16.夢に苦しむ少女
登場人物名鑑2:ヒュパティアの娘イレーナ(Irena Hypatia)
ある日突如としてこの世界に舞い降りた少女。メリーはラティニア帝国の生き残りであると睨み、またイレーナ自身もその通りに名乗っている。背中に魔法陣を展開し、地水火風全てのエーテルを自在に操る、天賦の才を持つ魔道士。また、村を襲撃した器械人形を作ったのは自らだとも発言している。
過去に何かあったのか、その言動は今のところ非常に刺々しい。わざわざ他人を扇動して自らに怒りを向けさせようとする事さえある。しかし、メリーのお節介を拒み切れないなど、随所に本来の人の好さは垣間見える。
彼女の笑顔はまだ誰も見ていない。
イレーナは眠っている時、とても苦しそうな顔をする。草むらの上で野営した時も、宿屋のベッドで毛布に包まっている時も、ずっと眉根を寄せて、小さく呻いている。時々彼女は夢うつつのまま手を動かして、耳を塞ごうとする。そして、睫毛をじわりと濡らす。
今もそうだ。明かり取りから差し込む月の光を浴びて、イレーナは小さく縮こまっている。最近、呻き声の中に、やめて、とか、どうして、とか、時々言葉のようなものが混じっているのに僕は気づいた。
イレーナは一体何を言われているんだろう。とにかく耳を塞ぎたくなるような言葉なのは間違いない。
夢に飛び込む魔法を使えたなら、僕は迷わず使ってイレーナを助けに行く。けれど、僕はその魔法を知らない。今の僕に出来るのは、そばで見守ってやる事くらいだ。もどかしくて仕方がない。
「イレーナ」
思わず彼女の名前が口をついて飛び出す。とたん、イレーナはかっと目を開いた。
「何よ、メレディス君」
出会って数日だけど、何となくイレーナの事はわかってきた。わざわざ僕を正式の名前で呼んでくるのは、彼女がとびきり不機嫌な証だ。
「ごめん。起こしちゃったみたいだ」
「どうでもいい。何かあったわけ?」
イレーナは寝転んだまま僕を見上げる。最近気づいた。こうして喉を覗き込むような姿勢で睨まれるのが、僕にはどうにも苦手らしい。イレーナの眼は猫のように円くて鋭いから、エリザよりも怖い。思わず声が上ずった。
「いや、別に何もないんだ。……ずっとうなされてたから、心配になって」
「うなされてる? 私が?」
イレーナは眉を上げ、さも意外そうな顔をした。けれど頬が少しひきつってる。心当たりはあるに違いない。
「あんたが余計なことばっかり考えてるから、幻が聴こえたのよ」
「そんなことない。僕は確かに聞いたよ。君が『やめて』と言ったの」
「言わないわよ、そんな事」
イレーナは急に身を起こし、また野犬のような顔をして僕を威嚇する。
「どうして何もかも隠そうとするんだよ。僕は――」
「うるさい! 黙って寝なさい!」
その時、エリザの投げつけた枕が僕の頭にぽんとぶつかった。イレーナはそんな僕を見て鼻で笑うと、すごすごとベッドに潜り込む。
「ですってよ」
「……ごめん、エリザ」
僕もベッドに倒れ込む。イレーナは僕から背を向けて眠っていた。毛布越しからでも、彼女の身体が細いのはよくわかる。
その細い背中に、イレーナは一体何を背負っているんだろう。
「ほんと、夜中にべらべらするのやめてよね。ただでさえこういうところで寝てると眠りが浅くなるんだから……」
何度も欠伸をしながら、エリザはいらいらと馬の尻に鞭を当てた。馬は軽く嘶いて、いつもよりも早足で街道を北へと上っていく。僕は幌の窓を少し開いて、そんなエリザの背中をこっそり覗く。
「ごめんよ、エリザ」
「ふん。おかげで今日も髪の毛がバサバサだわ。全然まとまらない」
けれどエリザはおかんむりだ。後ろを見たら、薬草入りの樽に背中を預けたイレーナが目をぎらぎらさせて僕を見ている。
そんなに悪い事しましたか、僕。
「その辺にしといてやれよ。そんなに冷たくされたらさすがのメリーも泣いちまうぜ」
口ではそんな事を言うけれど、ローディはすっかり僕の窮地を楽しんでいた。宿屋の女の子から貰ったビスケットをミルクに浸して食べながら、けらけら笑っている。エリザはローディの手から一枚むしり取って口に放り込むと、ぐるりと僕の方に振り返った。
「ちょっと顔出しなさいよ、メリー」
言われるがままにしたら、またエリザが僕の頬をつねった。つねったというか、万力で握り潰すような勢いだ。ほっぺたがちぎれる。
「いたたたたたっ!」
僕が悲鳴を上げると、エリザは溜め息交じりに手を離した。
「これで許してあげるわよ」
「……こんなにするくらいならいっそ一思いにひっぱたいてくれた方が」
「何ですって?」
「何でもないです」
怒った女の子は怖い。自分の身を亡ぼす勢いで復讐に明け暮れた王妃様の話を一度本で読んだけれど、さもありなんと思えてしまう。とても口には出せないけれど。
「あんまりカッカすんなよ。眼が三角でおっかねえぞ。オーガみたいだ」
口に出せちゃうローディはやっぱり大物だ。エリザは目を丸く見開いて、頬をぎりぎりとひきつらせる。
「これでいい? ローディ」
「何だよその顔、宮廷道化師じゃねえんだから」
ローディはついにげらげら笑いだした。エリザは耳まで真っ赤になると、いきなり肘でローディの脇腹をどついた。不意打ちを喰らってローディが身をよじらせたところに、エリザはその肩を捻り上げて、そのままローディを街道に突き落とす。
「痛え! 何すんだ!」
「降りろ。降りて自分で歩け。出来るでしょ」
「くっそ……これでも俺は王に直接仕える近衛兵なのによ……」
「あーあ」
エリザには逆らえない。僕は確信した。
「……ふふっ」
背後で小さな笑い声がした。小鳥の鳴くような細い声だったけど、間違いない。でも振り返ると、いつものように石のように固い顔のイレーナしかいなかった。
「何よ」
「……何でもないよ」
また心を閉ざしてしまった。まだまだ彼女と打ち解けるには時間がかかりそうだ。それにしても、棘のない彼女の声はとても可愛らしかった。笑顔もきっと、さっきの声に似合う、愛嬌のある笑顔に違いない。
ころころと笑っているイレーナの事をぼんやりと思い浮かべていたら、急に道の向こう騒がしくなってきた。馬の嘶く声、人間の悲鳴。鉄を裂くような耳障りな音。丘に遮られて様子は見えないけれど、何かあったらしい。エリザは咄嗟に手綱を引く。
「何かあったかしら」
ローディも急に眉を引き締めると、大剣を抜いて肩に担ぐ。やがて道の向こうから、馬に乗った二人組の男が顔色を変えて飛んできた。
「助けてくれ! でかい鉄の塊が! 鉄の獣が!」
二人が叫び終わらないうちに、四つん這いの奇妙な形をした器械人形が二体、丘の向こうから飛び出してきた。口元を血に染めて、甲高い声でそれは叫ぶ。思わず耳を塞ぎたくなる音だ。
「今度は四つん這いの化け物かよ。エリザ、お前はそこの二人と一緒に下がれ! メリー、お前は俺と一緒に戦え! イレーナ、お前もだ!」
ローディは早口で僕達に指示する。普段はちょっと軽薄なところもあるけれど、いざ戦いになるとやっぱり頼もしい。僕は父さんの形見を手に取ると、後ろのイレーナと目配せする。
「行こう、イレーナ」
「指図するな」
イレーナは舌打ちすると、僕より先に幌を飛び降りた。
ビスケット
生地を薄く伸ばして固く焼き、持ち運び可能な糧食として作られたパン。そのまま食べると固くぱさぱさしているため、基本的にはスープやミルクに浸し、ふやかすついでに味を調えて食べる。
エリザのような食べ方は普通はしない。