俺が小中野家の敷居を初めてまたいだ日から三日後。
彼女の母親が告げた「ある筋」からの回答は、今だ何一つとして音沙汰なし。
『まさか……このままあいつを囲い込んじまうつもりじゃ……、』
高校入学からほぼ毎日のように目にしていたあのガタイ、いや彼女がここにいないことに加え、彼女の母親が口にした「ある筋」がいったいどの筋なのか、そして何よりもどのような回答が返ってくるのか全く見当がつかないでいる俺は、日が経つにつれ無意識に高まる焦燥感を抑えられないでいる。
この三日間を「まだ三日」と考えるか、それとも「もう三日」と捉えるかは、個人の性格や個々の事情によって違うとは思うけれど……。
どちらかと言えば、割と悠長な部類であるにもかかわらず、今の俺にとってはこの三日がなぜか異常なくらい長く感じ、家はもちろん学校でも休み時間や昼休みは携帯画面とにらめっこするという毎日を過ごしていた。
ちなみに、幼なじみ二人には昨日、彼女の素性と身の上、そしてこの地に一人暮らしするようになった事情について、以前に電話で確認していた五歳の夏の出来事との関連性も一部含め、大まかではあるが、一連の経緯は説明していた。
対して二人は、幾分驚きの反応は見せつつも、どこか納得したような、俺にしてみれば少し拍子抜けの感を抱かせるかのような反応を示していた。
それに、これはまぁついでっちゃついでなのだが、俺と彼女が交際していると勝手に思い込んでいる、一部の隠れ小中野ファンらしき女子からは……、
「どうせあんたにいいだけ弄ばれた挙句に捨てられたから彼女、ショックで学校来られなくなったんでしょ!」
「おっぱいに顔埋めたり、お姫様抱っこさせるだけじゃ物足りなくなって、それ以上のコトしようとしたからあんたの顔なんか見たくないって登校拒否してるんでしょ!」
とか何とか、全くいわれのないデマで好き放題に延々と糾弾される始末……てか「それ以上のコト」って何だよおい!
大体にしていいだけ弄ばれたのはむしろ、ある意味俺の方だったような気がするんだけどな。
ただ、一人暮らしJKの部屋に一週間通い詰めていたという話は、一連の糾弾内容からは飛び出してこなかったので、どうやらまだ周知には至っていないようだ。
もしこれが知られようものなら、嫉妬と憎悪でヤンデレと化したこいつらに、いきなり後ろから刺されたりなんかしそうで、おちおち一人で道も歩けやしない……などと考えると、いろいろな意味でそら恐ろしくなる。
でもまぁ……事故だったとはいえ、お姫様抱っこされたのと、おっぱいに顔埋めたの「だけ」は正真正銘事実だし、多数の目撃者もいたから今さらもう言い逃れなんかできんけど、あれは間違いなくあいつが引き金になって発生した、とおぉーっても不運で不幸な(果たしてそう言いきれるかどうかは置いとくとして)事故なんだから、こっちからすりゃ冤罪と言ったっていいくらいなんだけどな。
できるものならこいつら全員、名誉棄損で訴えてやりたくなるような雑音は、とりあえずガン無視しとくとして……今は放課後。
話は変わるが、今日の授業終了時点で中間テストの答案は全て返却されていた。
結果はというと、彼女から勉強を教えてもらったおかげで何とか赤点は免れ、一部の教科は平均点超えを果たし、ひとまず安心といったところか。
「そろそろ帰るか?」
自席でぼーっとしているところに、藤崎が通学バッグ片手に声をかけた。
「んっ、ああ……わかった」
どことなく気の抜けた返事をした俺は自分のバッグを手に取り、気怠そうにしている身体に鞭打って席を立つ。
出口に目をやると、教室の外には長峰が待っている。
「わりぃな、待たせちまって」
「んっ、いやそんな待ってないよー。ははっ」
そうは言うが、俺と同じでどこか少し呆けているというか、いつもの元気良さが感じられない。
「……そか、んじゃ帰るか?」
「うん、そーしましょーかねぇ」
このように、俺たち幼なじみーズは昨日の朝から一緒に登下校していたが、昨日の登校時にいいだけカッコつけて心中に誓った意気込みはどこへやら、どことなく覇気が衰えている俺を慮っているのだろうか、あまり会話も弾まないまま時間が過ぎていく。
月曜丸一日学校を休み、体調面は何の問題もなくなっているはずなのに、今だ心身ともに抜け切れていない倦怠感。
と言うか、どうしてこんなにも心にぽっかりと穴が開いた気分になっているのだろう……?
『はああぁ……っ、』
声に出せば余計、幼なじみ二人に気を遣わせてしまうと思い、心の中でため息が漏れた、その時……、
「あ……あれっ?」
「――お元気でしたか?」
眼前には、俺に小中野家へ行くきっかけを作ってくれた、彼女の家政婦兼教育係だった女性が、まるで俺が来るのを待ち構えていたかのように立ち塞がっていた。
「あ、あの時は……本当にありがとうございましたっ!」
咄嗟に頭を下げ、礼を述べた俺と女性のやり取りを、藤崎と長峰は何が何だかわからないといった様子で見ていたが、
「お、おい……あの人……、」
どうやら目の前に佇む人間が、ただ者ではないのを瞬時に見抜いたのか、いつもは冷静沈着で殆ど動揺した表情やそぶりを見せない藤崎が、珍しく顔を引き攣らせながら小声で問いかけてくる。
「ああ、あの人が昨日話した、小中野の家政婦兼教育係だった人だよ」
「そ、そうか……」
三日前に俺が感じたとおり、十年前に初めて見た時から殆ど変わらない気品と風格、そして若干の恐怖めいた雰囲気が漂うその佇まいを見て緊張しているのだろうか、藤崎の全身は固まったままだ。
「ど、どうも初めまして……僕は彼の幼なじみで友人の……藤崎と申します……」
などと、めちゃくちゃ動揺しまくりの挨拶をする藤崎に反し、
「初めまして。同じく幼なじみの長峰と申します。今後ともよろしくおねがいします」
さすがは社長令嬢の長峰。普段のバカっぽく見えるくらいの賑やかさと騒がしさを封印して、ちゃんと礼節をわきまえた対応をする……っつーか電話出る時も、あんな耳と鼻から血が噴き出してきそうな奇声発してないで、こんな感じに応対してくれよ。
「何だお前、そういうのちゃんとやろうと思えばできんじゃんか。ちょっと見直したよ」
「う……うっさいっ! よけーなコトゆーんじゃないのっ! このヘタレ馬鹿っ!」
はは……やっぱ本性現してしまったか。やっぱ、こっちの方がこいつらしくていい。
相変わらず俺に対しては減らず口を叩き込む長峰だったが、ほんのりと頬を赤く染めたその表情は、ブンむくれている中にもどこか、喜悦に満ちたものに見えた。
「……うふふっ、あなたは本当に良いご友人をお持ちのようですね」
「はい。こいつらは俺にとって本当にかけがえのない友達ですから」
◆ ◆
「と、ところで……どうしたんですか?」
「どうやら……向こうでは奥様と会って話してきたようですね」
「は、はい……そうですけれど……」
「そうですか。では少しの間、わたしにお付き合いしていただけますか?」
「は、はぁ……でも、」
家政婦さんからの突然の誘いに、俺は後ろにいる幼なじみ二人をチラ見する。
「もちろん、そちらのご友人の方もご一緒いただいて結構ですわ。それに……、」
すると今度は、家政婦さんが後ろをチラ見する。
「うふふっ、いつまでもそんなところにいらっしゃらないで、こちらへどうぞ」
「……えっ?」
いったい誰に話しかけているのだろうかと思い、家政婦さんと同じ方向に目線をやると、
「あ、あー……、見つかっちった。あははっ、」
バツが悪そうにしている妹が、物陰から苦笑交じりにひょっこりと姿を現した。
「と、ときわ……どうしたんだお前?」
どうやら、小中野家から何らかの回答があったのかどうか気になっていたのだろう……いや、たぶんそれだけではない。
自分ではいつも通り接してきたつもりだったが、今週に入ってからのこいつから見た俺は、どうにも覚束ない感じに映っていたのだろう。
それに今日は家政婦さんがいたおかげで妹の存在に気付いたが、おそらくは昨日もこうして俺の様子を窺っていたのかもしれない。
「ごめんなときわ……お前にまでこんな気を遣わせてしまってさ」
「そ、そんなの……べべ別に何とも思ってなんかないんだからねっ! カン違いしないでよねっ! フンっ!」
おいおい……なぜにそこでツンが出る?
お前のむくれっ面があんまり可愛すぎて思わずお兄ちゃん、めちゃくちゃだらしないカオなっちゃったよ。
そんな俺を見た藤崎と長峰は、「また始まった……このシスコン野郎」的な蔑みの眼差しを、一切の容赦も遠慮もなく叩きつけてきやがったりする。
「くすっ……では妹さんもご一緒に参りましょうか」
「はいはぁーいっ! ご一緒させていたーきまぁーっす!」
家政婦さんの誘いに妹は、待ってましたとばかりに反応する……つかお前、三日前に初対面した時はいいだけビビって全身震えてたくせに、今はずいぶんと馴れ馴れしい言い方してきやがんな。
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のは、どうやら俺だけじゃなかったようだ。
「では、こちらへどうぞ」
四人揃ったところで家政婦さんは緩やかに歩を進め出し、俺たちはその後をついて行く。
「お、この辺って何か懐かしく感じるな」
「そーいやそだねー。高校生なったらあんまこっち来なくなっちったしー」
藤崎と長峰の言う通り、この辺りは中学時代の通学路として使っていた道なのだが、今通っている高校とは反対方向なので、最近は全くと言っていいほど通ることはなくなった。
現役JCであり、今もこの道を使っている我が妹以外は、多少なりともノスタルジックな感がこみ上げてきても何ら不思議はないだろう。
などと、ちょっとした感慨に何気なく耽っていると、
『あ、あれ? ここって……、』
ついさっきまでとは別な意味でのノスタルジーを抱かせるような光景が、俺の眼前に広がっている。
『……あ、あっ!』
そうか……そうだった。
中学の卒業式の帰り……道に迷ってキョドっていた、とーってもバカでっかい生物がうろついていた。
その時はスルーしようとして、十メートルほど先の路地に逃げ込もうとしたっけ……。
「――思い出しましたか?」
その時の光景を思い巡らせている途中、家政婦さんは突然のように立ち止まったかと思うと、おもむろに俺の方を向く。
「は、はい……」
「では……もうこれ以上言わなくてもわかっていますね?」
「――はいっ!」
もちろんだ。ここまでお膳立てされたのだから、いくらニブさには定評のある俺でも、さすがにわからないはずがない。
「お、おい新城……いったいどうしたんだ?」
「何だよ藤崎? 前に俺が話したの、もう忘れちまったのか?」
人のことなんざこれっぽちも言えないほど物覚えが悪く、記憶が持続しない人間が言うのも何だが、何が何やらという感じの顔つきで問う藤崎に、どや顔で俺は自信満々に返す。
「いいから見てろよ。すぐわかっからさ」
呆気に取られている幼なじみと妹を尻目に、俺は家政婦さんが立ち止まっている場所の更に先へと駆け出す……いや、競歩の如く早足で歩き出すと、あの日と全く同じ服装をした、とーってもバカでっかい生物の後ろ姿が、「ザシャアッ」という効果音とともに颯爽と現れる。
「お……おいっ!」
呼び止める声ははっきりと聞こえていたが、俺はそれを無視して前脇にある路地に入り込むと同時にダッシュをかける……あの時と全く同じに。
追っ手を振り払おうとして、脇目も振らず全速力で逃げようとしても、走り寄る足音は遠ざかるどころか逆に大きくなってくる……これもあの時と同じだ。
しかし今は、初めて追いかけられた時のような恐怖と焦燥など全く感じないどころか、むしろ鬼ごっこでもしているかのようなドキドキワクワク感を禁じ得ない。
『そろそろか……』
あの時、追いつかれた場所が目前に迫っている。
確かあの時は逃げるのに必死で、周囲の景色など全く目に入っていなかったはずなのに……、
なぜか今は、不思議とそれがはっきり認識できている。
そして彼女も、その場所をちゃんと覚えているはずだ。
『あいつなら……絶対に、』
そう信じているからこそ、俺は走る速度を緩めはしない……だから、
俺をつかまえてみろ! あの時と同じに俺を羽交い絞めで抱え上げてみろ!
すると……、
『う……おっ、』
ジェットコースターが急な下りに突っ込んで行くかの如く、急激にふうわっと全身が浮く。あの時と全く同じ場所で。
「つかまえた……」
「はは……やっぱこうなっちまったかぁ。ホントお前には敵わないよ……でもさ、」
「でも……?」
「正直、こうしてお前に抱え上げられたり、持ち上げられたりすんのって、恥ずかしさが先立っちまってあんまいい気分じゃないんだけど……、」
「け、けど……?」
「どういうわけか知んないけど……なーんか安心できるんだよなぁ」
「わ……私も……こうしていると……なぜか心が……安らいできて……」
「そっか。そりゃ良かった。とは言っても、ずっとこのまんまじゃお前の顔が見れないからさ。もういい加減降ろしてくれてもいいんじゃないか?」
「あ、ああ……そうだな……」
そう言って彼女は両腕のフックを緩め、俺を地上に降ろす。
そして互いの顔を向き合わせたまま、立ち尽くしていた。
「おかえり、小中野……よく戻って来たな」
「た……ただいま……それと……、」
「……んっ?」
「本当……本当に……ごめんなさい……」
「……へっ、バーカ。謝ってんじゃねーよ」
「で、でも……私は……、」
「でもじゃねえ。お前の家でも言っただろ? 俺はお前と約束したことを果たそうとしただけだってな。だから、いらんカン違いなんかすんな」
「う、うん……」
くりっとした大きな瞳から、いつしか大粒の涙を流しながらも、彼女の表情は喜悦に満ち満ちていた。
「だけどさ……これって何だろうな……たった二、三日だってのに……、」
「ど、どうした……?」
「そんな二、三日が正直、すっげー長くて……ずっと焦ってモヤっててもう……どうしようもなくなっちまってた……」
「わ、私もずっと……そう思って……」
「だけどさ、またお前がここに戻ってくれて……またこの町で暮らせるんだって……お前と一緒に学校行けるんだって思ったらそんなもん、全部吹っ飛んじまった」
俺は、彼女と顔を向き合わせてからずっと、今の自分が心に思っていたことを素直にそのまま言葉にしていた。
「それにさ……、」
そして、突然のように何かしらの止め処ない思いが溢れ出し、言葉を続けようとする俺。
「お前が禁を破ったってんで、家に連れ戻されたって聞いた時……、」
「う、うん……」
「正直俺は……お前にここにいて高校生活を送って欲しいって思ったんだ」
この言葉……果たして彼女との約束を完遂するためだけに発したものなのかどうか、明確な自信が持てなかったが……、
俺は今、無性にこう言いたくて仕方がなかった。そうとしか考えようがなかった。
そうさせた理由がいったい何なのか……自分でもわからない。
もし仮に、自分以外の人間が理解しているとしても、俺自身がその答えに気づくまでは何をどうこうするつもりはないし、今はそれでも構わないとさえ思う。
ただ、薄々にでも気づいてくれば、自分でも気づかないうちに態度や言葉に現れてしまうのかもしれないが……。
「わ、私は……、」
「んっ、どうした?」
「正直言って……家に連れ戻されてから……ここに戻りたいという思いを……徐々に無くしかけて……いた……」
「こ、小中野……」
「でも……、」
「でも?」
「君が……私の家に……来てくれて……母に懇願する姿を……見ているうちに……戻りたいと……いや……絶対に戻らなければと……思った……」
この言葉……彼女は所詮、赤の他人である俺が母親にいくら土下座で懇願しても、状況は何一つ変わらないと思いつつも、人様の家庭事情に土足で踏み込んだ挙句に反抗し、扉の前に立ち塞がった姿を見て、まだ心中にくすぶりながら残存していた自分の本当の思いを、何とか母親に伝えよう、理解してもらおうと勇気をふりしぼり、俺と同じ行動を取ったのだろう。
そうに違いないと思ったからこそ俺は、彼女にこんな言葉をかけてやる。
「それってさ……小中野、」
「……えっ?」
「たぶん……お前のおふくろさんは嬉しかったんじゃないか?」
「そ、それは……どういう……?」
「お前の思いの丈を直接、お前自身の口から聞けたってことがだよ」
「あ、そ、そうか……」
「さてと……こっから仕切り直しだな」
「仕切り……直し?」
「もちろん、俺がお前に約束したことがだよ」
「う、うん……こちらこそ改めて……お願いする……」
「さ、いつまでも待たせておくのも悪いから、そろそろあいつらんとこ行こうか?」
「わ……わかった……私も……謝りたいから……」
こんな感じで再会を果たした俺たちは、急ぎ幼なじみ二人と妹の所へ足を運ぶ。
「本当に悪かったな。今までいろいろと心配かけてさ」
「ご……ごめんなさい……せっかく……誘ってくれたのに……約束を破って……しかも……こんなに騒ぎを大きくして……迷惑をかけたうえに……心配までさせてしまって……」
謝罪した俺たちが、揃って深々と頭を下げると、
「う……ううんっ!」
突然のように長峰が、ぶんぶんと首を横に振りながら声を上げる。
「ど、どうしたんだよ長峰?」
「あの……こんな時にこんなこと言うのもだけど、」
しおらしい態度と、どこか照れくさそうな言い方をする長峰は、やおら小中野の顔をガン見する。
「つ、次の日曜……あたしたちと一緒に遊び行こっ!」
この誘いに、きょとん顔を隠せずにいる小中野。
それは妹と藤崎、そして俺も同じだ。
「わ、わかった……今度こそ喜んで……ご一緒させていただきたい……」
突然の提案に、何らかの意思を感じ取ったのだろうか、小中野は俺の家から帰る時に見せていたものと同じ、楽しそうな微笑みで長峰を見つめていた……ナチュラルに上から目線で。
が、しかし……、
「そ、それはいいけど……なぁ藤崎?」
「あ、ああ……、」
俺と藤崎は、互いに困惑した顔を見合わせる。
「あーもー二人ともっ! そんなみみっちいカオすんなってば!
「で、でもお前だって……、」
そう、藤崎は俺が小中野の実家に向かおうとした時、自分の財布からほぼ全額の現金を俺に手渡していて、俺の所持金と長峰&妹の援助も含め、家に帰った時には中身がすっからかんになっていた。
しかし今、この場でそれを口になどできない。
だって小中野がこんな事情知ってしまったら、絶対申し訳なさそうな顔をして気を遣わせてしまうだろうから。実際今もちょっと憂いと疑問の顔つきでこっち見てるし。
てか長峰だってかなりの金額をスポンサードしてくれたはずなんですけど? お前毎月どんだけ小遣いもらってんだよ?
「だいじょーぶだいじょーぶ。ノープロブレンだからねー」
「どゆこったよ?」
俺の問いに長峰は、ややウザったらしいどや顔で、ふんすっと鼻息も荒く、こう言った。
「三人とも暫くあたしの部屋来てないっしょー? だからどーかなって思ってさー」
「そういや……小学生ん時以来だったかな?」
「そだねはー兄ぃ。ときわもアッキーの家おひさだしー、たっのしみー」
「それじゃあ決まりだな。俺も楽しみにしてるぞ」
と、いうわけで……次の日曜日、俺たち五人は先週叶わなかった約束を、舞台を長峰邸に変更して果たすことと相成った。
ちなみに長峰邸、さすがに小中野邸には及ばないものの、先に評したとおりこの近辺では桁違いの広さと大きさで、初めてお邪魔したのが幼稚園児の時だったのだが、一人でトイレ行こうとして思いっきり迷子になった記憶がある。
それに長峰は無類のゲーム好きでもあり、これまで父親から誕生日やらクリスマスやらの他に、いろいろとこじつけにも似たアニバーサリーをでっち上げたプレゼントでせしめまくった、当時最新鋭の歴代ゲーム機が部屋にずらりと並んでいる。
そんなだから所有するソフトも膨大な数にのぼり、俺と藤崎が遊びに行けば、三人で日がな一日ゲーム三昧なんてのも一度や二度ではなかった。
更に言うと、長峰は自他ともに認めるアニメ好きで、本人はめちゃ否定するが、俺たちを含めた周囲の人間からはオタクの扱いを受けている。
当然、円盤の保有数も相当のもので、自分の部屋とは別に保管する部屋があるのだが、そこには円盤とマンガが棚にびっしりと詰まっている。
しかも、父親の趣味でカラオケルームなんてものまで存在し、機種も最新鋭の通信カラオケ機が設置されているため、常に新曲が配信されている。
それと、俺は一度も入ったことはないが、本格的なホームシアタールームまであるらしく、ちょっとした映画館気分まで味わえるというのだから恐れ入る。
なので、こいつの家に行けばわざわざ外に出なくても、外とあまり変わらない遊びに興じられてしまうのだ。
とりあえず、日曜の予定が決まったところに、
「どうやらお話もまとまったようですので……新城君、」
「は、はい……?」
「少し、よろしいですか?」
中高生五人の井戸端会議を少し離れた場所で眺めていた家政婦さんが、微かに表情を引き締めながら俺を呼ぶ。
「は、はぁ……わかりました」
呆けた返事とは裏腹に、少し気が張り詰めた感を抱きつつも俺は、家政婦さんの元へゆったりとした足取りで歩を進める。
「あなたに、奥様から伝言を預かっておりますので、それをお伝えしたいと思います」
「で、伝言……ですか?」
「はい。あなたに会ったら必ず伝えなさいとの仰せです」
「わ、わかりました……」
「――では、伝えます」
この時……俺は小中野の母親の顔が瞬時に浮かんだかと思うと、思わず息を呑んでしまう。
『……んうっ、』
むう……ここに本人がいるわけでもないのに、姿を思い出しただけで悪寒が走っちまうとは……あん時どんだけ俺に威圧感と恐怖感植え付けてくれてんだよあの母親?
それはともかく、俺はその伝言とやらを聞くため、顔の筋肉を少し引き攣らせながらも家政婦さんの顔を凝視する。
「伝言はとりあえず二つ、あるそうです」
「ふ、二つ……ですか?」
「はい、まず一つは……あなたが奥様にお屋敷で話した通り、今後もお嬢様の通学や外出に付き添う事、」
そんなもの、今さら言われるまでもない。彼女がここに戻って来た時から思っていたことだ。
「そして……二つ目は、」
「は、はい……、」
「まがりなりにも小中野家の人間と行動を共にする機会が多いのですから、それにふさわしい人間になるよう日々、精進する事……この二つです」
「は、はあ……、」
「ふさわしい人間」……か、
確かに今の自分は、学力体力身体能力その他もろもろ、あらゆるものが彼女と釣り合っていない。ついで言うと身長もだけど。
てゆーか、こいつと釣り合い取れる野郎なんてそこいらへんにそうそう存在しねーけどな。
家政婦さんの言い方からすると、俺が彼女の家柄にふさわしい人間にならなければ、いつでも彼女を連れ戻す用意はできているという、ある意味オトシマエ的な伝言にも捉えられなくはない。
つまり、自ら課した約束を完遂するためには、小中野家が望む器の人間にならなければという話になるのだろう。
『う、むぅ……っ、』
そう考えた時、俺の心身はこれまで受けたことのない重圧感に襲われるのを禁じ得ない。
ただ、そもそもなぜ母親は、彼女が再びここに戻るのを許してくれたのか……まさか、
あの母親、俺がそんな大それた人間になれるとでも思っているのだろうか?
それに、さっき家政婦さんが伝言の前に口にした、「とりあえず」という前置きの意味も気にかかる。
もしかしたら伝言は二つにとどまらず、本当はまだ何か伝えたかったことがあるとでも言うのだろうか……?
などと、こんな取り留めのないことを延々と考えていると、
「それと……お嬢様」
「は、はい……いかがなされましたか……?」
「あなたにも奥様からこれを預かっていますので、お渡しします」
「手紙……?」
彼女がやや緊張気味に受け取った封筒……って母親までリ◯ックマ好きなんかい!? 娘以上に似合わねーぞ! 失礼ながら!
どこか妙に変わった意味で血は争えない部分を垣間見せている小中野母娘だった。
「では、伝えるべきことは全て伝えましたので、わたしはこの辺で失礼させていただきますわ」
そう言い残した家政婦さんは、しっかりとした足運びでくるりと踵を返し、俺たちの元から去って行ったのだった。
家政婦さんが小中野に手渡した、彼女の母親からの手紙。
彼女は中身を取り出し、文面を食い入るように見つめている……すると、
「こ、これは……?」
なぜかわけがわからないといった顔つきで、俺たち四人の方に目線を向ける。
「んっ、どうしたんだよ?」
「そ、それが……、」
俺の問いかけに、彼女は不安げな表情で全員傍に来るよう手招きをする。
「こ、これを……、」
彼女から差し出された手紙を、恐るおそる覗き込んでみると、
『来週の土曜日までに、借りているアパートを引き払う準備を必ずしておくように』
たった一行、こんな文がしたためられていた……って便箋までリラッ◯マの絵柄入りでしたか。
「こ、これって……どういうことだよ?」
「そ、それは私も……わからない……」
誰が見てもこの文面、彼女がこの町に戻るのを許してくれた人間が寄越したものとは思えない。はっきり言って、今の俺たちにとっては何が何やらだ。
文面の真意が全く読み取れず、全員が全員、焦りと困惑の面持ちを隠せずにいたが、
「で、でも……あの母のことだから……きっと何か……考えがあるはず……だから……、」
思い出してみれば確かにあの母親、たった一、二時間ほどの面識ではあったけれど、言い方は悪いが厳格な態度と言動の中にも、どこか曲者めいた感を抱かなかったわけではなかった。
まぁ、よくよく考えれば、このような側面も持ち合わせていなければ、国内外を股にかける巨大企業を束ねていくことなど到底、できようはずもないのだろうが。
「だから?」
「とりあえずは……このとおりにして……みようと思う……」
この言葉に一瞬俺は、微かな不安と疑念が心をよぎったが……、
いくら産まれてこのかた、顔を合わせる機会が極めて少なかったとはいえ、やはり親子は親子だ。きっと彼女なりに何かしら相通じるものを感じたのだろう。
彼女が手にしている手紙から、不安よりも母娘の絆と愛情を感じ取った俺は、素直にこんな言葉をかけてやる。
「ああ、そうだな。お前がそう思うんなら、そうすりゃいいよ」
「う、うん……」
相も変わらずたどたどしい口調だけど、そう返事をした彼女の表情は、どこか晴れやかで清々しいものになっていた。
◆ ◆
小中野が戻ってから十日ほどが経った日曜日の朝。
「んうーっ……う、」
あまり生きた心地がしなかった小中野家への初訪問から、体調面も心理的にも完全に落ち着きを取り戻していた俺は、外から聞こえてきた物音で目を覚ます。
「うふわあああああぁぁぁー……っ、」
目は覚ましたものの、すぐには静まりそうにない物音に、これ以上の安眠は望めないと思った俺は、まだ若干の眠気を感じながらもベッドから身体を引き剥がす。
「ったく……朝っぱらから何の音だよ?」
こんな科白を呟きながら、俺はカーテンを指でつまみ、外を覗く。
「おっ? お向かいの家、誰か入んのかな?」
カーテンを全開にして見てみると半月前、大阪の息子さんと同居するために自宅を引き払った湊さんの家の前に、運送会社のトラックが一台、停まっている。
「次決まんの意外と早かったな。どんな人だろ?」
まだ少し寝ぼけた脳で、こんな野次馬根性をもたげさせている俺は、ぱぱと着替えを済ませ、冷水で洗顔してから家を出て、新たな入居者を確認しようとした。すると……、
「あーっ! はー兄ぃおっはー!」
玄関先では既に妹が、引っ越し作業を食い入るように見つめていた。
ちなみに母親は、本来なら日曜は休みなのだが、開店からのパートさんが急な用事で仕事に行けなくなったとのことで、急遽職場に行く羽目になったらしい。
兄妹二人で、暫く作業を眺めていると、
「おおーっ! はーちゃんとときちゃんじゃないかぁー! おはようーっ!」
トラック越しに、やたらデカくて野太い声が聞こえた。
声の主は、長峰エステートの社長にして我が幼なじみ、長峰亜樹の父親だ。
そういやこの家、長峰んとこに任せてたってウチのお母んが言ってたな。
「あ……お、おはようございます」
「あーっ! おっじさぁーん! おっはーでぇーっすう!」
「いやぁー! こないだは久しぶりに会えて嬉しかったなぁー!」
「い、いえ……こっちこそ暫くご無沙汰してて……すんませんでした」
「いやいやぁー! ウチの亜樹もホント喜んでてねぇー! 君たちには感謝してるよぉー!」
「は、はぁ……恐縮です」
たく……朝から娘同様、元気で賑やかすぎる父親だ。姿かたちは全く似ていないけど、こういうところが父娘なんだろうなぁとは思うのだが。
「と、ところでオヤジさん……」
「んっ、何だい?」
「いくらここが住みやすい場所とは言っても、随分と次決まるの早かったですね」
「そうそう、それなんだけどねぇ、確かにはーちゃんの言う通りだけど、湊さんの家って割と築年数経ってるから最初はどうかなぁーって正直、思ってたんだけどねぇ」
「へぇ、そうなんですか」
「でもまぁ、家のメンテナンスが結構行き届いていたみたいだし、一度リフォームもしてるらしいから、ひと通り見た時は大丈夫そうかなぁとは思ってたけどねぇ」
「実際築年数ってどのくらいだったんですか?」
「んー……確か三十五年くらいだったかなぁー?」
ってことは……俺や妹が初めてお邪魔した時には、既に築四半世紀くらい経ってたのか。
言われてみれば、外壁なんかは何度か塗り直ししていたのを俺も見たことがあったし、そのおかげでぱっと見もそんな古くは感じさせない。それに、暫く入っていなかったけれど、長峰父の言う通り中も大丈夫そうに思える。
「まさかこんなに早く捌けるたぁ思ってもみなかったよ。がっはははははっ!」
大笑いしながら本音を曝け出す長峰父。
見るとその顔は、割とガチで安心しているのと、商いが成立してご満悦な思いの両方が同居しているかのようだ。
「おっ、来たかな?」
突然、長峰父が後ろを振り向き、走り来る自動車に視線を向けると同時に、俺たち兄妹も揃ってそれを見つめる。
すると、
「おおーいっ! 新城ぉーっ! トッキーぃ! おっはぁー!」
助手席の窓から手と頭が現れ、こちらに向かって大声を張り上げてくる。
無論、言うまでもなくそれは俺たちの幼なじみ、長峰亜樹だ。
自動車は程なく、トラックの前に停まる。
「お、おい……どうしてお前がここ来てんだよ?」
「もしかしてアッキーてばー、おじさんのお手伝いか何かなのぉー? お小遣い稼ぎってトコー?」
俺も一瞬、そうとは考えたが……たぶんそれはないだろう。
だってこいつ、ヒマさえあればゲームとマンガ、アニメ三昧のオタク女子だから、テストが終わったばかりの貴重な休日に、自分からわざわざ家業の手伝いなんかしないはずだ。唯一の救いは腐った女子じゃないことくらいか?
「やーやー! 何たって今日はトクベツだかんねー! だからあたしもおとーさんのお仕事に協力しよーかってねー!」
「特別?」
「ナニそれアッキー? お小遣い稼ぎじゃないのぉー?」
「まーまー二人ともー、まずはナカ入ってみよーよ」
そう言って自動車を降りた長峰は、俺たちに家の中に入るよう促す。
「お、おい、いいのかよ? なんも関係ない俺たちなんかが入っちまったら、家の人に怒られっだろ?」
躊躇する俺に、長峰はその八九寺◯宵ちゃん顔をにぱっとさせ、ふるふると首を左右に振る。
「ちっちっち、いーからいーから。入れったらはいんなさいってーの」
「あ、ああ……わかったよ」
執拗とも思える誘いに、俺たちは少しばかり怪訝そうに顔を見合わせていると、
「ほーらあ! いつまでもつっ立ってないでさっさと入れっ!」
「お、おう……うおっ!」
「きゃっ!」
まだ煮え切らない態度に業を煮やした長峰は、ちょっとばかり癇癪を覗かせ、後ろから背中をどんと押し込んだ。
靴を脱ぎ、まずは小さい頃によくお邪魔したリビングに入る。
「うおぉ……ホント懐かしいなぁー」
中をひと通り見渡すと、思わずこんな科白が口をつく。
そういや湊さんって、旦那さんを早くに亡くしてたっけな。
生涯の伴侶に先立たれれば、残された方はやはり淋しいだろうし、心細くもなるのだろう。
ましてや子供たちが全員、遠方に住んでいればなおさらだ。
だからなのだろうか、独りになってからの湊さんは、俺と妹が幼稚園に通うようになったあたりから毎日のように声をかけてくれただけでなく、家に招いておやつをくれたり、時には晩ごはんもごちそうしてくれた。
物腰柔らかで、どこか可愛げなところもあった、本当に優しくて温かいおばあさんだった。慣れない土地で最初はいろいろ大変でしょうけど、大阪でも元気で幸せにお過ごしください……やべ、昔を思い出してたらお兄ちゃん、懐かしくって涙出てくらぁい! って感じ?
などと、他人でありながら思わずビデオレター送ってしまいたくなりそうな感慨に耽っていると、
「んじゃあたしー、お客さん連れて来るかんねー。新城たちはここで待っててちょーよ」
おいおい、何で急に名古屋弁? 八◯亀ちゃんかよお前? 確か住んだことも行ったこともねーだろが。
「お、おい……長峰、」
客を呼ぶのに赤の他人がここにいたままでいいのだろうかという俺の心配をよそに、長峰はだっと駆け出して再び乗って来た自動車に戻って行く。
「仕方ない。ここで待たせてもらうとすっか」
「ねーねーはー兄ぃ。今度のお向かいさんってどんな人かなぁー?」
「さーな。家一軒だから、たぶん三、四人くらいの家族じゃないのか?」
「あーそっかぁー。いい人たちだったらいーねー」
「ま、引っ越しの最中に俺たちがここにいていいみたいな感じだから、早く近所の人たちに溶け込みたいって考えもあるんじゃないか? そういう人なら迷惑行為もしなさそうだし、性格とか意地だって悪くないだろうしさ」
「はー兄ぃ……言い方、」
こんな会話を交わしながら、俺たち兄妹はとりあえず長峰が戻って来るまでの間、業者の人たちが次々と手際よく運び入れる荷物を何となしに眺めていたが……、
『あ……あれっ?』
段ボール箱の中身は当然、窺い知れるはずもないが、食器棚や本棚など大型の家具は、下面や四隅には破損防止の養生をしているものの、目視できる部分はどこかで見たような気がする物ばかりだ。
『これ……まさか、』
「ね……ねぇはー兄ぃ、」
「どうした?」
「これって……何か、」
「もしかして……お前もか?」
「う、うん……はー兄ぃも?」
ふむ……さすがは我が妹。どうやら俺と同じ思いを抱いているようだ。
その答えは……長峰が再びここに戻って来た時に判明する。
すると、玄関付近から物音が聞こえ、二人分の廊下を軋ませる音が近づく。
やがて足音が俺たち兄妹の背後で鳴りやんだ……その時、
「い……いらっしゃい……ませ……」
リビングの入口から、高校入学以降ほぼ毎日のように耳にしていた声音。
恐るおそる振り向くと、眼前にはこれもほぼ毎日のように顔を合わせていた長身の女子……ってあまりにもタッパありすぎやがるから、デコから上が隠れちまってるじゃねーか!
「―――――ぷ、ぷっ、」
こんな信じられない場所で信じられない姿を目にした俺は、驚きの念もそこそこに思わず吹き笑いしてしまった。
隣にいる妹も、両手で口元を固く押さえながら必死に笑いを堪えていたが、
「こ、こ……小中野さあぁーーーーーんっ!!!」
突如、震える声で大絶叫したかと思うと小中野の胴体目がけ、アメフトさながらにタックルをぶちかましていた。
片や小中野も、立派なガタイと低反発高級マットレス胸で、その衝撃を全て吸収し切っていた……あーもーうらやま。(バカ)
ただ……妹を抱きとめている彼女の姿を見ていると、お家の事情からずっと一人っ子で育ってきたのもあるのだろう。まるで自分の妹であるかのように穏やかで、たおやかな表情で見つめている。
たぶんこれからは、二人のこんな姿をしょっちゅう見せつけられることになるのだろう……あーもーマジでうらやま!(バカ)
「それにしても……いったいどういうこったよこれ?」
この地に戻ってから、初めて妹に抱きつかれたのがよほど感慨深かったのか、俺はまんざらでもなさそうなご様子の小中野に問う。
「そ、それは……君との約束を……果たそうとして……」
「約束?」
「そ、そう……」
あ……あれ? 俺ってこいつから約束なんかされてたっけ?
彼女には本当に申し訳ないけれど、いくら乏しい記憶を掘り起こしてみても欠片すら現れない。
「あ、あのさ……小中野、」
思い出せないものをいくら考えても仕方ないと俺は、彼女に約束の内容を問おうとすると、
「に、入学式の……帰りに……、」
「……えっ?」
入学式の帰りといえば……確かこいつ、俺の家教えてくれと土下座してまでお願いしてたな。
あの時は、家の場所を知られた後にストーキングされそうとか思って、妙に不安が襲いかかってきたような記憶はあるけど。
結局は次の日から俺が迎えに行くって条件でうやむやにした挙句、すっかり忘却の彼方行きだった……あ、
そう言えば……、
『教えてくれれば私が……君の家に行くから……そこから……付き添いしてくれれば……』
こう言われた後、俺は彼女の方向オンチの程度があまりにひどかったので、本当に覚えられるのかと疑問を呈した。
しかし、対する彼女の答えは……こうだった。
『絶対に覚えるから……心配ない……』
あ、あー……そうか、そういやそんな話なんかしてたっけなぁ。
俺がすっかり忘れていた約束を、彼女はずっと忘れずにいてくれた。
そして今、それを現実のものにしてくれた。
ま、さすがに我が家の真向かいなら、いくら超絶方向オンチのこいつでも迷子になる心配はないだろう……たぶん。
が、しかし、
以前、中間テストの勉強会で、俺に美味しいコーヒーを提供するために高価なマシンを購入したと知った時、こんな無駄遣いなんかするなと窘めたことがあった。
まさかとは思うけれど……いくら実家の財力があり余っているとはいえ、他の人からすれば全く他愛のなさそうな約束を果たすためだけに、こんな手の込んだ、そして俺が否定したやり方を彼女が要求するだろうか?
「と、ところで小中野……、」
「ど、どうした……?」
「どうしたってお前……どうしたんだよこの家?」
この問いに彼女は、ほんの少しバツの悪そうな顔つきで返してきた。
「そ、それが……昨日の夕方……引き払いの準備が……終わってすぐ……家政婦さんが来て……」
言われてみれば、昨日までにアパートを引き払う準備しておけって手紙、受け取ってたな。
「家政婦さんが?」
「ここは……小中野家が……購入したから……明日から住めと……言われて……それと……、」
「それと?」
「お互い……近くにいた方が……何かと都合が……いいだろうという話が……母から……あったらしくて……」
確かに、以前のアパート経由で登校するのは、最短距離で行くよりもやはり遠回りで、加えて四階の部屋まで迎えに行くのも時間的ロスがあったのは事実だ。
これなら、休日の外出や自宅でのテス勉も含め、いろいろと効率的且つ便利になるのは間違いない。
一つだけ引っかかるのは、「何かと」という言葉の意味合いが、果たしてそれだけの話なのかということなのだが。
「――へっ、へへへっ……、」
一人娘のために、こんな短期間で家一軒丸ごと買い上げてしまうという、俺たちのような一般庶民からすれば到底不可能な、ある意味強引でむちゃくちゃとも言えるやり方に、思わず俺は全身が脱力してしまい、こんな締まりのない笑い声を発していた。
もしかしたらあの母親、彼女が実家に戻って俺が来訪するまでの間に学校や私生活の全てを既に聞いていて、話の流れでこの件についても耳にしていたのかもしれない。
そして、彼女をここに戻す判断を下したと同時に自身の判断で、こんな突拍子もないことを水面下で進めていたのだろう。
なぜ、わざわざこんなことをしてくれたのか、その真意など今の俺にはわからない。
ただ、一つだけ言えるのは、母親は自分の愛娘がこの土地で暮らし、今の高校に通う事を許しただけでなく、俺が彼女にした約束を確実に果たさせるための手助けをしてくれたのは間違いのない事実だ……にしてはあまりにも金かけすぎだろ?
高校入学以降、自分から口にしたからというだけでやっていた道案内。
こうなった以上はもう生半可な気持ちではやっていられない。
これから俺は、自分自身に課した彼女への約束を、責任を持って果たしていかなければならない。
もしそれを、少しでもぞんざいに扱ったりしようものなら、その時こそ彼女は二度とこの町に戻ることができなくなるだろう。
何より、彼女が今まですっと大切な思い出として心に抱き続けてきた五歳の夏の出来事を、当事者である俺が踏みにじった挙句、過ぎるほどに愚直で純粋な彼女の本質を粉砕するようなことは絶対にできないのだから。
などと独り、心の中で強い決意を刻み込んでいると、
「お邪魔します」
玄関から長年聞き慣れた声がしたので、急ぎ玄関に向かう。
「よう、新城」
「ふ、藤崎……」
「んっ、どうした? そんな鳩が豆鉄砲喰らったような顔して?」
「な、何でお前がここ来てんだよ?」
「おいおい、それは随分な言い草だな。一応は俺だって小中野さんのクラスメイトなんだし、一度だけとはいえ一緒に遊んだ仲だしな。それに、」
途中で言葉を止めた藤崎は、珍しく少し照れ顔を見せる。
「それに……?」
「――友達として新居を見に来たって、別におかしくはないだろう?」
「藤崎……お前、」
相も変わらずサラっとシレっとした口調の中に、どこか嬉しそうな感を窺わせる長年の親友の言葉を耳にした俺は、素直に自分の心情を口にする。
「ああ、そうだな。お前が気を遣ってくれなかったら、俺たちは今こうなっていなかったからさ」
この言葉に、藤崎は少しばかり感心したかのような顔つきで俺を見る。
「ふぅん……お前にしては上出来だな」
「どういうこったよ、それは?」
藤崎の真意が全く飲み込めない俺が、返す刀で問うと、
「まぁ、やっぱりお前はお前だったか。少しでも感心した俺がバカだったよ」
そこにはなぜか安堵の表情を見せる、俺にとってかけがえのない長年の親友の姿があった。
それを見た俺は、こんなニブくてヘタレでどうしようもない自分に、十年以上の長きに渡って付き合ってくれた藤崎隼翔という人間に対し、心からの敬意と感謝の念を込め、こう返す。
「そんなの当たり前だろ? 人なんてそうそう簡単に変わるもんじゃねえよ」
この言葉に藤崎は、最初こそ微かに顔を引き締めたものの、すぐさま軽く笑みをこぼしながら言った。
「――そうだな。それでいいと思うぞ。お前は」
◆ ◆
小中野が、我が家の真向かいに越してきた翌日の朝、
ピンポーン
これまで俺が家を出ていた時間きっかりに、インターホンが鳴る。
「はいはぁーいっ! 今行きまぁーっすうー!」
朝からムダに元気な妹の絶叫にも似た声につられるかのように、俺はキッチンテーブルの椅子から腰を上げる……すると、
「伯斗」
洗い物をしている母親が、背後から不意に声をかけた。
「行ってらっしゃい」
「あ、ああ……行って来るよ」
我が母の、何年かぶりであろう優し気な「行ってらっしゃい」の声音に、思わず戸惑ったような挨拶をしてしまった。
軽く驚きの表情で振り返ると、その顔は満面の笑顔……と言うか、まるで腐女子がBL本見て悦に入っているような締まりのない、いろんな意味でキモいとしか思えない、「でへへぇ~」という声が聞こえてきそうな、にへら~っとした薄ら笑いを浮かべていたりなんかする。
でもそれ、俺と同年代の女子がそんな顔するってんならまだマシのような気もするけど、顔も性格もキツキツのあんたがそんな顔したって親父すら喜ばねーし、むしろ「どうした? 熱でもあるのか?」とか心配されちまうだろ? こんなん面と向かってなんか口が裂けても言えねえけどな。
「……何だよ?」
「べっつにぃー、何でもないわよぅー」
ったく……様々な意味で恐怖と不気味さしか感じない顔してそんなん言われたって、どこの誰が信じるってんだよ?
「――まぁ、頑張んなさい」
『……えっ?』
この一言に、思いがけず足が止まってしまう。
いったい何を頑張れというのか……。
その真意はわからないし、何となくわかりたくないという思いもあるけれど……。
「あ、あとねぇー、」
「んっ……?」
「今回の件に免じて、こないだあんたが学校休んだ時の発言は不問にしてあげるからね。感謝しなさいよ」
「は、はぁ……はええええええええええっ!」
く、くそおっ! チクりやがったな長峰のヤロー!
引越の最中、仕事から帰ったお母んに、なーんかニタニタしながら耳打ちしてたかと思ったら……。
やっぱ俺の周りにいる女性陣にゃどうあがいても敵わない……心底改めてそう思わされる俺だった。
「ほらほらぁー! はー兄ぃー! 待ってるよぅー!」
玄関先から聞こえる妹のけたたましい呼び声に、ふと我に返ると、自然に足は前に進み出していた。
「お……おはよう……新城君……」
玄関を見やると相変わらずたどたどしい口調の挨拶。全身は直立不動で表情も硬い。制服着せたトーテムポールかお前は?
「お、おう……おはよう」
「んじゃときわは先行きまっすねー! ごーゆっくりぃー!」
互いに挨拶を交わしたのを見届けた妹は、ぱっと小中野の左腕から手を離し、そそくさと家を出る……っていやいやお前、何をゆっくりすりゃいいんだよ? ここで暫く二人して顔突き合わせてろってのか? いくら時間に余裕あるっても、このままじゃ遅刻しちまうじゃねーか。
「待たせて悪いな。んじゃ行くか」
「う、うん……よろしく……お願いします……」
「あーもうその言い方、いい加減やめろって」
「あ、す、すまない……」
この会話、先週までは彼女が以前住んでいたアパートでの出来事だったのに……。
それが一転、我が家での光景になっている現実に、例えようのない照れ臭さと気恥ずかしさを感じずにはいられない。しかし……、
今はそれ以上に安堵感を抱かずにはいられない。
これはきっと、彼女がアパート暮らしをしていた頃、俺が迎えに来た時の彼女の感覚と同じものに違いない。
そんな思いを抱きつつ、俺たち二人はいつものように学校へ歩を進める。
「ところでさ、」
「どうした……?」
「お前の家政婦さんだったあの人って、いったい何者なんだよ?」
「ど、どうして……?」
「ん、んー……お前の家で仕えていた時はどうか知んないけど、俺が十年前初めて会った時は何か怖く感じたって言うかさぁ……、」
無礼は承知ながらも俺は五歳の時に感じた、思い出すのもおぞましい恐怖感を蒸し返す。
すると彼女は、ほんの少し表情を緩め、口を開く。
「あの人は……私が産まれてからずっと……傍にいてくれたらしいけれど……話では……おばあ様の……古くからの友人らしくて……、」
「古くからの友人」か……。
「学生時代は……素行も学業成績も……おばあ様と……肩を並べるくらいに……良かったらしくて……だから何とか……居場所をつきとめて……家に呼び寄せて……」
そうだったのか……ま、あの家に仕えるのであれば、最低でもそのくらいのスキルがないと務まらないってのは、何となくわかるような気がする。
ただ、彼女の祖母と家政婦さんの間には、俺なんかには想像もつかないほどに途方もなく長い期間、強固な信頼関係が保たれ続けていたのは想像に難くない。
「前に話したとおり……あの人からは……勉強や家事……その他にも……いろいろなことを教わって……だから……私にとって本当に……なくてはならない……存在だった……」
確かに、彼女の置かれている立場を考えれば、全てにおいて万能でなければならないだけでなく、そのレベルも高いものを要求されるのだろう。
いくら彼女に、元々生まれ持った素養があったにせよ、それを充分に引き出してやらなければ、これまで俺が目にしてきた能力は開花しなかったはずだ。
そして彼女は彼女で、自分の素養に微塵も甘えることなく、家政婦さんから教わったことを更に高めようと日々、努力を重ねてきたのだろう。
実際、中間テストの結果が学年トップ。更に驚くことに、俺に勉強を教えてくれたり夕食を振舞ったりで、自分の勉強時間が削られていたのに加え、家から監視されていた自分がどうなってしまうのかという、自身の先行きに不安を抱いていたにもかかわらず、全教科満点のパーフェクトウィンを飾ったという事実がそれを物語っている。
「十年前……外の世界を全く……知らなかった私は……おばあ様に数日間……あの人の家で……過ごせと言われて……」
「それって、もしかして課外授業とか社会勉強みたいなもんか?」
「お、おそらく……そういうことだと……だから……ここにいた間……毎日のように朝から……外に連れて行かれて……」
周囲に何もない、どこか別世界にいるかのような片田舎の屋敷で、世間知らずのお嬢様として日々を過ごすよりは、通信ツールの発達で情報などいくらでも入手可能な現代とはいえ、世の中というものを実際に自分の五感で触れておいた方がということだろう。
「あの時は……見るもの全てが初めてで……新鮮で……自分にとって本当に……かけがえのない……経験だった……だから……、」
「だから?」
「あの日々が……あったからこそ私は……ここでこうして……生活をしてみたいと……思ったのかも……」
更に彼女の話では、普通に電車やバスなどの公共交通機関を使い、首都圏の名所から下町の商店街、挙句には秋葉原や池袋などといったオタクの聖地、更には五歳にしてメイドカフェなるものまで連れて行かれたという。
このような、一般庶民的実体験があったからこそ今、普通の一人暮らしの生活に違和感なく溶け込めていけたのだろう。
ただあの時、方向オンチを自覚していたかは別として彼女はなぜ、全く土地勘のないこの場所で単独行動に走ったのだろうか?
俺みたく変なとこで向こう見ずな人間ならいざ知らず、彼女ほどの聡明さと理解力があれば迷子になるのを恐れて、自分からはそんなことなんかしないと思うのだけど。
でもま、そんな疑問は今、彼女との約束を完遂するという目的の前では何ら関係のない、単なる俺たち二人の思い出話に留めておくことにしようと思う。
「ま、でもさ、」
「で、でも……?」
「そんな人を家政婦にしてくれたってことは、やっぱ母親のお前に対する愛情は本物だったんだろうよ」
「そ、それはどういう……?」
「もちろん俺は、家政婦さんのことってそんな詳しくは知らないけど、」
「けど……?」
「今にして思えば、お前の母親と話してた時、何となく家政婦さんと雰囲気とか話しぶりとか結構被ってるってゆーか……十年前に初めて会った時みたいな感じしたからさ」
「……言われて……みれば……」
「だからお前の母親、あの家政婦さんなら、普段家にいてやれない自分の代わりに、お前をちゃんと育て上げてくれるって信じてたんじゃないか?」
「そ、そうだろうか……?」
「そりゃそうだろ? 大体にしてお前さっき、『自分にとって、なくてはならない存在』って口にしたのが何よりの証拠って思うんだけどさ」
「そ……そうか……」
「ああ、間違いないよ。だってさ、」
「だ、だって……?」
「二か月近くお前の近くにいたけど、全く非の打ちどころないもんな」
「あ、え……そ、そんなことは……、」
「たださ、」
「えっ……?」
「その、どうしようもない方向オンチ以外はだけどさ」
「う、うう……っ、」
「あっはははははっ!」
「……くすっ、」
お家の事情で我が子の傍にいてやれなかった母親の、行き場なく彷徨い続けて自分の愛娘に理解してもらえなかった愛情……。
今回の一連の出来事を機に、遅ればせながらもやっと実感したのだろう。彼女はほんの一瞬、呆気に取られた顔をしたかと思うと軽く失笑してすぐ、喜悦に満ちた表情を俺に向けていた。
「と、ところで……、」
「んっ、どした?」
「じ、実は昨日……引っ越したばかりで……、」
『む、これは……?』
「ほ、殆ど……食材が……、」
『やっぱり……か、』
「そっか。んじゃ帰り、また例のとこ寄ってくとすっか」
「よ、よろしく……頼む……」
「わかった。任せとけよ」
「う、うん……いつも……ありがとう……」
こんな感じで……俺たち凸凹コンビの、少しだけ風変わりな日々はとりあえず続いていく。
でもこれが、いつまでのものになるかは俺の気構えと心がけ次第だ。
この、外見とは裏腹に心優しく、一途で情に厚い迷い姫に何一つ不自由のない、そして悔いのない日常をもたらしつつ、彼女の家柄……いや、
「彼女」に相応しい人間になるために、今までの考え方や自分への甘さを改めなければならない。
それが、無礼にも彼女の実家に半ば強引に押しかけ、母親に家庭事情ガン無視で懇願した挙句に聞き入れてもらった俺に課せられた責任なのだ。
まぁ……詰まる話、これまで通りJV比率100―0の一方的主従関係のままってことになるんだけど……でも、
今の俺は、それでも構わないという思いに駆られている。
なぜかはわからない。わからなくていい。だから今は考えない……なぜなら、
こんなニブくてヘタレの俺にも、いずれきっと何らかの答えが出せる時がくるはずなのだから。
― 終 ―