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決断の時 3

 外へ出ると辺りは閑散としていた。


 時刻は七時半。この時間帯は先ほどの俺たちと同様、家族で楽しく談話している時間帯なのだろう。


 道を歩いている中ですれ違うのは帰りのサラリーマンが大半だった。それも数人だ。


 街灯に照らされた道を歩きながら十分ほど。ようやく目的地へとたどり着いた。


 ここに来るのは随分と久しいものだ。通学路とは違う方向であるため数年は見ていないのではないだろうか。


 本当にここで合っているか気になってしまう。確認がてら照らされた表札を覗き込む。


『東雲』


 そこにこう書かれていた。

 どうやら燈の家で間違いないようだ。分かると途端に懐かしさがこみ上げて来る。


 変わっていない風景に思わず、見とれてしまっていた。

 でも、ずっとこうしているわけにも行かない。

 インターホンを手で押すと、よく聞く高い音が家内に響いた。


「はーい!」


 すぐに声が聞こえた。出たのは燈だ。俺であることに気づかず返事をしたのかトーンはいつもと違って、調子の良いものだった。


「響です」


 俺はいつもと変わらない口調でそう言った。するとインターホン越しに何かが倒れる音が聞こえた。燈からの反応が見られない。向こうで何が起こっているのだろうか。


「翔くんですか……」


 少し立つとオドオドとした声が聞こえて来る。俺だと察したようでいつも通りの口調になっていた。


「今、少し時間あるか?」

「え、えっと……はい、大丈夫です」


 そこでインターホンは切れた。切れたと思うと静かに扉の開く音が聞こえる。


「翔くんですか……」


 ゆっくりと燈がドア越しに顔を見せる。

「今、父親はいるか?」

「お父さんは、今日は帰りが遅くなるみたいです」

「そうか……少し中に入れてもらっていいか? 大事な話があるんだ」

「あ、えっと……はい、わかりました」


 了承を得たところで玄関前のドアを開けて、燈の元へと歩いていく。

 燈が開けている玄関に手を添えるとそのタイミングで燈は家内に戻っていった。玄関の戸をさらに開けて、俺も入る。


 風呂上がりだったのか、燈はピンクを基調としたパジャマを着ている。居合道では、男らしい振る舞いをしているが、こういうところは女子なのだと思わされる。


「相変わらず、ピンクが好きだな」


 懐かしさが込み上がり、思わずそう言ってしまった。いきなりの言葉に燈は体を揺らした。


「ピンクですか……ああ、服の……はい、今も変わりませんよ」

「そうそう変わるものじゃないか」

「はい……それで、何しに来たんですか?」

「言っただろう。大事な話があるって」

「大事な話って、まさか……」


 燈は目を煌めかせながらこちらを伺う。そんな燈を一瞥する。


「その前に部屋に行ってもいいか?」

「部屋にですか?」


 煌めかせたその瞳が曇るのを感じる。何を考えているの?と言わんばかりの訝しげな表情だ。


「別に大丈夫ですよ」

「ありがとう。あと、これ」


 俺は持って来ていた紙袋から中に入っているものを取り出した。


「りんご?」

「家にたくさんあったから持って来た。好きだったよな、りんご」

「……はい。ありがとうございます」


 燈は穏やかな笑みを浮かべると俺から紙袋を受け取った。

 よほど嬉しかったのか紙袋に入っているりんごをしばらくのぞいていた。


 そこで、ふと何かに気づいたのか足を動かし、二階へと上がっていった。

 俺もついていくように歩を進める。


 二階上がってすぐ右側に燈の部屋はある。昔はよく来ていた場所だから忘れてはいない。


「どうぞ」


 戸を開けると俺に入るように促す。言葉に従い、部屋の中に入っていた。

 部屋のコーディネートも昔のままだった。


 ベッド横にあるぬいぐるみも、ピンクで染まっている雑貨も、この可愛い空間を台無しにしてしまうような居合道着も昔のままだ。


 見回していると、あるものが目に止まる。

 壁や棚の上に飾られている数々の賞状やトロフィー。


 俺が居合道をやめて何もしていなかった数年間、彼女の努力が生んだ賜物だろう。


「ここも変わらないな」

「そ、そんなこと……ないですよ」


 幼い頃と変わっていないのが嫌だったのかかすかな抵抗を見せる。


「ほら、ピンク色とか増えましたし」

「それは、変わってないに近いと思うんだけれど」

「くっ……後は……あ……」


 燈の儚げな声に思わず視線を彼女の方へと向けた。

 見ると先ほど俺がのぞいていたトロフィーと賞状に目を向けていた。


「……そうだな。変わっているかも」

「……はい……」


 しみじみと燈は言った。

 燈は変わった。必死に頑張って掴み取ったものがある。


 ただ、しみじみと見せたその表情は頑張って来たと自信を持てていないように見えた。


「で、その大事なことなんだけど」


 だから俺はこのタイミングだと思って、口を開いた。

『大事なこと』という言葉につられて目を見開き、こちらをのぞいた。


「今度の大会、見にいくことに決めた」


 刹那、開かれた目には光が差し、煌めいていく様子が見て取れた。


「ほ、本当ですか?」

「ああ」

「本当に、本当ですか」


 間合いを詰められ、もう一度同じことを聞かれる。


「だから言っているだろう」

「はー、ありがとうございます」


 感極まった燈は嬉しさのあまりここ数年見せなかった笑顔を俺の前で見せた。

 不意にあの頃の記憶と重なる。


 鼓動が高鳴るのを感じた。思わず、唇を噛み締めた。

 代わりに手を燈の前へと差し出していく。


「翔くん!」


 頭に向かっていた手は燈の緊迫した声とともに止められた。


「手……」


 俺の手を両手で握り、見つめていた。自分の手を確認するとそこにはいくつもの絆創膏が貼られているのが見られた。


 燈は痛々しい手を傷ついた動物を見る悲しい目で見つめていた。


「ちょっとした切り傷だよ」

「切り傷って……刃物を扱ったんですか」

「ああ、自分からな」

「なんでそんなことを……」

「歩き出そうって」


 そういうと燈はこちらを覗く。その目には未だに光が差し込んでいた。


「歩き出そうって、決めたんだ」


 無意識だが、優しいトーンで言葉が出て来た。燈は俺の様子を見ると目を潤わせ、唇を噛み締めていく。


 でも、目尻からほおを伝うものは見られなかった。


「だから、燈も頑張って欲しい」


 俺は握り締められた状態のまま言った。「頑張ってくれ」なんて上からなことは言えない。燈をそうさせたのは俺なのだから。今は願望しか言えない。


 燈は一度、顔を下へ向ける。


「はい、頑張ります。頑張って、そして……」


 その続きを言うことはなかった。次の言葉を言うのは得策ではないと思ったのか。


 部屋の中を沈黙が包み込んでいく。

 そろそろ、お暇の時間かもしれないな。


「なあ、燈最後にもうひとつだけ。お願いしていいか?」

「はい、大丈夫です」

「燈の母親に合わせてくれないか?」


「母さんにですか?」

「今まで会えなかったらさ。顔が見たいんだ」

「……わかりました」


 少し間が空くが、燈は同意すると今度は下に向かって歩き始めた。


 下へ降りると引き戸となっている部屋へと入って行った。そこは和室になっており、今まで木造となっていた床は畳になっていた。


 和室に置いてある、座布団へと腰を下ろす。

 そうして目の前に見えるのは仏壇だった。


 仏壇には遺影があり、その人物を俺は知っている。


 東雲しののめ りん。燈の母親に相当する人物。俺はよく「おばさん」って呼んでたっけ。今思うとかなり失礼だったな。


 おばさんは燈が中学時代に事故で亡くなった。その頃の俺は、燈とは関わりを持っていなかったため知らせを聞いても会おうという心構えを持つことができなかった。


「お参りさせてもらっていいか?」

「はい。構いません。母さんもきっと喜んでくれると思います」

「そうか」


 俺は仏壇の目の前にたつと、鐘を鳴らすとともに静かに合掌した。


「でも、どうしたんですか。急に」

「挨拶してなかったからさ。ずっとお世話になってたのに、何もしてあげられてなかったから」

「それは……仕方がないことですよ。時期が時期でしたから」

「そうかな」


 本当はもっと早くこうして挨拶するべきだったのだろう。きっとおばさんは怒っているに違いないだろうな。


「ありがとう。連れて来てくれて」

「いえ、私は大したことはしてないです。全部翔くんが選んだことじゃないですか。前を向いてここに来たのも」

「選んだのは俺だけど、そうさせてくれたのは燈の影響もあるはずさ」


 それに、千恵やイワさん、師匠にテツさんも。周りにいるみんなに支えられてここにいるはず。


 燈は少し目を潤しながらこちらを見る。

 ひとまず、ここにいる理由はもう終わった。腰を上げ、帰る準備を試みる。


「だから、俺が言いたいのはさっきのことだ。燈が自分の型を見つけていることを期待している」

「翔くん……はい、精一杯刀を振ります」


 これで燈の心も定まったことだろう。あとは、それがどちらに影響を及ぼすか。


 燈の家を出たところで俺は空を見上げた。

 空には夜闇の中にいくつもの星が輝いていた。


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