表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
メイルストロムの英雄譚:見習い魔道士と亡国の少女  作者: 影絵企鵝
第三章 父の学んだ大学にて
36/44

35.イレーナの背中

 世界には昼があって夜がある。昼にみっちり専攻学科の基礎やら自由七科の知識やら叩き込まれて頭がふやけた学生達は、次の日に少しでも脳味噌を引き締めるために夜を思い思いに過ごす。


 村や街から出てきた平民の生徒は寄宿舎の談話室で親交を温めたり、訓練場で体を動かしたりしている。パトリシアやブランドンみたいな地位ある人は、王城で貴族としての社交術を学んでいる。


 僕はどっちでもない。教授は一人だけ従者を持てるというこの学園の規則を聞きつけるなり、イレーナは僕をその侍従に指名したからだ。こうして僕は、イレーナの身の回りの世話をするために、彼女と一つ屋根の下で暮らすことになった。


 とは言っても、イレーナはその魔道の才を惜しげなく発揮して、掃除から洗濯から何でもかんでもあっという間に片付けてしまう。僕はもちろん、小間使いの人達も彼女の周りじゃ仕事がない。僕はたっぷりと時間を持て余した。


 だから僕は、とにかく本を読み漁っていた。




 ――エルメス王国の都から船で青海を越えると、テュルシア王国の都に辿り着く。彼らは円いことと瑠璃の色に至上の価値を置き、王宮の屋根は玉ねぎのように円く、また海のように青々とした瑠璃の顔料が塗りこめられている。彼らは海を理想としている。生も死も、等しく飲み込む海こそが最高の調和なのだと、彼らは信じている――




 僕達の暮らしている世界には、僕達の暮らすメイルストロム大陸とは別の大陸がいくつかある。その一つであるイスタル大陸は、僕達とは違う神を、違う世界の形を信じているのだという。今はエルメス王国が玄関口になって定期的な交易が続いているけれど、昔は大陸を挟んで争いが起きる事もあったらしい。そのおかげで、金のやり取りはあっても、未だに人のやり取りはないも同然だ。でも、こうして本を読みながら東の国の美しい景色を思い浮かべると、生涯に一度はその景色を眺めてみたいとも思う。


 僕は次のページを捲ろうとする。けれどそれよりも早くイレーナの手が伸びてきて、僕からいきなり本を取り上げてしまった。


「何するんだよ、イレーナ」


 僕は取り返そうとするけれど、イレーナはひらりと身を翻して、僕の手を近づけさせない。


「メリーこそ、一体どこまで本を読み続けるつもりなの? 一か月ずっと、暇さえあれば本を読んでるじゃない。そんなに楽しい?」


 イレーナは自分の手元に本を引き寄せると、パラパラとめくり始める。


「当たり前じゃないか。それに、この大学には魔導書を抜きにしたって何百も本が収まってるんだ。夜は短いし、毎日読まなきゃこれだけの本は読み尽くせないよ。だから早く返してくれ。まだ触りしか読んでないんだから」


 僕がもう一度手を伸ばすと、イレーナは溜め息を零しながら本を突き出してきた。口をとがらせて、いかにも不満そうだ。


「なんだか妬けてくるわね」


 彼女はアヒルのような口をしてぼそぼそ呟く。僕は思わず首を傾げてしまう。この大学に来てから今まで、ずっと僕はイレーナと一緒にいたし、特に嫉妬されるようなことは何一つしてないと思うのだけど。


「妬ける? 何に?」

「本に決まってるでしょ。この前は『君の事をまともに見られなくなる』とかなんとか言ってたけど、本があったら私のことなんか見ようともしないじゃない」


 僕は宿屋での一幕を思い出す。あの時はすっかりイレーナに弄ばれてしまった。


「確かに言った気がするね、そんなこと」


 でも、昔の写本の殴り書きのような字を眺めていたら、イレーナのぱっと華やぐ美貌に目を向けている暇がなかった。僕は肩を竦める。


「本さえあれば大丈夫みたいだ」

「むぅ。またそういう事言って……エリザの苦労が何だかわかる気がするわ」


 イレーナはいよいよ眉根を寄せる。どうにも僕は女の子の心の機微に疎いらしい。エリザが僕の事を将来の相手として見込んでいたことも言われるまでわからなかったし、イレーナがむくれる理由もピンとこない。


「えーと……イレーナは俺に構ってほしい、ってこと?」

「そりゃそうよ。一緒にいるのに一人ぼっちなんて寂しいもの。メリーだって、私があなたをそっちのけにして何かに没頭してたら嫌でしょ?」


 僕なら、イレーナが何かに夢中になっていたらそっとしておこうと思うはずだ。きっと楽しそうな顔をしていると思うし、そんなイレーナを僕は眺めていたい。


 でもここは頷くのが正解なはずだ。僕は本心に見えるよう、慎重に頷く。


「それに、曲がりなりにも私とメリーは師匠と弟子みたいなものなんだから、知りたいことがあるなら聞いてくれたっていいのよ。うん。むしろ聞くべきよ。何か知りたい事は無い?」


 イレーナは僕に向かってずいと身を乗り出す。青い瞳が、僕の顔をくっきりと映している。


「知りたいこと、か」


 それはもちろんある。イレーナは帝国で生きていた頃の話はあんまりしたがらないから、僕もずっと避けてたけど。


 でも彼女が聞いていいって言うんだし、一つくらいは聞いてみよう。


「なら一つ聞くよ。……イレーナが本気で魔法を使うときに背中に浮かぶ魔法陣。あれの正体は何だい? 君が魔導書も使わないで自由自在に魔法を使える理由も、その魔法陣があるからだと思ったけど」


 聞いてみたら、イレーナは急に眼を真ん丸にした。猫そっくりだ。


「気になるの?」

「……聞いたらまずかったかい?」

「ううん。いいよ。メリーになら教えてあげる」


 今度はにやにやと笑い始める。こういう顔をしたときは、大抵僕をからかって遊ぼうとする時だ。僕は思わず身構える。


「そんな緊張しないでよ。知りたいって言ったのはメリーでしょ」

「いや、でも……」

「私は大真面目に教えてあげようとしてるのに」

「顔が大真面目じゃないよ」

「ふふふ。まあ見てなさいよ」


 それだけ言うと、イレーナは背を向けていきなり服を脱ぎ始めた。あっという間に肌着姿になって、上はその肌着まで取ろうとする。僕は慌てて目を反らした。


「いきなり何してるんだよ、イレーナ!」

「ちょっと。ちゃんとこっち見なさいよ。見なきゃわかんないわよ」

「そんな事言ったって」


 後ろ姿といったって、女の子の裸を見るなんて気が引ける。でも、見ろと言われてる。完全に板挟みだ。


 こんな風にイレーナに揶揄われてるなんて知ったら、親友は笑うだろうか。そんな事を考えたら、少し悔しくなった。僕だって男だ。意を決して僕はイレーナへと目を向ける。


「……これって」


 イレーナの背中には、大きな魔法陣が焼き付けられていた。イレーナは首を捻って、肩越しに僕を見つめる。


「そう。私は身体に直接魔法陣を刻んでる。だから魔導書なしでも魔法が使えるってわけ。エーテルを他の媒体に流し込む時の損失もないから、ついでに人より強力な魔法が使えるのよ」

「直接、魔法陣を……」


 ほんの少し前まで抱いていた下心は吹っ飛んでしまった。イレーナのすべすべとした背中は、大理石の彫像みたいに綺麗だ。いやらしさなんか一つもない。魔法陣も、彫刻を彩る飾り彫りのように見えてくる。


「でも、今はそんな風にしてる人はいないのね。あの学長も、どこかに魔法陣を刻んでいたりはいないみたいだし」

「いないよ。僕達も肉体に直接魔法陣を刻めば強力な魔法が使える、ってとこまではわかってるけど、実際に描こうとした人はみんな失敗してるからね。ちょっと太ったり痩せたりするだけですぐ魔法陣の形が変わって、まともに働かないんだ」

「そういう身体の変化を織り込まないで魔法陣を作ってるからよ。それを織り込むのが難しいんだけどね。刻まれるのも楽じゃないしね」


 イレーナは溜め息をつくと、胸当てを巻き直し始める。


「すごく痛いって話だね。魔法陣を刻もうとして失敗した人の手記も残ってるよ」

「痛いなんてものじゃないわよ。焼けた針を一本一本背中に埋め込まれていくような感覚よ。それでも一つも動いちゃいけないの。死ぬかと思った」


 針を埋め込む拷問があるのは聞いたことがある。けれど、想像してみたところで、その痛みはとてもわからなかった。


「……でも、イレーナはそれに耐えたんだね」

「少しでも早く一人前になって、みんなの役に立ちたかったもの」


 イレーナは少し暗い顔をする。みんなの役に立ちたいと願った女の子が、自分の作ったもので国が滅んでいく様を見る事になるなんて、いったいどれほど苦しかっただろうか。


 上着の紐を括ったイレーナは、眉を開いてくるりと振り向く。


「さ、そろそろ寝ましょ。明日は錬成の授業よ。貴方には助手をやってもらうから」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ