ギャング
メモに記された住所に行くと、二階建ての木造家屋があった。生垣の木々は枯れ、乾いた枝をむきだしにしている。鉄線でできたアーチにかかる傾いた看板には、『ナルミ工房』とくすんだ字で書かれている。
裏手に流れる川のせいか、空気はなまぐさい。
「すいません。誰かいませんか」
ユーマは敷地の外で大声をあげた。
しばらく待っても返事はない。気のふれた野良猫がべぇべぇと奇声をあげて、生垣のなかから飛びだしてきた。
「無駄だよ。誰もいない」
ふいに女の声が落ちてきた。二人はそろって顔を上げた。
となりにあるアパートの二階に女性がいた。窓枠に腰かけて、浅黒い足をぶらぶらと揺らしている。
「そこにいたじいさんは去年死んじまった。肺炎さ」
女は片ひざを抱えた。足の裏だけがやけに黄色い。
「いい迷惑さ。身内がいないもんだから、発見が遅れてね。じいさん腐っちまって、ここいらにニオイを巻き散らかすんだもん。私は布を売ってるんだけどさ、ニオイが売り物に染みついちゃって、ほんと迷惑だったよ」
ユーマは女に背をむけた。
「あ、待ってよ」
女の声にユーマはふりかえる。
「あんたら、あのじいさんの身内か? だったらさ、去年の布を買ってくれよ」
女は窓の外に身を乗りだした。よれたタンクトップの首元から、ハリを失くしはじめた乳房がのぞいている。
「身内じゃないです」
ユーマが返した。
「俺たちの親がここにいたじいさんに金を貸していて、返してもらうために来たんですよ」
「そうだったんだ、あてが外れたね」
女は愉快そうに大口を開けて手を叩いた。
「まったくさあ、迷惑なじいさんだよ。こんな子どもにまで面倒かけて、恥知らずもいいとこさ」
満足そうに何度もうなずくと、女は部屋にひっこんでいった。
二人はその場をはなれて、近くの路地にはいった。
「どうすんだよ、兄さん。町に知り合いなんていないよ」
「心配するな。俺たちには技術がある。どこかの工房で雇ってもらえるよ」
「そんなうまくいくかなあ」
フーマは、物足りなそうに口を尖らせた。
通りに立てられた案内板にある地図を手がかりにして、町にある工房をめぐった。門戸をたたけば、どの工房主たちも愛想よく出迎えてくれるので、期待はふくらんだ。だが、事の次第を伝えると、皆一様に表情をこわばらせた。結局、雇ってくれる店は見つからなかった。他人の、それも身許のはっきりしない子どもを雇うような数寄者は少ないのだ。
「どうするの。テントにもどる?」
フーマが小さく漏らした。疲れきった様子だ。
「今日はあの小屋に泊まろう。空き家だって話だし、道で寝るよりはマシだ」
「ええ、本気なの? イヤだよ。あそこで人が死んでいるんだろ。オバケがでたら、どうするのさ」
「大丈夫だよ。死んだ人間は何もできない。じいちゃんがそう言っていた。それに、俺はすげえ眠いんだ」
「んー、わかったよ。もしもオバケがでたら、兄ちゃんがなんとかしてくれよ。泥棒ぐらいならボコボコにしちゃうんだけど、幽霊に鉄パイプはきかなそうだし」
「オッケー。決まりな」
ユーマは、しぶるフーマの手をひいた。
夜の通りには、飲み屋の外灯が点々と並んでいた。通りぞいにあるテラスでは、厚化粧をした女が赤茶けた鉄柵にもたれて煙管をふかしていた。背中の部分が大きく開いたドレスを着ている者が多い。彼女たちの素肌には、蝶や蜘蛛などの入れ墨が彫りこまれている。照度の安定しない外灯の下で、それらは蠢いて見えた。
男たちは顔が真っ赤になるまで酒を飲んでおり、肩をいからせて歩いていた。道のまんなかで胸倉を掴みあう者もいて、ひどくやかましい。路肩には、乞食や吐しゃ物、血反吐にまみれた人間が散乱していた。
それらの喧騒から目をそむけ、二人はくだんの小屋に逃げこんだ。
「さっさと寝ようよ。俺、なんか疲れちゃった」
フーマは矢継ぎ早に言って、床に寝そべった。すぐに寝息が聞こえてくる。慣れない町の熱気を浴びて疲れたのだろう。
ユーマもリュックを枕にして寝ころんだ。しかし、なかなか寝つけない。目をつむっていても気が休まらないので、天井の木目を眺めて時間を潰すことにした。木の内側から腐ったと思える黒い点が、こげ茶色の地肌に散在している。ユーマには、その意志を持たないはずの模様が、町という総体のもつ悪意に思えた。『おまえたちは異物だ』と、黒い点のひとつひとつが、強い拒絶をもって睨んでいるようだった。
長いあいだ眠れずにいると、ひたひたと足音が近づいてきた。まだ遠くにあるが、確実に距離をつめている。
ユーマは身をかたくして、ポケットに忍ばせておいたスパナを握りしめた。窓の脇に身を隠して、相手が動くのを待つ。相手は気配をそのままに近寄ってくる。
ユーマは息を殺して、スパナを高くに構えた。
「あんたたち、こんなところで何やってるんだい?」
女の声がした。ランタンの明かりに目がくらんで顔は見えない。
ユーマはポケットに手を戻した。もちろんいつでも取りだせるように、スパナに指をかけたままだ。
「昼間の、布を売っている人ですか?」
「そうだよ。よく覚えていたね」
隣家に住んでいる女だった。物音を聞きつけてやってきたのだろう。はだけた寝巻きが婀娜っぽい。
「まさか、じいさんの亡霊から金を返してもらうわけじゃないよね」
ユーマは返事をしない。背後には小さな寝息がある。
女はうろたえたように立ちつくしていたのだが、状況に思い至り目をむいた。下方から照らす明かりが、その顔を醜悪に見せている。
「そういう事情か。ちょっと待ってな」
生垣の向こう側をランタンが走っていった。むかいのアパートに照明が灯った。
ユーマは片目を閉じて、その場に佇んだ。相手が武器をもってくれば、ランタンを叩き落として頭をかち割るつもりだった。片目を閉じておけば、暗闇のなかで先手を取りやすい。老人からの忠告がなければ、とっくに撃ち殺していただろう。ゴミ山での生活は、彼の生き方を支配していた。
女が戻ってきた。手には、くすんだ青色の布がある。
「使いな」
女は布を窓枠にかけた。化粧をしていないと案外、人の好さそうな顔をしていた。
「やるよ。じいさんのニオイがしみついちまって、売り物にならないんだ」
返事も待たずにアパートへと帰っていく。
ユーマはスパナをポケットの底に落として、手汗をズボンでぬぐった。緊張していた筋肉がようやくゆるんだ。
もらった織り布を窓の外にだして気が済むまではたいた。叩けば叩くほど埃が出て、効果があるとは到底おもえなかった。むかいにあるアパートの窓を透かしていた明かりが、やがて暗がりに沈んだ。空間がしいんと音を発していた。
フーマの隣に寝転ぶと、ユーマは布で体をくるんだ。たった一枚の布だが、二人の体をおおうには充分だった。布は、温かくも煙草くさい。しばらくは、くしゃみが止まらなかった。ユーマは寝つくまでのあいだ、明日からどうやって生きていくのかと考えつづけた。
肩をゆすられて、ユーマは目を覚ました。昨夜の女が枕元にいた。寝ぼけるユーマに快活な笑顔をむけて、「朝めし食うか?」と、彼女はいった。
ひとり暮らしにもかかわらず、女の家には三人分の食器があった。もともとは家族と暮らしていたのだろう。女は聞いてもいないのにサーシャと名乗り、二人にも自己紹介を強要した。彼女はその後もまくしたてるように質問をつづけた。年はいくつだとか、今までどこにいたのだとか、根掘り葉掘り知りたがった。
フーマは何を思ったのか、町にくるまでの経緯を打ち明けてしまう。もっともゴミ山に住んでいたことだけは伏せていた。ユーマは、弟の安易な受け答えに閉口したのか、黙々と食事を平らげた。
しかしながら、フーマのあけすけな態度により状況は漸進する。サーシャが布売りのために借り受けている用地を半分貸してくれることになったのだ。
朝めしを終えると早速、荷物をかついで外に出た。大通りの雑踏は多い。夜とは違い、嫌な熱気はなかった。ほとんどの人は大荷物をかかえて、三人と同じ方向に歩いてゆく。大人の手伝いをする子供の姿も、ほうぼうで認められた。
市場は人でごった返しており、商売に絶好の場所だった。露店の屋根にあたる幌は色とりどりで、客引きの声が賑やかだ。出品されている物は様々だった。食料品を売る店もあれば、装飾品を並べた露天商もいた。身一つで座り、靴磨きにはげむ子供の姿もあった。
大半の商人は頭にターバンを巻いていた。赤青黄の三色があって、どれも鮮やかな発色をしている。
「ターバンの色は、商人の信頼度を表している」と、サーシャは二人に教えた。それから、「赤い商人からは物を買うな」とも言って、自分の首にかけていた青いターバンをちらつかせた。
サーシャは、八百屋と時計屋とのあいだにあるスペースに荷物を下ろした。むろん、彼女が借用している商業用地である。シングルベッドほどの広さの土地に、天幕がかかっているだけの場所だった。ユーマたちは彼女に倣い、自分たちの商売道具を広げてゆく。
右手にある八百屋の店主は中年の女で、気さくに声をかけてきた。フーマたちが挨拶を返すと女主人は上機嫌になり、赤く熟れたトマトを食わせてくれた。感想を求められたフーマは、おいしいと答えた。八百屋は豪快に笑って、もうひとつ余分にトマトをくれた。フーマが丸のままの果肉にかぶりつくと、芯の近くにいた小指大の虫が口にはいった。半身を噛み千切ったようで、トマトの断面には橙色の体液がしたたっている。フーマは虫だとつぶやいただけで、ヘタまでの全部を飲みこんだ。八百屋の主人とサーシャとは、引き笑いをして顔を見合わせた。
昼飯時まで待っても、ユーマたちの店に客はこなかった。看板すら出していないのだから無理もない。並べた工具を眺める通行人はちらほらといたが、それ自体を商品だと勘違いしている様子だった。
見かねたサーシャは、腰に銃をぶらさげた買い物客を見つけると、「この子たちに見てもらいな」といって、袖を引いた。たいていの客は相手にもしなかったが、いくらかの数奇者は面白がって銃を預けてくれた。わざわざ彼らに依頼をする客だ。総じて子ども好きである。客たちは、「仲間に宣伝しておくよ」といって、ていねいに掃除された愛銃を満足そうに見つめていた。
結果としては、初日だけでもそれなりの金額を稼いだ。堅気ではなさそうな男達が集団で訪れて、銃の整備を依頼してきたのである。おそらくは上機嫌になった客が、仲間に話を広めてくれたのだろう。その際に、二人が整備した銃が広告になったのは言うまでもない。老人に仕込まれた仕事の質は、銃士達の要求を満足させるのに十分だった。さらにいえば、二人が相場をわかっていないため、格安での提供にもなっていた。
翌日も朝早くから市場にいって、通りすがる銃士に声をかけた。そうやって、来る日もくるひも、二人は銃を整備して金を稼いだ。記憶片を武器に同化させられる技術者が貴重だったことが大きく、人づてに噂は広まってゆく。固定客を獲得したことに加え、価格を上方修正したので、収入は安定していった。
たくわえを元手に、やがて二人は店をかまえた。
店舗として選んだのは、寝泊りをしていた小屋だった。これを正式に借り受けて、新しい看板をかかげたのだ。
体裁を整えたことで、客はどんどん増えていった。上方衛星への移住権を買うためにも、質素な生活を忘れなかった。経済的な成功にもとより興味はない。老人と一緒に暮らしたいという、真摯な動機だけがあった。
こうして商売が軌道にのったころ、一人の客がやってくる。柄シャツの胸元をはだけさせた、図体のでかい男だ。二の腕に鮮やかな刺青が入っている。カタギには見えない。
「店主はどこだ?」
彼は案内されるのを待たず、木椅子に腰をおろした。男の重量に脚部がきしんだ。
ユーマは手入れしていた銃を置いて前にでる。
「店主は俺です。何か御用ですか?」
「冗談はよせ」
男は髭のはえた顎をこすった。視線はひとところにとどまっていない。店内を物色しているというよりは、言葉を選んでいるようだった。
「そうか。本当にガキしかいねえんだな」
「はい。でも、腕には自信があります」
フーマがモンキーレンチを片手で回した。吸いつくような、滑らかな動きである。
「修理ですか、改造ですか? うちは記憶片の交換もできますよ」
「どっちでもねえ。商売しにきたのは俺たちだ」
男は唸るように言った。
「なるほど。商品はどういったものでしょうか。いい工具があれば、見せてください。それ以外だと、日用品なんかなら見せてもらいたいですね」
「ちげえよ。まったく。やりづらいぜ」
男は大きく舌打ちをした。
「ボウズたち、ショバ代ってわかるか?」
「ショバ? 新しい工具ですか?」
「そうじゃない」
男は頭をかかえる。
「簡単に説明するぞ。俺たちがこの店を守ってやるから代金をはらえ、ってことだ。ガキ二人でしのぐには、この町は生きづらい。悪くない話だろ」
「なるほど。用心棒というやつですね?」
「そうだ。話がわかるじゃねえか。で、代金は月々こんなもんだ」
男は指を一本たてた。
ユーマは眉根をあげる。
「一万ですか。けっこう高いですね」
「ケタがちがう」
「まさか十万ですか?」
「そうだ。このあたりは治安が悪いからな。それぐらいが相場だ」
ユーマは腕組みをして考えこんだ。何度か指を折ることを繰り返したあと、思いつめた口調でいう。
「せっかくのおはなしですが、お断りします。僕たちはそんなに稼ぐことができませんし、その日食っていくだけで精一杯なんです。いつかお金に余裕ができたら、そのときはお願いします」
男は握りしめた拳を、カウンターテーブルに振り下ろしかけたが、実際に叩きつけることはしなかった。彼が膝をゆするのに合わせて、木椅子の足がきしんだ。
「そうか。仕事のじゃまをして悪かった」
男は大きく息をつくと、やがて席をたった。暖簾をくぐる直前、二人のほうをふりかえる。
「これから大変なことがあるかもしれないが、がんばれよ。なにか困ったことがあれば言ってくれ」
男の真意はわからなかったが、ユーマたちはこれを丁重に見送った。
その晩遅くまで、二人は武器の修繕をした。彼らの店は相場よりも安いので、仕事は溜まっていくばかりだった。最後の仕事が終わったときには、下りていく月が山陰にせまっていた。
帳簿をつけていたユーマが、あっと声をあげた。室内灯がとつぜん消えたのだ。
「球が切れたのかな。このあいだ変えたばっかりなのに」
暗がりを手さぐりで行って、ランタンに火を灯す。電球は濁っておらず、フィラメントも切れていなかった。主電源を確認したが異常は見られず、小屋の裏手にまわってみた。送電線を辿ってみると途中で切れていた。
「自然に切れるのかな?」
「さあ。だれかのイタズラじゃねえの」
二人はたいして気にせず、つぎはぎだらけの布団にもぐった。
朝になると、サーシャが店にやってきた。朝食を共にするのは日課になっている。
「そういえばさ、電線が切れていたんだよ」
フーマが何気なしにこぼした。
サーシャは、持ちあげたパンを皿にもどして憤慨する。
「あんたたちがうまくやってるからって、同業者のだれかがやったんだよ。気をつけなよ。この町には、他人の成功を喜べるヤツなんていないんだ」
「用心棒を雇ったほうがいいのかな?」
そっけなくいったユーマの肩を、フーマがこづく。
「昨日のおっさんに話してみようか。何とかしてくれるかもよ」
しゃべった拍子に、噛んでいた食べ物が口からこぼれた。
「こら、フーマ。食べながらしゃべるな」
サーシャは台ふきを投げてよこす。
「昨日のって? くわしく聞かせてくれよ」
フーマは布巾をキャッチして、食べこぼしを掃除した。
ユーマは、大男のことを淡々と告げる。
事の次第を聞き終えたサーシャは、苦々しげに唇をむいた。
「あんたたち、そりゃあギャングだ。電線を切ったのも、たぶんやつらだ。次にそいつらがきたら、すぐに私を呼びな。とっちめてやるから」
それからは毎日のようにイヤガラセがつづいた。石を投げこまれたり、留守のあいだに店を荒らされたり、イタズラにしては悪質だった。犯行は人気のない夜におこなわれることが多く、昼夜逆転の生活を強いられた。工具が盗まれるたびに新調せざるをえず、貯蓄もはかどらない。
数週間後、例の大男がたずねてきた。先回と違い、わし鼻の小男が同行している。
ユーマは彼らを歓迎した。面倒な客であることは否めないのだが、身の休まらない生活に嫌気がさしていたのだ。
ギャングは、慣れない様子で冷えた茶をすすった。猛暑にふさわしく、セミたちが合唱している。
男の汗が引いたのを見計らって、ユーマは口火をきる。
「この一ヶ月、毎日のようにイヤガラセを受けています。あなたの言ったとおりでした。僕たちだけじゃあ、この町で暮らしていくのは大変だ」
「そうか。おまえらの店は繁盛しているからな。よく思わないヤツも多いだろう」
大柄のギャングが無表情で言ってのけると、フーマが目の色を変えた。
「まあ、落ち着けよ」
ユーマは弟が文句を言おうとするのを制して、へりくだった声色をつかう。
「そこで用心棒を頼みたいんですが、やはり十万は高すぎます。いくらかまけてくれると助かるのですが。なんとかなりませんか?」
「ああ、いいよ」
大男はすぐに返した。
ツレの男があとをつぐ。
「おまえら感謝しろよ。ヒロサキさんがボスにかけあってくれたんだぜ。ボスも人がいいもんだから、『ガキから金はとらねえ』って言いやがる。でも、それじゃあよお、他の客にしめしがつかねえだろ。ボウズ、おまえにわかるか、俺の苦労が?」
「カトー、よせ」
大男――ヒロサキがさえぎった。
「でもよ、ヒロサキのだんな」
小男――カトーは、なおもまくしたてる。
「俺は、ボスやヒロサキさんが甘すぎるって、常々おもっていて……」
「よせや、カトー。俺やボスは親がいなかったからわかるんだよ。とにかく、無粋なことはやめろ。義理がすたれば道理がとおらん」
ヒロサキの内諭に、カトーは小さく頷くも、ぶつくさとこぼしていた。
フーマとユーマは顔を見合わせた。この茶番を受け、ギャングとサーシャ、どちらの言い分を信じるべきかが分からなくなっていた。サーシャのほうが付き合いは長いが、目の前の男が嘘をついているとは思えない。ユーマは恐縮しつつも、ヒロサキに話しかける。
「あの、すみません」
「なんだ?」
「えっと、電線を切ったりしたのは、あなたたちじゃないんですか?」
ユーマはあわててつけたす。
「疑うわけじゃないんですけど、普通はそう考えるものでしょ?」
「そんなことはしねえ」
答えたのはカトーだった。
「ボスの信条は、『ビジネスは信頼』だ。これから取引しようって相手に不信感を抱かせるようなことはしねえ。どこのバカに吹きこまれたんだか知らねえけどよ。やったのは、このへんの同業者だぜ。おまえら安値でいい仕事しすぎなんだよ。そういう意味じゃあ、おまえらにも原因がある」
ユーマは目を見ひらいた。深く頭をさげて詫びる。
「まあ、気にするな。商売柄、疑われるのには慣れている。なかには、そういうことをする同僚もいるだろうし、完全にシロってわけじゃねえ」
ヒロサキは席をたつ。
「茶、うまかったぜ。仕事のジャマになるで帰るわ」
「ごちそうさん。次は酒を用意してほしいけどな」
カトーはおどけると、ヒロサキの背中を追った。だが、ヒロサキが急に立ち止まったので、その背にぶつかってはじきとばされた。
ヒロサキが立ちどまった原因は、入り口にいた女だ。サーシャだった。彼女は腰に両手をあてて、足を肩幅にひらいて立っている。
「あんたたち、こんな子どもにたかるなんて、恥ずかしくないのかい」
「なんだ、おまえ」
ヒロサキはあごをあげて、見下ろすような格好をとる。
「ああ、猫背のとこの売女か。うちの若い衆が、世話になってるらしいな」
ヒロサキの苦言に、サーシャの顔が引きつった。だが、すぐに立ち直り、ヒロサキに詰め寄る。
「そんなことどうでもいいだろ。私は、恥ずかしくないのか? って聞いたんだ」
「生きているってことが恥をかくことだろ」
ヒロサキは知ったような口をきいた。サーシャが迫ってくるせいで後退せざるを得ず、すっかり店内にもどっている。
「サーシャさん。もういいんだ」
フーマが、あいだに割ってはいる。
「イヤガラセをしていたのは、この人たちじゃないし。これからはうまくいくんだよ。頼むから話をややこしくしないでよ」
サーシャは小鼻をふくらませて、興奮をあらわにする。
「そういう問題じゃないんだ。だれかが言わないといけないことなんだ」
フーマを脇に押しのけて、彼女はつづける。
「あんたたちのボスは臆病ものさ。子どもからお金をまきあげて、自分じゃ何もしないんだからね」
この言葉に、ヒロサキの表情が変わった。
カトーはおどおどして、ヒロサキのそばから離れた。
「あんたのボスはいい女だからね。楽してかせぐ方法を知っているのさ。相手が決まってるだけで、やっていることは私らと変わらない。所詮は……」
畳みかけようとするサーシャの鼻面を、ヒロサキが手の甲でひっぱたいた。サーシャはよろよろと後ずさってゆき、壁ぎわの棚にぶつかった。けたたましい音とともに、積まれていた工具が落ちてくる。ユーマは素早く飛びだして、彼女におおいかぶさった。
カトーがすっとんきょうな悲鳴をあげた。
ヒロサキは仏頂面で静観している。
「どういうつもりですか?」
ユーマが立ちあがった。ひたいから一筋の血が流れている。
「悪いのは、この女だ」
ヒロサキががなった。
「ボスは俺の恩人だ。馬鹿にするやつは、ただじゃおかねえ」
「そうじゃない。口で言えば、わかることでしょ」
ユーマはそういうと、倒れているサーシャに近づいてゆき、ほほにそっと手をかけた。
気絶していた。口のはしを切っているほかに、目立ったケガはない。
「それは相手による。そして、殴ることも会話のひとつだ」
ヒロサキは泰然として言った。どこかバツが悪そうではある。
「今日は帰ってください。お金は明日払います」
ユーマが切れ切れにいったとき、がつっと鈍い音がした。
ヒロサキの巨体がくずおれる。顔面から床にぶつかると、ひざと頭を支点にして尻をつきだした、不細工な姿勢で安定した。
ヒロサキの背後にフーマがいた。巨大なレンチを握りしめている。
微動だにしないヒロサキの後頭部に、モンキーレンチが何度も振り下ろされる。部屋にいた者は呆然として、ただただ立ち尽くした。
時間が止まったみたいだった。薄い床板がたわんで、部屋全体がわずかに揺れている。
「フーマ、やめろ」
ユーマはその場に立ったまま叫んだ。
「てめえ、何しやがる」
カトーもハッとなって啖呵をきった。体をはろうとはしない。
フーマのこめかみには静脈が浮きたち、白目には血の玉があらわれている。が、目つきは冷静そのものだった。ヒロサキの傷口をしっかりと見据えている。
病的なまでの単調さで、フーマは特大のレンチをふりおろしつづけた。髪の毛がくっついたままの頭皮が、そこいらに散らばっていく。
「おい、やめろ、っつてんだろ……」
カトーが尻込みしているあいだにも、ヒロサキの頭部は陥没していった。
パキャッといって骨が砕けた。追撃はやまない。
「やめろ、フーマ」
ユーマの怒声に、フーマがたじろいだ。
高々とふりあげられたレンチが、後方にすっぽぬけた。ユーマの耳をかすめたそれは、ベニヤの壁を貫いて屋外に飛んでいった。木片が、穴の周囲に飛散した。セミの鳴き声が倍増して聞こえた。
カトーは、うずくまって嘔吐している。
あごの先まで達した流血をぬぐいもせず、ユーマは無表情をつらぬく。
「やめろ、フーマ」
フーマはからになった両手を見つめた。ややあって、ヒロサキの頭蓋に片手をつっこんだ。その手の動きに連動して、ヒロサキの丸太のような四肢が痙攣をおこした。倒れたねじまき人形が手足をバタつかせているようで、場違いに平和だった。
ユーマはゆっくりと歩を進めると、フーマの肩にそっと手をかける。
「もう大丈夫だ。それは、ただのぬけがらなんだから」
フーマはうつろな眼をあげた。焦点は定まっていない。手はあいかわらず、ヒロサキの中に埋もれたままだ。
「さあ、それを渡して。兄さんがすぐに直してやるから」
ユーマはそういって片手を差しだす。
フーマは口をすぼめると、男だった物から手を引き抜いた。指を開くと、ヒロサキの記憶片が握られていた。
「どうしよう。壊れちゃったよ」
フーマがぼそりといった。白昼夢でも見ているような、弱弱しい面がまえをしている。
「壊れちゃったよ、どうしよう」
ユーマは体液にまみれた記憶片を受け取って、明るい声色を使う。
「大丈夫。兄ちゃんがすぐに直してやるから」
フーマは店の奥へと引っこんでいった。
ユーマは額をぬぐい、袖についた血をながめた。
床には吐しゃ物が残されていた。カトーの姿は消えていた。
「一緒に逃げてください」
目を覚ましたサーシャに、ユーマはそう切り出した。
サーシャは虚ろな目であたりを見回した。ヒロサキの遺体をとらえ、目を白黒させる。状況を理解できていなかった。
「僕らが逃げたら、あなたに迷惑がかかるかもしれない」
ユーマは強い調子で言う。
「だから、一緒に逃げてください」
「逃げるってどこに?」
「分からないけど、急がないと」
ユーマは苛立ちを抑えて言う。
「お金だけ持って逃げましょう。家具なんかは、よそで買えばいい」
「イヤよ」
サーシャが金切声をあげた。
「ここは私の家なのよ。私はどこにも行かない」
「そうですか。じゃあ、その家に帰ってください」
ユーマはぶっきらぼうに言った。
その態度が気にくわなかったのか、サーシャはヒステリックに怒鳴る。
「私に命令しないで。私は帰りたいときに、帰るのよ! 誰に私のことを決める権利があるの? ギャング、あんた? いいえ、神さまにだってないわ」
「じゃあ帰らなくていいです。そのかわり、何があっても知りません」
ユーマは言い捨てると、ヒロサキの死体に近づき所持品を漁り始めた。
サーシャは罵詈荘厳を吐きながら店を後にした。
「兄さん、ごめん。なんとかするよ」
フーマが奥から現れた。顔を洗っていたのだろう。顎先から水滴が垂れている。
「俺がいけば、それで話がつく。やったのは俺なんだし、あの小男だって見ていたんだ」
「そういう問題じゃない」
ユーマがぴしゃりと言った。
二人は無言で睨みあう。セミの声がジージーとうるさい。
「いっそ皆殺しにしちまうか?」
ユーマがぽつりと呟いた。
フーマは暴力的な笑みを浮かべる。
「そうだね。慣れたやり方でやるのが近道だって、じいちゃんも言ってたし」
「街のやり方に合わせてやったのにな。……まずは頭を潰そう。それでも向かってくるなら」
「手足まで細切れだね」
兄弟は、それぞれの銃を取った。
まもなくしてギャングがやってきた。暖簾をくぐってきたのは五人。服装はまばらだが、全員が武装している。また、戸外にはその倍以上の数がいた。
「おい、カトー」
先頭の黒シャツが、ユーマを顎でしめした。
「本当にコイツらがやったのか?」
「はい。まちがいありやせん。金髪のほうのガキが、アニキをやっちまいやがって」
カトーの腰には、長いナイフがぶらさがっている。
「そうか」
黒シャツは、カトーの肩に手を置く。
「それでおまえは、おめおめと逃げてきたのか?」
「え……。いや、その」
カトーは、しどろもどろになる。
「一刻も早くボスに知らせるべきだと考えまして」
「そのあいだにヒロサキが死んでもか」
黒シャツがとがめる。
「ありえねえだろ。相手はガキだぜ。おまえが銃を使えない人種だってのは知ってるが、それでもやれることがあったんじゃねえのか?」
カトーは助けを求めるように視線を泳がせた。だが、他のギャングは反応しない。
「なれあうのは、帰ってからにしろよ」
フーマの言に皆の注目が集まる。カトーは人知れず、胸をなでおろした。
「俺がひとりでやった。よければ、やりかたを教えてやろうか」
後ろ手に組んで堂々としている。
「ひとりでか? そいつはスゲエな」
黒シャツは口元だけで笑みをつくる。
「おまえがすげえのはわかったから、その手にある銃をしまいな。そいつはガキの玩具じゃねえ」
相手がそれを言い終える前に、フーマは動いていた。背後に隠していた拳銃は二丁、それぞれの銃口が黒シャツのほうにむく。
火薬の爆ぜる音が、一発だけ響いた。
フーマが膝をついた。
「おまえもだ、ボウズ」
そういった黒シャツの手には、硝煙をあげるリボルバーがあった。それ以外のギャングは、ユーマに銃口を向けている。鮮やかな手並みだった。
ユーマは全員の配置を確認してから、ゆっくりと膝をついた。銃を床に置き、両手をあげる。
「さて、どうしようかな」
黒シャツはユーマに近づく。山高帽のひさしをあげて、睨みを効かす。
「あえて聞くが、どうしてほしい?」
「キレイな銃だな」
ユーマは明後日の回答をした。
「ありがとよ」
黒シャツは誰にも聞こえないようにささやくと、ユーマのあごを蹴りあげた。一撃で意識が飛んだ。予備動作のない、軽い動きだった。
「行くぞ。金髪のほうだけ連れてこい」
長い後ろ髪が、暖簾のむこうに消えた。
ギャングたちが去ってほどなくすると、サーシャが戻ってきた。彼女は、侮蔑と同情との混じった表情でユーマを見下ろした後、近くにあった拳銃をひろいあげた。銃口をユーマにむけて、引き金に指をかける。
カチンと撃鉄が落ちた。弾は出なかった。
いつもの夢を見た。暗い檻に閉じこめられている夢だ。
その檻は固く閉ざされていて、外界への通路をもたない。
あたりを覆っている闇はうごめいて、俺を内側から食い殺そうとしてくる。
胎児のように丸まった俺を、頑丈なベルトが緊縛している。
もうあきらめちゃえよと、誰かがささやく。
寝たら死ぬと、ちがう誰かがつぶやく。
「どうせなら、叫びつかれて死のうぜ」と、この俺がいう。
したがうべき声は、俺のもの以外にありえない。
だから俺は叫んだ。
この声が世界を呪い、俺を捨てた世界を滅ぼしてくれることを願って。
俺は憎しみを歌った。なけなしの命と、ありったけの勇気をこめて。
意識が薄れていく。視界に、光の帯が広がる。
白く透き通った手が伸びてくる。神さまが迎えにきてくれたんだ。
俺は、あらがうのをやめた。
目を覚ますと、夢に似た薄暗い空間のなかにいた。廃屋のようだ。手足は椅子に縛りつけられている。
壁ぎわに、黒シャツの女がすわっていた。
「おはよう。いい朝だな」
一気に記憶がよみがえる。大半は、怒りをともなう出来事だ。女につかみかかろうとしたが、手足の拘束がジャマをする。内腿に強い痛みを感じた。銃弾がかすめたところだ。傷口は白い軟膏でおおわれており、すでに血は止まっている。
「おい、ボスがあいさつしてるんだ。なんとか言えよ」
後ろから椅子を蹴られた。聞き覚えのある声だった。たしか、カトーという男。小物に用はない。ほうっておいて兄さんをさがす。
「おまえ、聞いてんのか?」
もう一度、椅子を蹴られた。先ほどよりも強いが、相手にするだけ無駄だ。よかった、兄さんはここにいない。
腕時計を見る。昼過ぎだった。店での一件から、あまり時間はたっていない。
「落ちつけ、カトー」
黒シャツがこちらにやってくる。
「おまえ、名前は?」
「フーマ。あんたは?」
「ボスと呼ばれている。それ以外の名前は使っていない」
「そうかい、ボス。まずは、この縄をほどいて欲しいところだけど、無理なんだろ」
「わかっているじゃないか。他には?」
「兄さんを見逃してくれて、ありがとう」
「そんなことか。他には?」
「それだけ」
「『それだけ』、ねえ」
ボスは顔をふせて、山高帽を深くかぶり直した。
カトーはがなりたてる。
「おまえなあ、ヒロサキさんのことはどうでもいいのか!?」
「カトー、ちょっと黙っていろ」
ボスがドスをきかせた。
「それにしても、フーマ。いやに冷静だな。わかっているのか、この状況を?」
言われて気がついた。俺は、この窮地を切りぬけられると確信している。
「兄貴がどうにかしてくれると思ってんのか……」
ボスが俺の耳元でささやいた。図星だった。
「……まだ来てねえけどな」
同情に満ちた目をくれる。
「くるよ」
「根拠は?」
ボスは両手を広げてみせる。
「それなら、賭けようか?」
「そんな必要はない。だって、兄さんはくるんだからね」
「じゃあ賭けようか」
ボスがくくっと鼻を笑わす。
「オレは大穴が好きなんだ」
「上等だよ、クソアマが」
中指をたてようとした。だが、縛られているせいで上手くいかなかった。
「ルールは?」
「五分ごとに指を折っていく。音をあげる前に兄貴が帰ってこれば、おまえの勝ちだ、解放する。そのかわりだ。もしも、万が一やってこなかったら、オレの舎弟になれ」
「ボス、何を言ってるんですか」
カトーが慌てふためく。
「こいつはヒロサキさんを殺したんですぜ」
「いいじゃねえか。ヒロサキだって、腹は決めてたんだ」
カトーは不服そうに唇を結んだ。
ボスは淡々とつづける。
「それにだ。こういうヤツと組んでたら、ヒロサキは死ななかったかもしれない。ガキから逃げるギャングってのもどうかと思うぜ?」
「すいやせん」
カトーがいすくんだ。
「俺は……」
「もういいよ。終わったことだ。それにおまえには、おまえだけの美点がある」
言葉を濁すカトーに、ボスは笑顔をむけた。
「ただなカトウ。おまえは、忘れっぽいのが欠点ではあるな」
そう付け足して、カトーに目配せをする。
「承知しました」
カトーは、首にかけていた懐中時計をボスに投げてよこした。表情に、さきほどまでの弱弱しさはない。
「俺は、俺の仕事をします」
会話が途絶えた。秒針のすすむ音と、タバコの煙とが広がった。
ボスの手には、使い古したペンチがある。金属の歯が、俺の指を上下からはさんだ。
「五分」
ボスはそういって力をこめた。骨の折れる音がした。大きな痛みはない。慈悲を与えたつもりだろうか。かりにそうだったら、許すわけにはいかない。
「五分」
俺の薬指が、あらぬ方向に曲がった。感じるな。観察しろ。俺は痛みに対処する方法を知っていた。
「五分」
中指が、関節と逆方向に屈曲した。小指が赤く腫れあがっている。もうしばらくしたら、青黒く変色するはずだ。
「五分」
骨をつたう振動だけを感じた。苦痛はない。兄さんに拾われる前、俺はクソみたい環境で育てられていた。毎日背中を鞭で打たれて、ときにはこうやって骨を折られた。だからこそ、今おかれている状況になんら問題はない。
「五分」
しかし、俺が以前いた環境だって、まだマシなほうだ。他の多くのガキは飯にありつくこともできずにのたれ死んでいく。大人になることが奇跡的なこの星で生きているのだから、俺はものすごい幸運の持ち主だ。
信じろ。それだけが、この場を切り抜ける力になりえる。
「五分」
反対の手にペンチがのびた。俺は、他事を考えるようにつとめる。動物用のケージにいれられてゴミ山に捨てられたことを思いだそう。俺の人生における最大の幸運、じいちゃんと兄ちゃんと過ごせることになった、幸福への引き金だ。
「五分」
もしかしたら、今ある不遇も、新たな幸せへのきっかけかもしれない。カトーが背負っているあの扉をあけて、兄さんが飛び込んでくるのが合図だ。兄さんに気をとられている隙に、俺は目の前の女を噛み殺す。この群れの統率は弱い。頭をとれば、手足は崩壊する。あごは動くんだ。こいつの喉笛を食いちぎってやる。
「五分」
問題は、俺がいる場所を兄さんにどうやって報せるかだ。すぐに追いかけてこないのだから、兄さんは動けない状態にあると考えるべきだ。怪我をしてないといいけど。いや、兄さんは頭がいいから、そんなヘマはぶたない。
「五分」
それならどうしてこないんだ? 兄さんが俺を見捨てるわけがないのに。野犬の群れにかこまれたときも、兄さんは身をていして俺を守ってくれた。だから、今回も助けにこないはずがない。そうか。こいつらを全滅させられるだけの武器を集めているんだ。それなら俺は、ここで時間を稼ぐべきだ。
「五分」
ボスがペンチを放り捨てた。
「やっぱこなかったな。もう折る指がない。帰ってもいいぞ」
ぬけぬけと言いやがる。クールなつもりか? この縄を解いた途端、俺にぶっ殺されることをわかっていない。でも、それはあとだ。今は他にやることがある。
「待てよ。まだ残ってるだろ。足の指でも、腕でも好きなとこを折れよ」
「逃げていいって言っているだろ」
ボスは鼻をならした。
「どうしてそんなにこだわる?」
「兄さんのことを信じているからだ。それ以外の理由がほしいってんなら、てめえはバカだぜ」
「腹のすわったガキだな」
ボスの眼に冷徹さがやどる。
「カトー、おまえは部屋から出ていろ。やることはわかっているな?」
「了解です。今度はしくじりません」
扉のむこうにカトーが消えた。
「なあ、おまえの兄貴、なんて名前だ?」
ボスは問うて、フィルターだけになった煙草を踏みつぶした。
「それとも、あっちのほうが年下か?」
「兄貴だ。ユーマ」
「ユーマか」
ボスは、つづけざまに新しい煙草をくゆらす。
「この町にくるまでは、どこに住んでいた?」
「スクラップマウンテン」
「はあ? 冗談ぬかすな。あそこに、生き物は住んでねえよ」
「でも、俺たちは住んでいた。それとも俺が死んでいるように見えるか?」
「おまえ、おもしろいな」
ボスの顔がほころんだ。が、すぐに真剣な顏つきに戻る。
「マジで言ってんのか? その、スクラップマウンテンのことだ」
「ウソなんてつくかよ。てめえみたいな小悪党に」
ボスは考えるような素振りを見せる。
「あそこに行ったオレの部下が、何人か帰ってきてないんだが、なにか知っているか?」
「知らねえ。あそこで兄貴以外の人間に会ったことはない」
身に覚えがあった。だが、正直に答える義理はない。
「犬に食われて死んだか、深いところまで行って帰れなくなったんじゃねえの?」
「そうか、ありがとう。少し休んだら再開しよう。次は足の指だ」
ボスはそういうと、適当な椅子に腰をおろした。山高帽のひさしからのぞく細面の顔は若い。たぶん兄さんと同じくらいの年齢だ。片手にくゆらせた煙草が、口にはこばれることもなく燃え尽きていった。
賭けが再開されたときには、ゆうに三十分がたっていた。両足の指をさしだせば、さらに一時間は稼げる。事前の想定よりも、状況はいい。問題は兄さんがなかなか現れないことだ。
ボスは事務的に俺の指を砕いていく。交渉の余地はなさそうだ。
途中でメシにするといって、ボスは酒とパンを分け与えてくれた。いらないと断ったのだが、無理やり口につめこまれた。食欲はなかったが、腹は減っていたのだろう。ワインで飲みこむようにして、パンを平らげた。その様子を見ていたボスは、自分の食いかけのパンも俺によこした。酒のほうはくれなかった。
最後の指が折れた。
ボスが口をひらく。
「なあ、どうするんだ。オレはもう飽きたぜ。次は首の骨でも折るか?」
「好きにしろよ。ただ、それをやったら俺の勝ちだぜ。俺は音をあげていないんだから。てめえは一生、俺に勝てないんだ。ざまあみろ……」
ボスは何も返してこない。
どんなツラをしてるのか、最後に拝んでやりたかった。だが、視界が効かなかった。意識を保つために、自分の指をかじったのが失敗だった。血を失いすぎたのだ。物の輪郭が見えない。食ったものを吐かないのが不思議だった。おそらく、体がまだ生きようとしているのだろう。でも、俺のほうは死にたい。なぜって、すげえ眠いからだ。
「まったく、アホなガキだな。それもド級のアホ」
ボスは気がふれたように笑いはじめた。
悪態をつこうとしたが、扉がいきおいよく開かれて、機を逃した。
「ボスー。つれてきましたよ」
カトーが帰ってきた。息を切らせている。
「むかえにいってやったのに、この野郎、銃をむけてきやがった。兄弟そろって、ふてえ野郎ですわ」
カトーは、どこかうれしそうだった。
「そうか。苦労かけたな」
ボスがねぎらえば、カトーはへへっと照れ笑いをする。
まぶたが勝手に落ちていって、俺は声をあげることもできなかった。姿を見ていないが、兄さんがいることは明らかだ。
ひどく眠い。ひさしぶりにゆっくりと、一年ぐらいは眠れそうだ。