37.イレーナのいらいら
授業そのものは平穏に進んだ。ブランドンは授業の間に一度も口を開かなかった。イレーナは僕に魔法陣を書かせながら、作りたい物の設計図を正確に詳細に描く事の重要性を最後まで説き上げた。長い年月を過ごしてきた教授達も、揃ってイレーナの魔道士としての資質を認めて去った。
けれど、それはイレーナが頑張って取り繕っていたからだ。イレーナが事を荒立てると、僕にも火の粉が掛かりかねない。そう思って、煮えくり返るはらわたを押さえ込んでいたんだろう。
授業が終わった途端、沸かし過ぎた鍋の蓋のように、イレーナは吹っ飛んでしまった。
「むかつく!」
自室に戻ってくるなり、イレーナは手にしていた教科書をベッドに向かって放り投げた。脆くなっていた麻紐が千切れて、羊皮紙の束がバラバラと布団の上に散らばる。久しぶりに彼女が『むかつく』と言っているのを見た。それだけブランドンの言葉は腹に据えかねていたんだろう。
「ふざけんじゃないわよ。誰があんなものの作り方を!」
散らばった羊皮紙を拾い上げては次々床に放り投げて、彼女はそのままベッドに飛び込んでしまう。靴も脱がないままだ。僕は床に散らばった教科書のページを拾い集めながら、次の言葉を待った。イレーナもしばらく枕に顔を埋めていたけれど、やがて気だるげに身を起こす。
「あの時、メリーが誰かに見られてるような気がするって言ったわね?」
「うん。……今にしてみれば、あれはブランドンだったんだと思う。イレーナが食堂のゴーレムを直したのはみんな知ってるけど、あの人はどう直したのかまで知ってそうな口ぶりだったし」
「狡い奴ね。私が帝国から流れついた事は隠してないし、オスティア伯にはあの器械人形が帝国で作られたことだとは話してるから、あれと私の関わりを今更否定するつもりはないけれど……ああして周囲も巻き込もうとするやり方にはうんざりする」
イレーナは吐き捨てる。
「何がオドネル家の血脈よ。そんな事を言ったら、私は開放勅令が出る前からの由緒正しいラティニア市民だっての」
僕は麻紐を縒り直し、イレーナの教科書を綴じ直す。印刷の余白を使ってびっしり書き込みがされていた。イレーナも教授という役目に真剣に向き合っているのがわかる。だからこそ、ブランドンの事が余計に許せないんだ。
同じブリギッド人の僕には、ブランドンが武力にこだわる理由もわかってしまうけど。
「あれの肩を持つわけじゃないけど、ボーフォート伯領は常にホイレーカの諸侯から攻撃を受けているんだ。みんな豊かなブリギッドの領地を狙ってるんだよ」
「だからって器械人形を作らせたりしないわよ。ここに降ってくるみたいに錆びついた器械人形とは違うの。バユヴァールだかなんだか知らないけど、完全な器械人形が一体いるだけで皆殺しになるでしょうね。そしてそれだけの力を持て余しておくと私には思えない。ラティニア帝国がそうだったもの」
イレーナは膝を抱えて呟く。
「やっぱり、俺達のご先祖様を脅かしたのはラティニア帝国が作ったあの器械人形だったって事だったんだね。俺達の伝説だと、鋼鉄を纏った兵士ってことになってたけど」
「そうよ。器械人形は胸の鉛板に刻んだ魔法文字を削れば停止する。それは完全に起動している個体でも同じだけれど……敵対されたら、私でさえ近づくのは難しいでしょうね」
ぼそぼそと呟いたイレーナは、急に唸ってベッドから飛び降りる。僕のそばまでつかつかやってくるなり、彼女は僕の腕を掴んで無理矢理引っ張り立たせた。
「ああむかつく! メリー、酒場に行くわよ。付き合いなさい!」
イレーナの眼は爛々としていた。憤懣やる方ないとは今のイレーナのためにある言葉だ。
「いきなり? それに、この前は下品な酒って言ってたじゃないか」
「下品でも、この気分をぱーっと吹っ飛ばすにはもってこいよ」
彼女の意志は固い。何が何でも酒で不景気を吹き飛ばそうというつもりらしい。でも付き合わされる僕としては全く勘弁してほしい。
「で、また付き合わされた俺が潰れるんだろう? それはちょっと御免被るよ」
「なによ。メリーがいなかったら行く意味無いじゃない。つれないわね。ほんとにつれない」
イレーナは不満たらたらだ。僕を見る眼が三角になっている。前のイレーナだったら黙り込んだままひたすら自分を責めていただろうし、それよりはずっとマシだろうけど。
「君の鬱憤晴らしに付き合うつもりがないなんて一言も言ってないじゃないか。酒場でお酒に浸るよりも上等な事をしようってだけさ」
「上等なこと?」
彼女は目を瞬かせて首を傾げる。小鳥みたいだ。
「ああ。ラティニア帝国の催し物には遠く及ばないだろうけど、それでも気晴らしにはなるはずさ。さ、行こう」
僕は引き出しから一枚の手紙を抜き取る。ローディからの贈り物だ。
十分後、僕達は喧騒の中に立っていた。ラティニア帝国が遺した遺構の一つ、円形競技場を補修して作られた馬上槍試合場。一年に一度、城壁外の市民達にも広く門が開かれる。王国中から手練れの騎士達が集まって、女神に神槍を捧げる兵を決めるのだ。
「なるほど。これがブリギッド王国自慢の出し物ってわけね」
石段に腰かけて、イレーナはビスケットを齧る。平民達の歓声の中で、大紋章で華やかに盾を飾った騎士達が続々とやってきた。
その中で一人、紋章を持たない騎士が悠然と馬を走らせる。彼の姿を見た女の子たちが、一斉に黄色い声を上げた。イレーナは僅かに眉を上げる。
「あれ。あいつって……」
「ああ。ローディだよ。ローディこそが、この馬上槍試合の覇者なんだ」




