記憶の商人
羽虫の大群と粉塵とで、大気は白くよどんでいた。積み重ねられた廃棄物が山脈のようにつづいて、ぼやけた稜線を描いていた。金属のゴミがちかちかとまたたいている谷間を、二人の少年がぬっていく。
「くっそ、いい加減しつこいぜえ」
後ろを走っていた少年が急停止しゴーグルをぬぐった。汗のにおいに惹き寄せられた羽虫が、袖のうえで潰れて死んだ。三角に折られたバンダナは、鼻と口をおおって頭の後ろで結ばれている。あごの下で余った布地が、濁った風にはためいた。
「フーマさまに逆らうたあ、いい度胸じゃんか」
三頭の野犬がゴミの合間を蛇行しながら、少年たちに向かっていた。血走った眼は眼窩からこぼれそうだ。
飢えていた。肋骨がすけるほど痩せ細っている。
「おーおー、大口あけて吹っ飛ぶか?」
フーマは背負っていた鉄パイプを抜き、野球のバットを構えるようにして肩に担いだ。ゴーグルに隠された眼は、犬たちの動きを見据えている。
先頭の犬があごを開けて飛びかかった。
タイミングをあわせて、フーマは前にした足を踏みこんだ。
鉄パイプが空気を寸断する。犬の牙を砕いて口角まで達した。ふりきられた先端がむくほうに、犬が吹き飛んでいく。
その犬を飛びこえ、二頭目の野犬がおどりかかる。
フーマは後方に倒れながら、喉元にむかってくる牙をかわす。視界に浮かぶ赤銅色の月を、犬の腹が横切った。その尻を鉄パイプが捕らえる。上体をねじり、打撃に勢いを加える。
犬は自分の股ぐらをのぞきこんだ体勢のまま、高くに打ち上がった。体毛をまきちらしながら回転する。
「忠告したぞ」
フーマは地面に接した肩を抜いて、斜め後方に受け身をとった。中腰の姿勢で着地して顔をあげる。
「もういっちょ」
すぐさま、三頭目の犬が地を蹴って飛んだ。顔前に構えたパイプで牙を防ぐ。だが、犬の突進力が強い。勢いに押されて、うしろに倒される。
両者はもつれあって転がる。砂ぼこりがその動きを追った。
砂塵が風に散り、じょじょに視界が晴れていく。
「あぶねええええ」
犬の下敷きになりながらも叫んだ。声に余裕はない。鉄パイプを犬に噛ませて堪えている状態だ。
パイプをつたった唾液が、ゴーグルにぽつぽつと垂れ落ちて、粉をふいたレンズから赤い瞳がのぞいた。獣臭い吐息に顔をしかめる。
「フーマ、動くな」
低い声が指示した。もうひとりの少年が戻ってきたのだ。骨だけになった傘をふりかぶり、助走をつけて放り投げる。
するどく研がれた先端が犬のこめかみに突き刺さった。
パイプをつかんでいたあごが浮わついた。フーマはこの機を逃さず、犬の下腹に蹴りをいれる。犬の体がさかさまになってフーマの頭を超えていった。
もうひとりの少年がすかさず走りこむ。突き立った傘の持ち手に前蹴りをいれる。
反対側のこめかみで、体毛のこびりついた皮膚が爆ぜた。ぶよぶよとした塊が飛びだし、傘の先端が現れる。
「さすが兄ちゃん。完璧な仕事だね」
フーマはゴーグルについたヨダレをぬぐい、空中に手を伸ばす。
「俺ひとりでも勝てたけど」
「そうだろうな」
もうひとりの少年が、宙にむけられていたフーマの腕をつかむ。
「まあ、俺なら追いつかれるヘマはぶたないけどね」
「ヘマじゃないよ」
相手の手を頼りにフーマは起きあがる。
「あいつら、殺すまで追ってくるんだもん。今のうちに殺しておいたほうが安心じゃん」
「たしかに。そのとおりかもな……」
兄が身を強張らせた。周囲を警戒する。
ゴミ山の至る所に、ぎらぎらと光る物が潜んでいた。野犬共の眼だった。数が多い。
「囲まれたか。しかたないフーマ、抜くぞ」
「オッケー」
二人はマントに手を入れた。取り出したのは銃だった。兄は大口径のリボルバーを、フーマは両手に自動拳銃を握っている。
ふと、風がやんだ。群れを統率する者の遠吠えが響いた。
影が、二人に襲い掛かる。
ゴミ山の頂上から三頭、降りてくる。二丁拳銃が迎え撃つ。反動に両手が踊った。
砂塵が四方から迫ってくる。大口径がその軌跡を追う。砂埃の中から次々と犬が飛び出す。どれも頭部が無くなっている。正確な射撃だった。
死体が積み重なる。
「兄ちゃん」
フーマが呼びかける。
「少なかったほうが、じいちゃんのシチューおかわりするってのはどう?」
「いいけどさ」
返事をしながらリボルバーを連射する。
「おまえは二丁使ってるから、ずるくないか?」
「文句言うなら、自分も使えばいいじゃん」
「一理あるな」
銃声がとめどなく続いた。野犬の群れが、それに比例して数を減らしていく。
弱ければ死ぬ。スクラップマウンテンで育った兄弟にとって、それは絶対の真理だった。
やがて遠吠えが響いた。犬達が撤退していく。無理な追撃はしない。兄弟は武器をおさめた。
「ちゃんと数えてた?」
「いいや。数えてない」
「だよね。わかってたけど」
フーマは大の字に寝転んだ。兄のほうは隣に腰を下ろす。
風が穏やかに流れている。
「ねえ、兄ちゃん」
「ん?」
「あっちはどんなとこかな?」
フーマの見上げる先に、水色の惑星が浮かんでいた。頭上の月と比べて倍以上の大きさに見える。
上方衛星と呼ばれる星だ。飽和をむかえた人類が到達した別天地である。
「向こうにはなんでもあるんだよね」
その星の住人は永遠の命を持ち、飢えることなく暮らしているという。
「いつか行ってみればいいじゃん」
「簡単に言うなあ」
フーマは鼻で笑う。
「どうやって稼ぐんだよ」
移住権を得るには莫大な資金が必要だ。まっとうな仕事をしていては、一生を賭しても稼げないほどの額である。
「そうだな……それよりフーマ。背中、見せてみろ」
「ん。ケガなんてしてないよ」
フーマはそう言いつつも、背中を見せる。
「やっぱりなあ。おまえの背中、めちゃくちゃ汚いぜ」
「マジで。じいちゃんに怒られるかなあ」
「大丈夫だろ、それよりも早く帰ろう。じいちゃんの料理はただでさえ不味いんだから、冷めたら食えたもんじゃないぞ」
「たしかに」
フーマは小さくうなずくと、間髪いれずに走りだした。
「家まで競争な。遅かったほうは、じいちゃんのシチューおかわりすんの」
「うわ、やだよ。おいフーマ、待てよ」
少年がフーマの背中を追う。二人のすがたは粉塵のむこうがわに消えていった。
犬の死骸を羽虫の大群がつつんだ。それらが飛び去った後には、乾いた骨だけが残された。
黄色いテントの前で、二人はバンダナとゴーグルを投げ捨てた。
「ただいま、じいちゃん」
フーマが声をあげた。
「今日は記憶片をひろったんだぜ。新しい武器を作れるよ」
「そうかフーマ、よく見つけたね」
テントの中にいた老人が返した。
「加工するのは後にして、まずは水浴びをしたらどうだ?」
「そうだね。このままじゃ、ごはんも食えないや」
テントの隅におかれた鍋を見て、フーマは顔をしかめた。泥水のようなスープがくつくつと煮えていた。
裏手にまわるとシャワーが一体となった陶磁器製のバスタブがあった。シャワーヘッドがあるべきノズルの先端に、ブリキのバケツがぶら下げてある。兄弟は服を脱ぎ捨てて、バスタブに足をいれた。白濁した水が、膝丈ほどの位置で波をたてる。
フーマはバスタブに浮いていたサラダボウルを拾って、足もとの水をくんだ。つりがね型の虫がボウルの水面をひょこひょこと泳いでいる。フーマは気にもとめず、頭上にあるバケツにその水を流しこんだ。
バケツの底にあけられた穴から、シャワー状になった水が降ってくる。二人は押しあいながら、体につもった塵を洗い流した。ダマになった粉が裸体を転がり、バスタブの水をさらに濁らせた。
何度かシャワーをくぐると、もともとの髪色があらわになる。フーマは金髪を、兄は黒い髪をしていた。
くたびれた草履を履いてテントに戻る。垂れ布をたくしあげると、温かい蒸気が逃げてきた。身をこごめて狭い入口をくぐる。裸の尻が情けなかった。
老人は焚き火で湯を沸かしていた。足のついた鉄製の網に土瓶が置いてある。
「食事の前に茶を飲みなさい」
ひしゃくで湯をすくい、脇に置いてあった急須のなかに注いだ。ところどころにへこみのあるブリキカップを三脚ならべて、それぞれが均等な濃さになるように順々に茶で満たしていく。
「どうぞ、めしあがってください」
「いただきます」
フーマは茶をすする。
「熱い……」
「フーマ、あせってはいけないよ。茶は逃げないんだからね」
老人の顔がほころぶ。
「それにこの空間は言葉をかわし、おたがいを知るためにあるんだ。茶はそのための口実にすぎない」
「それ、何度もきいたよ」
フーマはハエを追い払うように顔の前で手を動かした。
「じいちゃんの話は教訓ばっかりだ」
歓談とともに茶が減る。焦げついたシチューが平らげられた。
兄弟が空になった食器を井戸水で洗っていると、テントに併設された小屋に明かりが灯った。武器を加工するための工房である。片づけを終えた二人は、急ぎ足で小屋にはいった。
部屋の中央には裸電球がたれさがっていた。浮遊するほこりに光が反射していた。屋内の空気はにごりをおびている。壁際には天井までとどく背の高い棚がならんでおり、工具箱と銃とが置かれている。
電球の真下にある大きな作業机の前に、老人が立っていた。半分ひらいた眼は稚児のそれに似て澄んでいる。
ぶぅぅと、うなりをあげる電球に、小さなハエたちがしつこくぶつかっていた。親指ほどの大きさをしたクモたちが、梁のうえを行き来して巣づくりにはげんでいる。
「いい記憶だな」
老人は両手につつんでいた金属のチップを作業台に置いた。記憶片と呼ばれる、情報集積装置である。
「銃士の記憶だ」
老人は棚を指さす。
「右から二番目にある、銃身の長いのをとってくれ」
「わかった」
フーマは銃を抱きかかえて作業台まで運んだ。
「俺にやらせてよ」
「フーマ、わがまま言うなよ」
黒髪の少年が口をはさんだ。
「それは客から預かった物なんだから、じいちゃんに迷惑がかかるよ」
「いや、いいんだ。おまえたちはもう一人前の技術者だ」
老人は黒髪の少年を見てほほえんだ。
「ユーマ、ありがとう。おまえは優しいね」
黒髪の少年――ユーマは老人を一瞥した。
「二人だけでやってごらん。気になることがあったら口をはさむけど、うっとうしく思わないでくれ。老人の楽しみなんだ、自分の財産を切り売りするのはね」
「あはは」
フーマが無邪気に笑う。
「どうせなら、まとめてくれればいいのにさ」
「フーマ。早くやろうぜ」
ユーマはすでに銃を解体しはじめていた。
「いい技術者は、客を待たせない」
「ああ、ずるいよ」
フーマは机にひじをついた。
「組み立てるのは俺の仕事だかんな」
電球に投げられた影がそわそわと肩をゆらす。
ユーマは工具を用いて銃を解体していく。細い指のうごきにそって回転する拳銃は、裸電球の明かりを反射することで、陰影をめまぐるしくうつろわせた。暴力的にぎらぎらと輝いたかと思えば、次の瞬間には光をやわらかく滑らせて、金属は多彩な表情を見せつける。
豊かな表現力をもってはいるが、それでも銃器は単なるうつわだ。銃に命を吹きこむには、記憶片の移植が欠かせない。
記憶片は、すべての人間が生まれながらに頭に持っているもので、銃に移植することもできる。そうすることで銃が戦闘に関する経験を学習し、使用者に戦い方を教えるのだ。使い手の感受性に比例して、銃との繋がり《リンク》は高まる。適性の高い者なら、敵の弾道を予測することも可能だ。
記憶片を移植する技術者は、人並外れた共感能力をもって仕事にあたる。彼らは『記憶の商人』と呼ばれ、銃士たちに重宝されていた。記憶の商人としての適性を持つものは銃士よりも希少だが、ユーマ達兄弟はその才能を有していた。
分解したパーツを、二人は柔らかいウェスで掃除していった。多少の汚れが残っていても弊害はないが、作業を見守る老人が許してくれない。
『プロとしてやっていくなら、手は抜くな』
兄弟に技術を教えはじめたころから、老人は口酸っぱく繰り返した。
清掃し終えたパーツを、作業台に書かれた等間隔のマス目にしたがって並べる。全体で四百マスある方眼のうち、縦横九マスの正方形が埋まった。残りは空白である。
「八十一規格か。ちょっと難しいね」
首をひねるフーマに、ユーマが提案する。
「俺が記憶を読んで、おまえが線をつなぐ。逆でもいいけど」
「オッケー、それでいこう」
「ちゃんとつなげよ。おまえは細かいとこを省いちゃうから」
ユーマは釘をさしてから、中央のマスに置かれた記憶片に手をかざした。
静かに目をとじる。じょじょに呼吸が深くなっていく。
記憶片が青い火花を散らした。蓄積された情報が、ユーマの内部に流れこんでいる証拠だ。
老人は扉近くの木椅子にすわって静観していた。まぶたはほとんど閉じられていて、うたた寝をしているみたいだ。時々イヤな咳をした。気管支を患っている者に顕著な鈍い咳である。
ユーマの髪が静電気に引っぱられたように逆立つ。天井の裸電球がパチパチと音をたてて点滅した。記憶片から生じる火花が明度を強めていく。
老人は目尻をしわくちゃにして、満足そうにほほえんだ。落ち窪んだ眼窩にどす黒いくまが目立つ。
「兄ちゃん、大丈夫」
フーマはおそるおそるといった様子で半歩近づく。
「深くもぐりすぎちゃダメだよ。息ができなくなっちゃうから」
ユーマは目をつむったまま、一度だけ首を縦にふる。手短な返事を選んだのは、外部情報の流入を嫌ったためである。集中力を欠けば、記憶片のもつ情報を誤読しかねない。ユーマは記憶片との対話に集中する。
「自覚、祈願、行為……」
ユーマの口から細切れの単語がこぼれた。記憶片に書きこまれた言葉を道しるべにして、内部世界に入るための暗号を探していた。
「ほほを打たれる痛み、ぬけがらの男……」
その言葉を発した瞬間、記憶片の散らす火花がはじけた。閉鎖された回廊に入るための重要なコードだった。
ユーマは意識を滑り込ませる。内部には満天の星空に似た、点々と光が輝く空間が広がっていた。人体に接続されていない記憶片の中には、時間軸をもたない三次元空間が存在している。その膠着した世界に流れを与えるには、外部から干渉するしかない。深い海に潜るように、ユーマは意識を潜行させる。
「割れた酒瓶、冷たい両腕……」
停止した世界を意識が泳いでいく。高速走行をする意識によって、相対的な動きが生まれる。
「待ち人、オムライス……」
光の粒子が後方に流れていく。それらはすれ違う時、悲鳴のような音を発した。停止した世界は変化を嫌う。異物を取り込もうとする同質化の力が蠢いていた。他者の記憶に呑まれないために、ユーマは意志を強く持った。目指すのは深層に隠された、記憶の核心部分である。
「……青い傷口」
その単語を口にしたとき、ユーマの手が動いた。見れば、記憶片の一点から、かぼそい線がとびだしている。植物の細根に似ている。みるみるうちに萎れていくその線を、フーマがピンセットに似た道具でつまんだ。線は、たちどころに枯れていくのをやめた。
「十二番に接合」
ユーマが指示をだした。
フーマは作業台の十二のマス目に置かれたパーツを見やる。
ピンセットを持ちあげると、チップからでていた線がするすると伸びていった。目当てのパーツの内側にある小さな突起に、その先端を結びつける。
「オッケー。次」
「カビのはえたパン。十五番をとおして、三番に接合」
ユーマの指示に、フーマは即応した。二人が作業するのを横目に、老人は小屋から出ていった。晴々とした横顔ではあったが、いくらかのせつなさも垣間見えた。
すべての線をつなぎ終え、銃を組み立てた。各パーツと記憶片とをつないでいる線はゴムひものように伸縮し、銃身の内側におさまっている。完成した銃を前に、兄弟は顔を見合わせた。緻密な作業による疲弊は、それに倍する達成感にかき消されていた。
「いい仕事だ。これならどこに行ってもやっていけるよ」
老人が称賛した。盆にのせたマグカップを作業台に並べると、完成したばかりの銃を持ちあげる。
「静脈の走りが美しい。記憶の主は、知性あふれる女性だったんだな」
銃身に青い網目模様が浮かびあがっていた。うっすらと輝くそれは、老人の言うとおり、静脈のような走り方をしていた。棚に置かれていた時には、模様などなかった。記憶片を移植されからこそ、外見的特徴を獲得したのだ。
「つないだのは俺だよ」
フーマはこぶしの側面で自分の胸をたたいた。
「いい仕事だ。さすが、わしの弟子だな」
老人はフーマの頭をくしゃくしゃと撫でまわした。
「ところでユーマ。ちゃんと浅瀬だけを泳いだか?」
「もちろんだよ。いいつけは守る」
ユーマは老人から目をそらした。
「何ヵ所か深いところがあったけど、そこは避けてもぐった」
「いい子だ」
老人は銃を置いて、ユーマの額に手をあてた。
「誰かの死を体験するのは危険だし、傲慢なことだ。記憶をあつかうものは、故人の尊厳を守らねばならない。ユーマは他人よりも深くもぐれるから、そのことを決して忘れてはいけないよ」
ユーマは無言でうなずいた。
「さあ、茶が冷めてしまう」
老人が手を叩いた。
「後かたづけをして、つづきはそのあとだ」
「フーマ、ユーマ」
老人の呼びかけに二人は居直った。説教がはじまるとでも思ったのか、フーマはせわしく膝をゆすった。
「急な話だが、わしは上方衛星へいくことにした。残念ながら、おまえたちは連れていけない。移住権を手にいれたんだけど、一人分の金しかだせなくてね」
老人は、袂から金属のカードをとりだした。しわがれた手がこきざみに震えていた。薄いカードの表面には、金色の文字で『to Blane』と刻印されている。
きょとんとするフーマから視線を外して、老人はつづける。
「私は長くないから、早くむこうに行かなくてはいけない。上方衛星でなら、いくらか長生きできる。身勝手と思われるだろうが、二人で町に行ってそこで生きていくんだ」
「イヤだよ」
フーマははじかれるように立ちあがった。ようやく理解が追いついたのだ。
「俺も一緒にいくよ。いいでしょ」
懇願よりも悲鳴に近かった。
「それは無理だ。一生かけても、ひとりぶんの移住権しか買えなかったんだ。権利を持たない人間に、その扉は開かれない」
老人は続ける。
「もしも、おまえたちにその気があるなら、一生懸命に働いて上方衛星に遊びにきてほしい。大きな家をたてて待っているよ。いつかまた、みんなで今のように暮らそう」
「そんなのイヤだよ」
フーマが叫んだ。
「ここでだって、楽しく暮らせるじゃん。じいちゃんがいなくなったら、俺さみしいよ。兄ちゃんのことも好きだけど、じいちゃんのことも同じぐらい好きなんだもん」
老人は目頭にしわを寄せる。
「フーマ、わかってくれ」
骨ばった肩を隠しているローブが震えた。
フーマは何か言おうと頑張っていたが、握りしめた拳をほどいてうなだれた。まだ幼い彼にも、老人の体調がかんばしくないことは分かっていたのだ。強がりの笑顔を作ろうとしたが、それができるほど器用ではなかった。とぼとぼとした足取りで、フーマは小屋を後にする。
「ユーマ。フーマのことを頼んだよ」
老人は言った。
「あの子は感じやすい子だから、だれかが守ってやらなきゃいけないんだ」
「わかってるよ、じいちゃん」
ユーマは歯がゆそうに口元を引きつらせた。
「それで、町で生きていくには、どうすればいいの? 俺たちは町に行ったことがほとんどないし、金をかせぐ方法も知らない」
「ここに行けばいい。それに生きていく方法なら、もう知っているはずだ。わしがお前たちに託した技術は、どこに行っても通用するものだ。それから無闇に人を傷つけてはいけないよ。町には町のルールがあるんだ」
老人が袂から取り出した紙切れには、住所と名前が書かれていた。
「さっそくだが、行かせてもらうよ。老人というのは不便なものだ。明日の朝には死んでいるかもしれないんだからね」
老人は手になじんだ杖だけを持って、ゴミ山の奥へと向かった。粉塵のなかにうしろ姿が消えていくのを、ユーマは無言で見届けた。フーマは最後まで見送りに現れなかった。
老人が消えたあとには、はじめから誰もいなかったみたいに、白い空間が忽然と広がっていた。月は赤く、風は乾いていた。時おり、野犬の遠吠えがどこからともなく聞こえた。
ユーマたちも、しばらく待ってから旅立ちを決めた。小屋には持ち主のわからない銃が残されている。誰一人として武器を受け取りにくる者は現れなかったため、処理に迷ったあげくに置いていくことにしたのだ。
手になじんだ工具でいっぱいになったリュックサックを背負った。
二人は鉄パイプを杖がわりにして進んでいく。
白い粉塵が晴れ、暗闇がおとずれた。
荒野にはいっていた。順調にいけば、直近の町まで一日もかからない。
前をいっていたフーマは歩調を落として、おもむろにユーマの手をつかんだ。
「兄さんは、俺を捨てないよね」
以前より大きくなってはいたが、いまだに子どもらしさの残る華奢な手だった。
「あたりまえだ。俺たちはいつだって一緒だ」
ユーマは力強く応えた。握り返す手にも力がこもる。
ぶあつい雲が月をおおい隠しても、足跡はまっすぐに伸びていった。吹き荒ぶ風に、互いの姿さえも霞んだ。それでも二人は歩みを止めなかった。握りしめた小さな手の温もりが、ユーマに前を向く力を与えていた。
いくつかの夜が明けるころ、遠くに町の影を見出した。