42.もぬけの殻
また旅に出ると決めてから、一週間ほど経った。いつものように授業を受ける傍らで旅の準備を進めていたけれど、肝心の遍歴免状がまだなかった。僕はこの大学に入って三か月も経っていない。そんな学生にいきなり遍歴をさせるなんて例のないことだから、いくらイライジャ様が学長だといっても、周囲を納得させるのに時間がかかるらしい。
今は待つしかない。僕にただならない力が眠っているのはわかったけれど、それでも僕はただの見習い魔道士だ。学ぶ事は山ほどある。
そんなわけで僕は、今日も講義の終わりに図書館へ向かっていた。旅に出たらしばらくは本に囲まれて過ごすことも出来なくなる。今のうちに読めるだけ読んでおかないと。一冊二冊、旅のお供に欲しいくらいだ。
「メレディスさん、メレディスさん」
本を閉じたちょうどその時、頭上から声を掛けられた。パトリシアだ。彼女は柔らかに目を細めると、僕の側に腰を下ろす。真ん丸に目を開いて、彼女は僕の事をじっと見つめる。
「その、噂でお聞きしたのですが……メレディスさんが遍歴魔道士として旅に出るというのは本当ですか?」
「本当さ。学び舎で本と向かい合っているだけではわからないことがあると思って」
「まあ! 朝から晩まで本を読み耽ってるような人がそんな事を言い出すなんて」
パトリシアはわざとらしく目を見開く。さすがに言い訳として苦しかったかもしれない。でも、本当の事を真正面から伝えるわけにもいかない。どこからどう話が洩れるかわからないし。
「本が好きな事と、どこに学びを求めるのかは別の話だよ。君こそ、どうして今日は図書館にいるんだい? いつも講義が終わったらブランドン達と一緒に王宮へ向かうじゃないか」
「今日は駄々をこねてお暇を頂きました。宮中の規則を学ぶ機会なんてこれからいくらでもありますけど、イレーナ先生とお話出来る機会なんてもうほとんど残っていないんですからね。だって、イレーナ先生も一緒に行かれるのでしょう?」
机に身を乗り出して、彼女は僕の事をじっと見つめる。怪しまれるといけない。僕は何でもない風を装いながら頷く。
「そうさ。彼女は俺の師匠だし」
「師匠ですか。……あのように才気に優れた方の技を側で見られるなんて羨ましい限りです。話も理路整然としていてわかりやすいですし。もっとあの方のお話を聞きたかった……」
パトリシアは天井を見上げて深々と嘆息する。
「パトリシアさんはイレーナがお気に入りなんだね」
「当たり前です。どれだけ学問を修めたとしても、私に課せられる第一の仕事は親の決めた家に嫁いで世継ぎを残す事です。ですが闊達に魔道の知識を披露してくれるイレーナ先生の姿を見ていると、私にもまた別の道があるのではないかと、そんな気がしてくるのですよ」
別の道がある。鼻の穴を膨らませて意気込むお嬢様の姿を見て、僕は何だかむず痒い気持ちになる。僕も初めてイレーナに出会ったあの日、こんな風に興奮して父さんに詰め寄っていたのかな。
「奇遇だね。俺も、イレーナに初めて会った時にそう思ったんだ。村の中で燻ぶっているだけじゃない、何か別の道が僕の前に拓けるんじゃないかって」
「ええ、ええ。やはり天賦の才とでもいうのでしょうか。あの人にはそう思わせてくれるだけの何かがあるのです」
彼女は何度も頷くと、いきなり僕の手を取った。
「さあ、そんなわけでお願いがあるのです。私をイレーナ先生のお部屋まで連れて行ってくださいませ。一度私人としてお話をさせて頂きたいのです。いつかメレディスさんが遍歴を終えて戻ってくるまで、親しい者として私の事を覚えていてもらえるように」
パトリシアはすっかりイレーナに熱を上げていた。惚れこんでいる。イレーナは講義以外で他人に会いたがらないけど、ここまで熱心に頼まれたら、僕もさすがに従者としての役目を放棄するしかない。
「わかったよ。さすがにそこまで頼み込まれたら、イレーナも許してくれるさ」
こうして僕はパトリシアを連れて、イレーナと僕の部屋まで帰ってきた。そわそわしている彼女を尻目に、僕は扉の叩き金を揺する。こつんこつんと、金属と木のぶつかる鈍い音が響く。
「イレーナ、イレーナ! パトリシアが君に会いたいって言うんだ。通してもいいかい?」
しんとした沈黙が落ちる。返事が無い。いくら人に会いたくなくても、イレーナは居留守を使わない。正面から追い払いにかかってくるはずだ。
「いらっしゃらないのでしょうか」
「そんな事は無いよ。どこかに出かけるつもりなら、イレーナは必ず僕を連れて行こうとするはずだから」
僕は扉に体重をかける。鍵は掛かっていない。あっという間に扉は開いた。あんまり簡単に開いたから、僕は足がもつれて転んでしまった。
「イレーナ?」
僕は部屋を見渡す。机、窓辺、ベッド。けれどイレーナの姿はどこにもない。パトリシアはぱたぱたとそばまでやってきて、首を傾げる。
「……イレーナ先生は、どちらに?」
「いや。何も言ってこない時は、いつも部屋にいるはずなのに……」
けれど、部屋はもぬけの殻だった。