43.消えたイレーナを追って
「イレーナ、イレーナ!」
部屋の隅から隅まで見渡して叫んでも、彼女は姿を見せない。心臓が早鐘を打ち始める。何かあったんだ。間違いない。何があったんだ。彼女の身に。
こんな時にこそ僕の力が生かされるべきじゃないか。なのにどうして何も見えてこないんだ。この部屋であったはずの出来事が。
それだけ僕はまだ未熟なのか。
「メレディスさん。あの、これ……」
パトリシアはテーブルの上から何かを摘まむ。それは羊皮紙の便箋だった。僕は溺れた釣り人のように、慌ててその便箋にしがみつく。
「見せてくれ!」
ほとんど奪い取るようにして、僕はパトリシアの手から便箋をむしり取る。イレーナらしい繊細な筆致で、ただ二言だけ赤いインクの文字が刻み付けられていた。
『ありがとう さようなら』
その文字を見た瞬間、きんと耳鳴りがした。すっと頭から血が落ちていって、目の前が一気に曇っていく。彼女はいなくなった。きっと永遠に。
「そんな……」
彼女がまた自分で命を断とうとしているのか? いや、そんな事は有り得ない。最近の彼女はエーテルに満ちて、いつもうっすら輝いていた。そんな気力に満ちた彼女が死ぬなんて。きっと良からぬ事に巻き込まれたんだ。
僕が立ち尽くしてぐるぐるとしていたら、パトリシアが肩をそっと叩いてきた。
「メレディスさん、メレディスさん。この便箋から何か感じませんか?」
「感じる?」
パトリシアはこくりと頷いて、僕の手からそっと便箋を抜き取った。便箋をじっと見つめて、彼女は独り言のように呟く。
「ええ。多分、エーテルが込められてるんだと思うんです。手で触れた時に、ちょっとふわっとする、くらいの微弱な物ですが……」
「エーテルが……」
そんな簡単な事にも気が付かなかったなんて。落ち着け、メレディス。お前は今、気が動転してるんだ。胸一杯に空気を取り込んで、お腹が引っ込むまで息を深く吐き出す。それを何度も繰り返して、昂る早鐘を何とか抑え込む。
「パトリシア。その便箋をもう一度見せてくれ」
「は、はい……」
彼女は便箋の上と下を持って、僕の目の前にそっと差し出す。僕は眼に意識を集中させた。いつも何の意識もしないでエーテルが漂う世界を眺めてきたけれど、それが自分にしか出来ない特別な事だと言われたら、妙に力んでしまう。赤いインクの文字が滲んだり捩れたり、上手くエーテルの像を捉えきれない。
「くそっ、落ち着けよ、メレディス……」
イレーナは確かな意志で、わざわざエーテルを込めながらこの文字を刻んだんだ。僕に何かを伝えようとして。
『エーテルの流れが未来を見せる』
僕のおばあさんは、イライジャ様にそう言った。エーテルの移り変わりが、この世界の移り変わりを決めるんだと、イレーナはあの日そう理解した。僕はイレーナほど賢くないけれど、それでもこの世界に揺るぎない事実が一つある事を知っている。
「どんな未来も、いつかは過去になる」
「え?」
エーテルの流れを遡れば、そこには過去がある。
「見せてくれ、イレーナ。何があったんだ」
僕はそっと文字に触れる。文字と重なるように浮かんでいたエーテルが、ふと霧散して、部屋中に広がっていく。しばらくして、広がったエーテルが再び凝縮して、うっすらと一つの像を描いた。
『どうしても協力していただけないのですかな』
黒い外套に身を包んだ男が、椅子に深々と腰かけて壁際に立つイレーナの事をいやらしく見上げていた。イレーナは固く腕組みして、苛々と爪先を動かす。
『あんまり私を怒らせないでくれる? あんたらごとき、私は一捻りにしてしまえるわよ』
『別にイレーナ殿を脅して従わせようというつもりではありませんよ。取引に来ているのです。
望むなら望むだけのものを差し上げましょう。それだけの価値があなたには、あなたの知る器械人形の技術にはありますからな』
扉は、頭巾を目深に被った男二人に塞がれていた。その腰には短剣がぶら下がっている。取引というには物騒だ。
『いくらお金を積まれたって、協力なんかしないわよ』
イレーナは物怖じしない。爪を軽くこすり合わせると、火花が散った。
『どんな理由があったって、この世界で器械人形を復活させたりなんてしない。奴隷代わりにしたり、戦に持ち出したり……あんたがどこの人間かは知らないけど、どうせそんなのが目的でしょ』
『我々が戦を望むわけではありません。ブリギッド王国はいつでもホイレーカとエルメスに攻められる立場。しかし圧倒的な器械人形の力があれば、奴らも恐れをなして攻めてくる事は無くなるでしょう。我々が望むのは安寧ただ一つです』
『口ではそう言えるでしょうよ。でも実際にその力を持った人間がどうなるか、私は百遍も二百遍も見てきたわ。その経験上、あんたの言うことは全く信用出来ない』
頑ななイレーナ。男はテーブルに手を掛け、くつくつと笑い出す。
『頑固なお嬢さんだ。確かに、これは正面からの取引は無理と見える』
『かどわかそうったって、それも無理な話よ』
イレーナはいよいよ腕組みを解いて、戦うための姿勢を取り始める。それを見た男は、ますます高く笑い出す。
『おっと。わざわざ貴方と事を構えるつもりはありませんよ。でも、我々に従わないようなら、貴方がご執心の少年に不幸な出来事が訪れるかもしれませんがね』
『まさか……』
イレーナが眼を見開く。男は素早く立ち上がって、彼女を抑え込むように迫った。
『我々に手を出したら貴方の従者の無事は保証しませんよ。彼の無事を祈るなら、大人しく我々に従うことです』
『この……』
ああ、全く気付かなかった。僕の側で、彼女の側で、こんなことが起きているなんて。僕が未熟だったから、僕に力がなかったから、彼女はこいつらに屈したのか。
僕は膝の力が抜けて、その場にがっくりと崩れ落ちる。目の前に広がる過去の光景を、見ていられなかった。
『わかったわ。貴方達に従う。でもその前に、一筆書かせなさい。メリーに別れの言葉を一つ書き残すくらいはいいでしょ』
『ええ。でも変な真似をしてはいけませんよ』
『わかってる』
イレーナの足元が僕の側に近づいてきた。彼女は懐からお気に入りの羽根ペンを取り出すと、すらすらと文字を書き始めた。
『……まあでも、一つ勘違いしてるかもしれないから言っておくけど』
彼女は出し抜けに呟く。
『彼は魔道士としてはまだまだだけど、やる時はきっちりやるわよ』
イレーナは羽根ペンを懐に収めると、静かに男達へと歩み寄る。
『じゃ、よろしく』
彼女がそう言い残した瞬間、結んでいた像は霧散した。
耳鳴りとめまいがいよいよひどくなって、僕は冷たい床に倒れ込んだ。あんまり長く過去を覗くと、かなり消耗するらしい。
「メレディスさん!」
パトリシアが慌てて駆け寄ってくる。その足音が耳を打って、何とか僕を現に繋ぎとめる。
「わかったんだ。パトリシア。イレーナは、僕に後を託したんだ。僕がイレーナを助けるって、そう信じてくれた」
「え? 何を言ってるんです? 託した? 助ける?」
僕は何とか立ち上がる。頭は相変わらず重いけど、胸の奥からふつふつと力が湧いてきて収まらない。その力が僕を突き動かしている。
「聞いてくれ、パトリシア。イレーナは攫われた。誰か知らないけど、彼女の知識、器械人形を動かすための知識を求めてたに違いない」
「え? ど、どうしてそんな事が……」
パトリシアは目を丸くする。でも、どうしてわかったのかを今いちいち説明している暇なんかない。僕はパトリシアに詰め寄った。
「いいから! お願いだ。急いでこのことを学長に伝えてくれ。学長なら、きっと何か手を打ってくれるはずだ」
僕の勢いから何かを悟ってくれたのか、パトリシアは静かに頷く。
「……伝えます。メレディスさんは?」
「僕はイレーナを助けに行く」
雨が降りしきる中、大学を飛び出して、僕は王宮へと向かう。後を託されたといっても、僕一人で何とかなるもんじゃない。でも、僕には友達がいる。
この王国で一等の騎士だ。
「何だ、お前」
門の前には当然のように門番が立って、僕の行く手を塞いできた。兜の奥から睨みつける彼らを、僕もじっと睨み返す。
「ロデリックに会わせてください。大変な事が起きてるんです」
「大変な事? 何が大変な事なんだ」
簡単に話すわけにはいかない。今イレーナは敵の手に落ちている。話が伝わったら、一体どんな目に遭うか。
「話せません。とにかくロデリックに会わせてください。メレディスが会いに来たと言えば通じるはずです」
「馬鹿が。用もないのに通せるか。ただの見習い魔道士のくせに。友人か何だか知らんが、お前とロデリック殿では格が――」
「開けろ」
その時、門番の言葉を掻き消すように鋭い声が響いた。門番は泡を喰って跳び上がる。
「ロデリック殿!」
「た、直ちに!」
門番は慌ただしく城の奥に引っ込み、扉を押し開いた。軽装に大剣を担いだローディが、笑みを浮かべて僕の目の前までずんずんとやってくる。全てわかってるとでも言いたげだ。
「ローディ、どうして」
「さっきイライジャ学長からワタリガラスが送られてきたんだよ。この手紙を持ってな」
ローディは僕に向かって手紙をひらひらさせた。
「仕方ねえ。お前の頼みってんなら手を貸してやるよ。俺の休みは今夜だけ。今夜中にケリを付けるぞ」
最強の駒が僕の手元にやってきた。後は知恵と力を絞って、イレーナを助けるだけ。
「当たり前だ。あんな奴のところに、一秒だって置いておきたくないもの」