心の闇 1
場所:地球
***
刀を握ったその手はひどく震えていた。
重みによるものだろうか。もう何年も持ち続けているのに今更重みに耐えれなくなるなんて不思議な話だ。きっと、物体的重み以外の重みを知ってしまったからなのだろう。
昔の武将たちはすごいと感じた。この重みを背負いながら毎日戦い続けていたのだから。俺にはとてもじゃないが、無理な話だ。
だからと言って、刀を扱うことをやめたくはない。
震えたその手で型に沿って刀を振るった。何年もやってきて、自分のアイデンティティとなった居合道をやめたいなんて思わなかった。
力一杯振るった。それが力みへと転じてか自分の味をうまく出せない。何年間も必死に励んで培った自分の要素が喪失した感覚に襲われた。
嫌だ。嫌だ。
何回も何回も刀を振るった。でも、目の前の照明に照らされた光るそれに目を注ぐとどうしても胸に針が刺さるような感覚に襲われる。
振ろうものなら視界に映る刃先が自分の見た光景と重なり、胸が痛くなる。
振るわないものならば、大好きな居合ができないことに胸が痛くなる。
俺の雰囲気に飲まれてか道場の周りにいるみんなは隅の方で自分の刀を振るっていた。まるで俺から距離を取るように。
仕方がない。俺は罪人だから遠ざけられて当たり前の存在なんだ。
それでも、ただ一人近づいてくる者がいた。
黒髪ポニーテール。彼女も他の子達と同じく恐怖の眼差しを覗かせているが、それでもなお芯のある真っ直ぐな目を忘れてはいなかった。
「翔くん……大丈夫?」
恐る恐るといった歩調だが、それでも着実にこちらに歩み寄ってきてくれた。
心配してくれている。そのことが嬉しくて、鬱陶しかった。
「大丈夫……なんてあるわけない……」
俺は持っていた刀を落とし、そして。
***
我に帰ると先生と思しき人が、黒板に板書している様子が目に入ってきた。
感覚が鮮明になっていき、声の内容を聞きとることができるようになっていった。
どうやら授業中に居眠りをしてしまったらしい。最近は、起きていられることが多かったんだがな。
にしても、昼間の睡眠ではあの世界には飛ばされない仕組みになっているようだ。そのせいで良くない夢を見てしまった。
居合道をやめることを決意した日。燈を苦しませる引き金となったあの日の夢を。
未だに思い出すことはできない。
刀を落とし、俺は燈になんて言ったのだろうか。頭に血が上って、自分自身をおしとどめられなくて歩み寄ってくれた彼女に罵詈雑言を浴びせたと思う。
ある程度、言葉を言ったことで我に帰り、彼女を見るとひどく表情が荒れていた。
泣くのを我慢しているのか、涙を流すことはなかった。だからその分、表情はひどいものになっていた。
そこに師匠がやってきて、打たれたのも覚えている。「お前はいつからそんな弱い人間になったんだ」と言われた。
弱い俺はきっと何をしても無駄だ。だから俺は何もやらないと決めた。自分のアイデンティティを捨て、無に帰ると決めた。
沈んだ心を落ち着かせるために一度空を見上げる。
晴天に恵まれた今日は空に光る太陽が強く教室へと差し込んだ。
まだ春のこの時期は暑いという感情は湧かず、暖かくて心地のいい光だった。
何年間も光を放ち続ける太陽は壮大で素晴らしいと思った。俺もあんな風に光を放ち続けていたらどうなっていただろうか。
考えるのはやめておこう。夢物語は夢の中だけで十分だ。
俺は心地いい温もりを感じながら再び、机に突っ伏した。
****
放課後。千恵に帰りが遅くなる報告をして、俺はある場所へと向かった。
数週間ほど前に行った『居合道場』だ。
燈の稽古の邪魔をしないようにと、ある程度教室で時間を潰してから学校を出た。
淡々と歩きながら目的地へと向かっていく。
その内に千恵から『了解』のクマさんのスタンプが届いた。既読をつけ、携帯をしまって歩を進める。
今回赴くわけはあることを確かめたかったからだ。
前に道場に足を運んだ時、ある程度燈の型を見ることができた。
そうして、あの世界で見た燈の型。形は似てはいるものの奥底に眠る信念に違いが見られた気がした。
だからもう一度、この世界における燈の型を見ておきたかった。
物思いにふけっているといつの間にか道場へとついていた。
昔は毎日見ていたからか、数週間見なかっただけでも懐かしさがこみ上げてくる。
いつも通り庭を突っ切り、前で一礼したのち道場へと入った。
今日もみんな自分の技を磨くために日々稽古に励んでいる。
それはここから距離遠く離れたところにいる彼女も例外ではない。
振るうその刀は一閃一閃に磨きがかかっており、距離の差を気にしないように一動作後には風の舞う感覚に襲われる。
「最近は出入りが激しいな」
一通り見回したところで横にいた男に声をかけられる。前回と同じような展開だったので、少しおかしく感じてしまった。
「すみません、辞めた身なのに。未練がましいですよね」
「今日はいつにもなく素直なんだな」
男はやや驚いた声を上げる。普段冷静を保っていた彼からはあまり見られないことだった。
「ふっ。何かあったのか?」
「いえ、特には……」
「そうか」
そうして、少しの間沈黙が生まれた。俺は男からの言葉をしばし待つ。俺から言えることはこの瞬間においてはなさそうだ。
「未練があるのか?」
「正直言えば、未練だらけです。でも、もう叶うことはありませんから断ち切っているだけです」
「お前はまだ若い。いくらでもやり直しはできる。特に居合道に関してはな」
「若くても無理なものは無理ですよ。もう……自分を取り戻すことなんてできないですから」
小さい頃はよくできた笑顔も、誰からも尊敬されるような立ち振る舞いも、それらは過去の栄光でしかなく、もう一度掴むことはきっとできないだろう。
「それでも、きっと、お前の望む形に近づくことはできるはずだ。それもなりたくはないのか?」
「それは……どうでしょうね?」
「もし、お前がその気になったら、いつでも戻ってこい。俺は歓迎しているぞ」
「……ありがとうございます」
しばし、感傷に浸る時間が流れる。今日はこのために来たのではない。時間を置いたところで話を変えるように俺は口を開けた。
「燈の型、前とは少し変わりましたね?」
「そうだな。ある日を境に少しずつ変わって行ったように思える。本人の中で何かを見つけ始めたのだろう。だいぶ良い型になって来た」
男の言葉を聞きつつ、燈の動作に目をやる。本人は集中しているようでこちらに気づく様子はない。
流れる動作は可憐で、芯が尖っている。視線はまっすぐで目標に向かってぐんぐん突き進んで行こうという意欲を感じる。
「ただ……少しだけ負のものを感じる」
付け足すようにして男はそう言った。さすが居合道との付き合いが長いだけある。今俺が見えることができていない景色を彼は見抜いていた。
「もし俺と燈が一戦交えたとしたらどちらが勝つと思いますか?」
だからこそ俺は男にそう問いかけた。全てを見透かしている彼なら一体どう答えるだろうか?
三度、沈黙が道場を包み込む。聞こえるのは地面を踏む音くらいだった。
「燈の圧勝だろうな」
結論が出るのは予想より早かった。俺の考えと全く同じだったから驚きはなかった。
「今日はここで失礼します」
見たいものも見れた。それに聞きたいことが聞けたところで俺は道場を後にすることを決めた。
「一つだけ」
去る間際、男は引き止めるように言葉を発する。瞬間的に俺は足を止めていた。
男は一言告げ終わるとそれからは何も言わなかった。
俺は表情を変えることはなく、言葉そのものを胸の中に叩きつけて、その場を立ち去った。