限界
控え室をぬけて、白塗りの廊下をつきすすんでいく。床や壁を化粧する赤黒いシミは、だれかの流した血の名残だろう。それらは水銀灯に照らされても色調を変えずにいる。美意識もなにもあったもんじゃない。
「いけるな、フーマ」
半歩前をゆくミーナが、首だけをぐるりと回す。
「まさか日和ってないよな?」
「いけるさ。俺とおまえで勝てなかった相手が、今までにひとりでもいたか?」
「いないね」
ミーナははにかんで、水銀灯の並ぶ天井をあおぎみた。
ぼんやりと明暗する電灯に、彼女の顔が照らされた。ふっくらとした頬が白さを増した。小ぶりな鼻に陰ができた。
「でもさ、それはこれまでの話だろ? 今日からはAランク戦。相手も強くなっている」
ミーナはそういうと立ち止まり、上にむけたままの顔をダラリと横にかしがせた。レザージャケットの肩をすべった金髪が、腰の位置にて毛先をゆらした。はじめて会ったときよりも、ずいぶん髪が伸びている。
俺は視線を足下に落として、「早く行けよ」といった。
ミーナが歩みを再開した。エンジニアブーツがカツカツと、がらんとした廊下に靴音をひびかせた。
彼女の反応を楽しみたいところだが、現時点でその余裕はない。緊張感をうしなえば生き残れない。俺たちはギリギリの線を歩いている。今日まで生きのびてきたのも、自分の力を過信しなかったからだ。たったひとつの銃弾が心臓にはいっただけで人は死ぬ。この原則を忘れずに、すべての弾丸をかわしてきたからこそ、今もこうして生きていられる。
闘技場の外周にそって、ゆるやかなカーブをえがく廊下が伸びている。奥にいくほど細まって見え、身動きのとれない場所へ行くのだという実感が高まる。引き返すことはできない。観客への裏切りは、社会的な死を意味する。
最後の分岐路があらわれた。左側に折れる通路から騒音が聞こえてきた。俺たちの死をのぞむ、傍観者たちの呼び声だ。
声のするほうの道に、ミーナは体ごと向き直った。その動きを追って、後ろ髪がおどった。厚みのない左耳がのぞいた。コバルトブルーの眼が、瞳孔をひらかせてあった。
「キッキン、キッキン……」
耳ざわりな雑音にのって、なじみのあるメロディが聞こえてきた。ミーナの口元から漏れてきたものだ。再三にわたって聞いているうちに、俺も旋律を覚えた。曲名は知らない。生きて帰れたら、今日こそ彼女にきいてみようか。
「キッキン、キッキン……」
ミーナの頬はかすかに紅潮している。吐きだされる息にも、熱がこもっているようだ。
「そろそろだな。ちゃんと銃を持ってきたか?」
俺はいった。
「あたりまえだろ」
ミーナが答えた。
通路を奥までゆくと鋼鉄製の扉がある。わきに立っている係員が、深々とおじぎをした。蝶番が悲鳴をあげた。なまあたたかい風が吹きこんだ。まっすぐに切りそろえられたミーナの前髪が、さらさらと平和そうに揺れた。すでに鼻歌はやんでいる。彼女の眼はまっすぐに、対角にある扉を見すえていた。
色とりどりの歓声がわきおこった。ミーナは愛嬌をふりまきながら入場する。
うるせえな。俺はいつもどおりの感想をいだいた。歓声のことではない。やたらとまぶしい照明が煩わしいのだ。俺のように根暗な人間は、光への耐性が死ぬほど低い。照明を避けるついでに、ちらりと背後を振り返った。先ほどくぐってきた扉は、すでに閉じられていた。
次にあの扉を通るのは、このままの俺か、それとも死体になった俺なのか?
実りのない問答だ。感傷なんてクソの役にも立たない。
視線を前方にもどした。不快感がいくらか和らいできた。ミーナは手をふって観衆どもの声援に応じていた。与えられた仕事をこなせと、俺は自分に繰り返し言い聞かせた。
「いけるな、フーマ」
ミーナが目配せをくれた。ただし、よそゆき用の笑顔はくずしていない。
「あたりまえだろ。俺とおまえでできないことが、これまで何個あった?」
「ひとつもないね」
「そのとおりだ。それは、これからも変わらない」
ミーナはそうだねとつぶやいて、ブーツの爪先で地面に円を描きはじめた。足場を確認しているのだろうか。いや、たいした意味はないと思おう。近頃の俺はらしくない。目の前の勝負に集中できないでいる。
明るさに目がなじんだ。会場の全景を確認する。
円形をした砂地の舞台に、いくらかの障害物が置かれていた。ところどころに塹壕が彫られていた。午前中に見たときと配置がちがう。事前対策は通用しない。いつものことだ。なるようになるさ。
横目にて、ミーナの様子をうかがった。彼女は腰にぶらさげたホルスターを、お好みの位置に調整していた。リボルバーの銃身に光が反射した。黄昏どきの水面のように、金色の光が揺らいだ。おもわず見惚れた。相棒は今も銃に愛されている。
道化師の格好をした司会者が、対戦相手を呼んだ。二人の女が入場してきた。どちらも露出度が高い。観客席がざわついた。
対戦相手のひとりが俺のほうに近づいてきた。目尻にある涙ぼくろが印象的な、ひっつめ髪をした女だ。
「あんたがフーマか。なまで見るのは初めてだけど、なんていうか冴えないね」
「そうだよ。がっかりしたか?」
俺はナメられないように胸をはって返した。相手の武器を観察する。無駄にでかいだけだ。たいした性能は秘めていないだろう。
「いや、そうでもないよ」
ひっつめ髪がいった。目尻にできたシワに涙ボクロが埋もれた。
「特にその銃はセンスがいいよね。パッと見ただけでも、記憶片のつなぎがたが異常だ。いったい、どこのメカニックに頼んでいる?」
「死んだよ。他のやつに知られるとやっかいだから、金を払うついでに殺しておいた」
「はは。うわさどおりのイカレ野郎だ」
ひっつめ髪は言い足りなそうにこちらを注視していたが、俺のほうで視線をはずした。かりにここが飲み屋だったら、俺だって名前ぐらいは聞いていただろう。しかし、これから始まるのは殺しあいだ。自分が銃口をむける相手の素性を知りたがるのは、異常な性癖をもった殺人鬼だけだ。
ミーナはもうひとりの対戦相手と握手をしていた。挨拶を終えると俺のほうに戻ってきて、「あいつ、イイやつだよ。リカっていうんだ。試合が終わったら一杯飲むことになった。だから、殺さないようにしような」と言った。
「そうか。救えねえな」
俺はパーカーのポケットからチョコをとりだした。
「食うか?」
「いらねえ」
いつもどおりのイカレタ返答だった。戦闘前に菓子を食わないヤツはだいたい頭がイカれている。
会場の明かりが消えて、四隅に置かれたスポットライトが点灯した。ミーナはピンとのばした人差し指を唇にあてた。脳内麻薬におねがいして、戦闘用の回路にきりかえているのだろう。
「やれー。やらせろー」
指笛などにまじって、卑猥な叫びがあった。おおかたどっかの議員だろう。あいつらは短絡的な欲望だけで生きている。
「ぶっ殺せ」「ぶっ壊せ」「ぶっ潰せ」
知性あふれる声援がやってくる。やつらが必死になるのも無理はない。観客席にいるクズどもは、退屈しのぎに大金を賭けているのだ。ちなみにオッズはこちらのほうが低い。あたりまえだ。俺たちのコンビは、一度の敗北も経験していないのだから。
「レディィィィィ……」
司会者が舌を巻くと、場内が静まった。上半身裸の男がバチをふりかぶった。
「ファイッ」
大銅鑼が鳴らされると、歓声がよみがえった。俺は右側に走りだして、積み重ねられたブロックの裏にひそんだ。すぐさま、ガガガガガと断続的な裂音が起こった。相手の弾丸が、ななめ後方にある鉄板に跳ね返っていた。連射速度がはやい。おそらくリカという女の攻撃だ。
俺はブロックに隠れたまま、手だけをだして引き金をひいた。一発、二発……マガジンが空になるまで撃った。相手の銃弾がやんだ。俺はその隙に、やや離れたところにある穴に飛びこんだ。
後方で破裂音が起こった。振りむくと、先ほどまで背負っていたブロックがつぎつぎに砕けていた。敵の弾はさっきまで俺の頭があった高さに集中している。
だるまおとしの要領でブロック塀が倒壊した。粉になったブロックが、即席の煙幕をつくった。
俺は穴から這いでると、身を低くして走った。足を止めず、煙幕にむけて連射する。あてることは狙っていない。一瞬でも長く、相手の気をそらすことが目的だ。
煙幕のむこうから銃弾が返ってきた。こちらの動きを、ごく正確に捉えている。俺は速度をおとさずに前転し、近くにあった鉄板の裏に隠れた。
相手の弾丸が鉄板にぶつかった。弾丸の形にへこみができている。動いていなければ、いつかはやられる。今までの対戦相手が、いかに甘かったのかを痛感した。もしも生き残れたなら、最高水準の記憶片に乗り換えようか。いや、そんな悪あがきをして、なんの意味がある。
それにしても、ミーナはどこにいる? 手はずどおりなら、すでに相手のひとりを殺しているはずだ。俺がひきつけているあいだに、そっと近づいたミーナが相手を殺す――俺たちのやり方は決まっていて、今日もそれでいくはずだった。普段なら合図がやってきてもいいころだが、今のところミーナは一発も撃っていない。なにを手間取っている? 作戦を変えて、ふたりで攻めるべきなのか。
急に弾が飛んでこなくなった。だが、依然として相手の銃声は聞こえる。
俺は鉄板を飛び越えて煙幕につっこんだ。前が見えないため、無駄打ちはしない。
敵はどこにいるんだ?
俺の問いかけに、記憶片は答えなかった。銃をにぎる手が汗ばんだ。
敵は、どこにいるんだ?
自動拳銃は何も言わない。その銃身
は、無機質な輝きを纏っている。
敵は、どこにいるんだ?
粉塵で目があかない。俺はあたりの音をさぐった。
左側から、敵の銃声が聞こえた。引き金にかけた指がわなないた。
相棒がヤバいのか? たぶんそうだ。
直感を頼りに撃った。記憶片の干渉があり、銃口がやや上を向いた。
遅れて、ごおぉぉおぉん、と銅鑼が鳴った。試合終了の合図だ。
空底がカシャンと音をたてて、次の弾が装填された。強引に目をこじあけると、涙でぼやける映像があった。
弾丸の行き先に、見慣れた金髪があった。相手はどちらも茶髪だったから、ミーナで間違いない。
その影が手を振った。俺の銃弾は、彼女の体をよけてくれたらしい。
俺はホルスターに銃をしまった。生きた心地がしなかった。
俺の手はいつか彼女を殺すだろう。
闘技場から出てすぐにミーナと別れた。対戦相手の女たちと飲みにいくらしい。どういう神経をしているのか。さっきまで、殺しあっていた相手とイチャつくなんて。
いっぽうの俺は雑居ビルの階段を上がっていった。二階の踊り場には、ドラッグをきめたガキが倒れていた。こいつはいつもここで、ジッポライターの火をぼーっと眺めている。いったい、火のなかに何がいるってんだ? 通り過ぎようとする俺の足に、ガキがしがみついてきた。腹を蹴ったくると、ガキの手がはなれた。
「神さま」と、ガキは歯の足りない口をひらいた。
階段をあがっていく途中で、ジッポをひらく音が聞こえたような気がした。
「おかえり。今日も勝ったんだ」
リビングには兄さんがいた。テーブルには、分解途中の銃が置いてある。
「ちょっと待っていろ。すぐに片づけるから」
「あたりまえだろ。兄さんが作ってくれた銃を持っているんだから。負けるはずがないよ」
俺はソファに寝ころんで、サイドテーブルの煙草に手をのばした。
「それにしても金銭感覚が狂うよな。せこせこと銃を直していたのがバカらしいよ」
火をつけようとしたのだが、ライターが見当たらない。しかたなくキッチンに行って、ガスコンロに顔を近づけた。煙草の半分と前髪とが燃え尽きた。
「景気がいいね。今度おごってくれよ」
兄さんがキッチンにやってきた。
「いや、ごめん。深い意味はない」
俺は換気扇のひもを引いた。かたかたと貧弱な音をたてて、黄ばんだファンが回りはじめた。
「そろそろ直してやんなきゃなあ」
「わかっているけど、なかなか手がまわらなくてね。それに俺はこれでいいんだ。俺のつくった銃をフーマが使ってくれるのが、なんか嬉しいんだよ」
兄さんは食器棚から、茶葉のはいった缶をとりだした。
「ミーナとはうまくやっているか?」
「うーん、ぼちぼちだね」
「そうか。よかったよ」
兄さんはマグカップがのったトレイをもって、テーブルに戻った。
俺は煙草をシンクに捨てて、いつものソファに座った。
「あいかわらず、記憶片を覗いているの?」
湯気のたっていない茶をすする。
「うん。俺の過去は見つからないけど、他のひとの人生を見るのは楽しいからね。じいちゃんには内緒だぜ」
兄さんの言いように、なぜだか腹がたった。俺はマグカップをおいて、「もうすぐ移住権が買えるよ」といった。
「じいちゃんにも会えるぜ。まだ生きているかな?」
「どうだろう? けっこうな年だからなあ」
兄さんがほほ笑んだ。
「ところで、フーマ。上にいったら何がしたい?」
「下方衛生に孤児院をつくりたい。俺は兄さんに拾われたから良かったけど、そうじゃない子どものほうが多いだろ。この話って、前にもしなかったっけ?」
「聞いたよ。いい話だから、くりかえし聞いておかなくちゃ。俺にも手伝わせてくれよ」
「頼まれなくたって、そうしてもらうつもりだよ。まあ、ミーナには言えないけど」
「どうしてだ?」
兄さんは、怪訝な顔をした。
「あいつもきっと応援してくれるぞ」
「絶対に笑われるよ」
サイドテーブルにあったチョコをつまんだ。今日だけで一キロ近く食べている。砂糖が歯に染みて痛んだ。来週こそは歯医者に行こう。
「そうかなあ。応援してくれると思うけど」
兄さんはそういって目をつむった。物思いにふけっているのだろうが、俺にはそれが、会話の途中にすべきことだとは思えない。
小さいときから理解できない部分はあったが、大人になるにつれてそれが増えてきた。軋轢にはいたってないが、最近はふたりでいるのが気まずい。たぶん俺がシャバの空気に汚染されたせいだ。兄さんは昔からずっと変わらない。天才なりの苦悩もあるのだろうけど、凡人の俺には知るよしもない。兄さんは酒もドラッグもやらず、一日中銃をいじっている。
「なあ、フーマ」
兄さんが目をあけた。俺と同じ、赤い眼だ。
「このあたりで仕事をしていると、闘技場で死んだやつの記憶片が持ちこまれることが多い。そういう記憶のなかに、よくでてくる男がいるんだけどさ。山高帽をかぶった男で、名前はシェリング」
「そいつがどうしたの?」
俺はくわえかけたタバコを箱にもどした。
「ヤバいやつだから気をつけろ。Aランク以上の闘技者が、おおぜい殺されている」
「大丈夫だろ」
俺はふたたび煙草を取り出した。
「だってさ、そいつはそれだけ勝っているなら、上方衛星に移住しているほうが自然だぜ」
「そうだといいな。ただ、もしもこいつに会ったら、降参することを考えてくれ」
兄さんの返答に、俺は心底呆れた。「降参? ありえないね。そんなことをすれば、町のやつらから袋だたきにされて殺される。かりに生きのびたとしても、二度と闘技場にでられない」
「わかっている。それでも俺はわかっていて言っている」
「そうか。それなら兄さんは、何もわかってねえよ」
俺はそう言い捨てて、部屋を後にした。ひどく苛立っていた。タバコに火をつけようにもライターが見つからない。しかたなく、階段にいるジャンキーに火を借りた。〝自分の神さま〟が汚されたことも知らず、ガキは笑っていた。歯ぬけの口をにっこりとひらいて、「神さま、ありがとう」と、確かにいった。
通りに戻った俺は、ネオンライトを避けるために裏路地を歩いた。光は嫌いだった。
道をふさいでいたポリバケツを蹴っ飛ばす。丸い蓋が外れて、生ゴミが道にぶちまけられた。絞め殺された鶏の首がごろごろと転がった。そういえばここは肉屋の裏手だ。
血のにおいは気にならなかった。この町はふだんから腐臭に満ちているからだ。鶏たちは苦痛に歪んだ表情のまま、クチバシを大きく開けている。断末魔が聞こえてきても、まったく不思議ではない。
俺は足を止めて、クチバシの内側を眺めた。赤黒い舌の先端は二股になって尖っており、ヘビのそれに似ている。喉の奥にできた黒い陰は、どこまでも続いている深い巣穴に見えた。
俺は兄さんとの会話を思い返して、自分のついた嘘を恥じた。実は、すでに上方衛星にいくための金は貯まっているのだ。なぜ、つまらない虚言を吐いたのだろう。この舌は、人を騙すためについているのか? 次々に疑念が湧いてくる。どうして俺は、逃げ場のない袋小路に向かいたがる?
俺はその問いに決着をつけないまま、ガールフレンドのアパートに滑りこんだ。ウェイトレスのシャロン。ふとももに蛇のタトゥーを飼っている女だ。周に五日、俺はシャロンのベッドで過ごしている。ふとももの蛇とも仲良くやっている。兄さんは、俺がミーナのところに泊まっていると勘違いしているが、わざわざ訂正する必要もない。
「なんだ。まだクタばってなかったんだ?」
シャロンは悪態をつくと、俺の耳にキスをくれた。その舌先が、吐息が、耳の穴をくすぐる。俺は彼女を抱き上げて、スチールパイプ組んだベッドまで運んだ。
半刻もすると、俺の下半身は脈打った。シャロンからあふれた体液が、彼女のふとももにいる蛇を溺れさせた。青いセロファンを貼ったダウンライトが眩しい。指で液体をぬぐってやると、蛇の巣穴がヒクついた。
その日の夜中、俺は飛び起きた。火のついたベッドに寝ている夢を見たせいだ。首から下が燃え尽きても、夢のなかの俺は生きていた。目を覚ましてしばらくたっても、焦げ臭さと熱さとが、居残り続けた。ぐっしょりと濡れたシーツが気色悪い。いったい俺は、どうしちまったんだ?
気持ちを落ち着かせようと、手になじんだハンドガンを握った。だが、銃の記憶は流れこんでこない。脂汗が一気にひいた。なけなしの才能が、とうとう錆びついてしまったのだと悟った。