29.少年少女の迎える朝
目を覚ました時、僕は固いベッドの上に横たわっていた。起き上がってみれば、頭の奥を誰かが金鎚で叩き続けているように痛む。すっかり悪酔いしてしまったみたいだ。イレーナに煽られたのもあるけど、酒場で浴びるように飲むのも初めてだったから、全く加減が出来なかった。
「ようやくお目覚めね、メリー」
イレーナは小机の上に小さな鉄鍋を乗せて、中身を小さな匙で掻き混ぜていた。細い湯気が立って、薬草の香りがつんとする。机の上に火の気はないけど、イレーナはさも当然のように鍋を温めていた。
「……それ、どうやってるんだい?」
「火のエーテルを熱に変えてるの。炉端に立たなくても煮込むくらいは出来るから便利よ。鍋敷きを使えば机を焦がしたりしないで済むしね」
熱。そう言われてみれば、錬成をする時も火をごうごう燃やしたりしない。鉄に熱を集めることでどろどろに融かしていた。でも、それを利用して料理をしてみようなんて考えたことも無い。
「ほら、酔い覚ましの薬湯。さっさと飲んで」
小さなコップに薄緑色の液体を注いで、イレーナは僕に差し出す。エリザが作る苦い薬を思い出してげんなりしたけれど、いざ飲んでみたら野いちごのような甘酸っぱさがふわりと広がる。
「……甘い」
感想が思わず口から零れる。聞いたイレーナは得意げに鼻を鳴らした。
「ふふん。薬は飲みやすい方がいいでしょ」
「そうだね。すんなり飲めるよ」
お腹の奥に流れ込んだ熱がじわりと広がって、ひどい頭痛も少し治まってきた気がした。ちかちかしていた視界も晴れてきて、ようやく周りを見渡せるようになってきた。古いベッドが二つ並んでるだけの部屋。どこかの宿屋らしい。そばにいるのはイレーナだけ。ここ最近当たり前のように差していた大きな影がない。
「ローディは?」
「明け方に王城へ行っちゃったけど。ほんとに忙しいのね、あいつ」
そういうことか。オスティア伯から言伝も預かっていたし、いつまでも遊んでるわけにはいかないわけだ。でも小さい頃から一緒に遊んできた親友としては、黙って去られるとがっかりだ。
「薄情だなあ。せめてさよならの一つでも言わせてくれれば良かったのに」
「メリーったら酔っぱらってヘロヘロだったじゃない。そんな事になってる方が悪いのよ」
イレーナはそう言って肩を竦める。まるで自分は関係ないとでも言わんばかりだ。僕はそんな彼女にむっとする。イレーナの挑発的な猫撫で声が耳に蘇ってきた。
「君があの場を煽ったんじゃないか。君にも責任があるぞ」
「へえ! 私に向かってそんな事言うのね! 夕べ、うとうとしてた私に迫って、あ、あんなこと、したくせに……」
イレーナはいじらしく眉根を寄せると、その華奢な身体を腕で庇い始める。その眼は涙で潤んでいた。
僕が、イレーナに?
必死に記憶を手繰る。けれど何とか思い当たるのは、イレーナの挑発に負けて酒場のテーブルに飛び乗った辺りまでだ。その後の事はふわふわと飛ぶ綿毛のようなものが頭の中にちらつくだけ、何にも思い浮かばない。
「そんな……ごめん、イレーナ」
「いいのよ、別に。私がメリーを見くびってたのよ。メリーもちゃんと大人の男なのね」
イレーナは濡れた目元をそっと拭う。最低だ。僕はそんなにふしだらな男だったのか。そしてひどく口惜しい。彼女の唇に、胸に、太ももに、お尻に、彼女の身体に触れた感触を何一つ覚えていないなんて。
僕が罪悪感と悔しさの間で振り回されていると、イレーナはやがて呆れ半分にへらりと笑う。しおらしい表情は煙のように消えてしまった。
「ばかね。冗談よ。ほんとに昨日のこと何も覚えてないのね」
「冗談? じゃあ、僕は君の事を襲ったりしてない?」
「ええ」
「君にキスしたり、色んなところ触ったり……」
「ないない。どこも触られてないわよ」
「ほんとだね? 僕は君に何もしてないんだよね?」
僕がしつこく尋ねると、イレーナはけらけら笑った。
「そうよ。メリーったら、すぐに酒場で寝込んじゃって、ローディがこの宿屋まで運んできたの。私はあんたが具合悪くならないようにずっと見守ってた。それだけよ」
「そっか……」
口から深い溜め息が零れる。ほっとした。酔っぱらたら女の子に襲い掛かるような畜生じゃなくて良かった。僕がベッドの上でぐったりしていると、イレーナは僕の顔を頬杖つきながら覗き込む。
「残念だった?」
「いや、それは……」
どう答えていいかわからない。ちらりとイレーナの方を見る。今日のお召し物はロージアンで仕入れた羊毛のローブだ。イレーナは華奢だから、このローブを着ると身体の線がほとんど浮かない。でもだからこそ、そのうちに何が隠れているのか幾らでも自由に想像できる。きっと真珠のようにつやつやの、滑らかな稜線が……
ばかめ、ばかめ。僕は浅ましい妄想を何とか頭から追い払う。
「やめてくれ。君の事をまともに見られなくなっちゃうだろ」
「はいはい。メリーったら初心なんだから」
にんまりするイレーナ。勝ち誇って楽しそうで、もう悔しくてたまらない。僕は情けなく彼女に歯噛みする。
「うるさい! イレーナだってどうせ経験ないくせに!」
「ええ、ないわよ」
イレーナはさらりと応えると、急に僕の顎に手を這わせる。
「でも無い方が嬉しいんでしょ、男の子って」
耳元で彼女が囁く。猫撫で声に耳をくすぐられて、僕は全身が熱くなる。駄目だ。すっかり手玉に取られてる。口の達者さで負けるつもりはないけれど、彼女の揺さぶりは僕にとって刺激が強すぎる。
「もう勘弁してよ……」
僕ががっくりうなだれると、イレーナは早速僕の肩を励ますように叩いた。
「ま、そんなわけだから、さっさと起きて気合入れなさいよ。今日は大学行くんでしょ?」
「そうさ、行くよ。行かなきゃ」
やり込められたのは癪だけど、イレーナの言う通りだ。僕達も、こんなところで油を売ってる場合じゃない。
僕はようやく立ち上がると、窓辺に立ってぐっと身を乗り出す。ぐねぐねと折れ曲がった道の向こう側に、高く聳える三本の尖塔が見える。一つはブリギッド王のおわす城、一つは巫女達が祈りを捧げる聖堂、そしてもう一つが、父さんが暮らした学び舎だ。
いよいよここまできた。本当は、父さんが生きている間に行きたかった。父さんに、僕はあの学び舎に足を踏み入れる資格があると認めてもらいたかった。
「ここまで来るのに、ちょっと遅過ぎたくらいだよ」
「そんな事ないわ。大学に行くのが今日になったのは運命なのよ。だって、一月でも早くここにいてごらんなさいよ。メリーの隣に私はいなかったわ」
イレーナは側に立って微笑む。運命か。確かに彼女の言う通りなのかもしれない。父さんが大学行きを少しでも早く認めていたら、僕の腕の中にイレーナが降ってくることはなかったんだ。
「もし、大学が貴方の入学を認めなくても……その時は私が手ほどきするわ。帝国が切り拓いた魔道の粋を貴方に叩き込んであげる。そしたらメリーは立派な魔道士の仲間入りよ。そして一緒に『天来』を解決するの」
彼女はぐっと胸を張った。
「だから大丈夫よ。心配しないで」
朝日を浴びて、彼女はきらきらしていた。そんな彼女を見ているだけで、僕もなんだか力が湧いてくる。僕は奮い立った。
「そうだね。……じゃあ行こうか」