■ 09
――04:51――
森を抜け出した僕らはやがて孤島の最端にたどり着く。瀬戸内海を見渡せる断崖……そこが終点だった。誰からともなく立ち止まり、寄せては返す波の音色が沈黙を覆っていた。
視界一面に飴色に染まる空と夜色の残る海との境界線。ひどく穏やかなグラデーションを見ていると理由なく涙が溢れてきそうだった。考えないようにしていたビビの言葉が次々と思い浮かぶ。
長く保たない僕ら行使者。
繰り返される砂時計の世界。
抜け出せない永遠の責め苦……
歩んできた道を振り返る。
深い森の入り口がある。その先はまだ夜が明けていない。あの夜の中で仲間たちは殺し合いを続けているのだ。きっと朝を迎えることなく、その生命の灯火はやがて尽きる……夜の中で。
「――、」
僕と、佐伯フユと、近江ナユタ。
たった三人でそこから逃げ出して、何ができる。すぐ後ろまで迫っている暴走による死という結末……そこから逃げることは叶わない。
ただほんの少しだけ先延ばしにして、それだけ。
何もできない。何も……
気づけば、僕は膝をついていた。
「――、――――チク、ショウ……」
あまりにも無力だった。
五十嵐ビビが自身の死を予知し、打ち明けてきた時から……ずっと。
いいや、もっと昔から……それこそゲームセンターで作った親友と離別した幼い日から、僕はずっと弱いままでいたのだ。付かず離れずの信条などと……そんな臆病なことを口にしているから、だから……だから同じ島に隔離される運命を辿った仲間たちに対し、上手に心を開けず、結局仲間たちが死んでいくのを見届けることしかできずにいる……
僕は悔いる。臆病さを。
両の手を握りしめて、断崖の岩肌を殴る。
無数の砂粒の破片が皮膚に食い込み、痛んだ。
それを無視して、二度、三度と岩肌を殴る。
憎かった。自分の無力さが、仲間たちを苛む運命が、砂時計の世界が。
痛みはただ拳を焦がすような灼熱の感覚に変わっていく。
上手に握りこぶしを作れなくなって、それでも何度も、僕は両手を振り下ろす。
何度も、何度も……
指先の感覚がなくなるよりも早く、僕の手を包むひんやりとした感触があった。
それは手のひらだった。岩肌に向けて振り下ろそうとした手を包む誰かの手。
肩越しに振り返ろうとした僕の頬に、やわらかな温もりの感触。
抱きしめられていた。
僕は首を動かし、相手の正体を探る。
ボタンを外した紺色のブレザー……長いストレートの髪が薄っすらと射す陽光に照らされ、絵画の中に描かれる聖母のような穏やかな印象を讃えている。
近江ナユタ。
彼女に抱かれている事実に、頭が真っ白になる。
こちらに関心があるような様子など皆無だった。声を聴いたことだってない。先ほどは倉見モカの拳銃から『空間の膜を作る』という能力を解いてまで庇おうとしてくれた少女。ほとんど見ず知らずの赤の他人。
そんな彼女の抱擁を受けて困惑し――
その冷たい手のひらの感触が、温かな胸の感触が、ほのかに薫るやさしげな香りが……ぽん、と頭の上に置かれた手のひらの感触が困惑を激しい情動に変えていった。
「ぁ――――」
抗うことはできなかった。
「あ、あ、あ、………………!!!!」
身体が、喉の奥が震え、滂沱の感触が冷たい頬を洗った。
みっともなく、僕は声を殺して、ナユタの胸で泣く。
耳に届く穏やかな音……それが瀬戸内海の潮騒なのか、あるいはナユタの鼓動の音なのか。それもわからないまま、時間を忘れて……僕は泣いた。
ただただ、泣き続けた。
嗚咽が止むのに、涙が引くのに、どれだけ掛かっただろう。
顔を上げてナユタに向き直ろうとした、その時だった。
右の頬にぞっとするほど冷たい感触が、触れた。
長く細く鋭く尖ったそれは、氷柱だった。
透けきった先端。根の方に向かうにつれてピンク色に染まっている。
その根本は、鮮やかな赤色をしていた。
ブレザー服から生えた氷柱は、近江ナユタの血を吸って、真っ赤に染まっていた……
「――――――――」
思考が凍りつく。
尖った氷によって貫かれたナユタの胸。
すぐ側には、氷化粧……氷を生み出す固有能力の持ち主、佐伯フユ。
いったい……? なにが……?
……いや、判っている。脳はひとつの可能性しか感じていない。1+1=2よりも単純なロジック。ただ理性がそれを拒んでいた。だってそうだ、佐伯フユが氷化粧で近江ナユタを攻撃したなどと。そんなはずが、ないじゃないか。しかし受け入れることを拒んだ所で氷柱に貫かれたナユタの身体から血が流れ続ける現実は変わらない。どうして。どうして……
どうして――どうして、どうして……どうしてどうしてどうして……!!
混乱によって脳が焼ききれそうになる。
それを救ってくれたのは、少女の声。
「――確定した未来……ビビが言ってた通りだった」
はじめて聴く声だった。
それなのにどこか懐かしい声だった。
僕は今度こそ顔を上げる。
近江ナユタの、はじめて見る、微笑があった。
「あんなにも、かなしそうなアスクのこと……抱きしめずにいられるはず、ない……」
ぽん、ぽん、と冷たい手のひらが僕の背を撫でた。
万華回廊という空間の膜を作る能力を持つ彼女が誰かに触れる為には、その能力を解く必要がある。空間の膜を捨てた彼女は人並みに無力だ。その時攻撃を受ければ、当然ダメージを受ける。
「きっと次があっても、こうする……」
にも関わらず、それを承知で僕を抱きしめた。
いや、その口ぶりからするに、ナユタはもしかして……
「ビビから……聞いていた……?」
生前の五十嵐ビビの口から……
仲間を、僕を抱きしめる為に能力を解いて、その隙に攻撃を受けることを……
僕の問いに、彼女は宵の風のような穏やかな微笑みで答えた。
「どうして……どうしてだ、ナユタ……」
わからない。
どうして、この未来を知っていて、それでも……僕を抱きしめようと考えたのか。
一度も話したこともなかった、僕を。
額に大粒の脂汗を浮かべながら、ナユタはブレザーの内ポケットに手を入れる。
取り出したのは生徒手帳だった。
そこから抜き出したのは一枚のカード。
僕に差し出して見せたそれは――
「…………う、そ……でしょ……」
それはICカードだった。
アイドル育成物のリズムゲームの、記録媒体。
「うそじゃないよ」
そのカードの中には、彼女が育んだアイドルのデータが眠っている。
おそらくそれは――
『たとえばデパートとかにさ、夕飯の買い物に子連れでママさんが来るだろ?』
『筐体の前で子供がねだる。ワンゲーム、ワンコイン。休憩にもちょうどいい』
『ママさんはそっとプレイを見守る。マイキャラをメイクアップする我が子。微笑ましいワンシーン。やがてカードを手にして帰ってくる。満面の笑み。親としては当然、子供が関心を持ったゲームのことを少しは調べる』
『で、ハマる』
『ママさんネットワークを介して別のママさんもハマる。パンデミックだ』
『つまり、だ』
『やってみろってこと』
幼い日の光景。大切な思い出が瞼の裏に蘇る。
理由も思い出せない些細な喧嘩で、メッセージアプリという、か細い繋がりを絶ってしまった幼い日の親友……
近江ナユタ。君があの少女だって、そう言うのか……?
ナユタはくすくすと笑う。
「ビビが言ってた……固有能力は、トラウマやコンプレックスを下地にしてるって……」
ナユタもその仮説を聞いたのか。いつ? いや……そんなことはどうだっていい。
「あのお別れがショックで……もう友達なんていらないって、ずっとそう思ってた。一度きり親友が居てくれただけで……十分だって……他にはもう、誰もいらないって……」
絶え絶えの声で、彼女は、僕の親友は、そう告白した。
ビビの仮説が確かなら……なんてことだろう。同じトラウマをきっかけにして、僕らは異なる能力を得たのだ。
方や、誰とだって心を繋げる能力。
方や、誰と触れることをも拒む能力。
本当はどっちもいらなくて……もう一度言葉を交わせばそれだけで満たされたのに……僕は、ナユタの手をつかむ。冷たい手のひらを握りしめて、親友の名前を呼ぶ。
「……ナユタ。死ぬな……死なないでくれ……ナユタ……ナユタぁ!」
ずっと気づけなかった。会いたかった彼女と再会できていたこと。
理由なく味方でいてくれた彼女。
僕のことを守ろうとしてくれていた彼女。
ずっと……友達のままでいてくれた近江ナユタ。
「……また会えていたこと、言わないでいて、ごめんね……」
再会を果たしたこと、秘めていたこと。今になって彼女は謝った。
再会できていたことを知った今、僕は再び彼女を失おうとしている……
「そんなのはいいんだ……謝るのは……こっちじゃないか……」
僕の声に答えず、あるいは声が届いていないのか――彼女はまた口を開いた。
「アス、ク……同じトラウマを……つまらない体験を……かなしい別れを経て……それでも、人と繋がること……諦めないでいてくれて……」彼女は笑った。「ありがとう……」
それきり彼女は目を閉じて、浅く静かな呼吸だけが残る。
「ナユタ……? ナユタっ……」
何度名前を呼んでも、彼女はそれに応えない。
冷たい手のひらの感触だけが、やけに重くなっていくように感じた。
「…………、…………っ!」
よくも、よくも――ナユタを……!
僕は彼女の手を握ったまま、彼女の背後で立ち尽くす、佐伯フユを睨む。
睨んで……そして見た。
まるで根ざしたように、その両足が凍りついて、大地とひとつになっているのを。
能力の暴走――
「――フ、ユ」
名前を呼ぶ。
ナユタを貫いた氷柱の一撃……それも暴走をこらえきれずに行われたことなのか……?
しかしその想像は違っていた。
フユは哀しげに目を伏せて、そして言った。
「…………なんだ。アスクくんには、当たらなかった、んだね」
ナユタの身体を貫いた氷柱。僕もろとも貫こうとしていたのだ……
「なんで、フユ……どうして…………どうしてだよ……!」
「『どうして』ばっかりだよね、アスクくんは……」
ちいさく笑う。……害意のない、いつもどおりの、穏やかな笑い方だった。
モカやドルチェのように狂気に支配されているわけでもない……
ますますもってその一撃の理由がわからなかった。
争いを忌み嫌っていたはずだ。共に狂乱を止めることを誓いあった。一体、どうして!
返ってきた答えはあまりにも明快だった。
「みんな死ねば――――やりなおせる。そうでしょ?」
明快で、切実で、優しく、愚かで、やり切れない答えだった。
超常現象行使者が死滅すれば繰り返しが発生するという、砂時計の世界……
その残酷な仕組みに、彼女の追い詰められた心は――救いを見出したのだ。
「この……、…………、…………ッ」
僕だって……僕だってなぁ……!
やり直せたらって……思いはしたさ!!
出会いをやり直し、この結末を変えたい。
やり直して、もっと心を開いて、たくさん話して……結末を変えられたらって。
願いさえ、したよ。
でもさ、フユ。
今の僕らは、どうなる。
この破滅的な状況を良かったなんて言うつもりはないけどさ。
やり直すことを望むのはさ……時計の針を戻そうとする行為は……この一週間の日々が無価値だったと言うようなものじゃないか……
向けあった笑顔も、傷つけあった言葉も、交わしあった約束も。
感じた情愛も、仲間の死を悼む心も、思い出に残す価値もないと言うことに他ならない。
そうして繰り返しは始まる――僕らの日々を、なかったことにして。
それでいいって、フユは思うのか。
きっと追い詰められたフユの心はそんな残酷なことに気づかない。果てのない砂漠のような絶望的な状況の中で見つけた一粒の可能性にすがっている。誤りに他ならないだろう。けど、どうしてなじることができる……その儚く尊い願いを。
「――次は外さないから。だから……動かないでね」
佐伯フユは自由の利く上半身を動かし、いま一度その手中に鋭利な氷柱を作り出す。
僕は理解する。
この手でフユを討つことが、今の僕にできる、精一杯のことなのだと。
「――、――――」
僕はひとつ深呼吸をし、その覚悟を決める。
仲間を討つ。
その為に僕は行動しようとして、
『――だめだよ、アスク』
その言葉で留まる。
フユの背後に、また――――半透明の五十嵐ビビの亡霊が出現した。
ビビ……砂時計の世界を僕らに告げたあれが最後というわけではなかったのか。
でも――どうして今になって現れる……!
ナユタが致命的な一撃を受けた今になって……どうして……どうしてだ!!
『君がフユを討ってしまっては、いけないんだ』
その言葉に耳を貸すわけにはいかない。
佐伯フユを討つ。それが今、僕が仲間にしてやれる最後の務めだと思えた。
ビビの言葉を無視した僕が不格好に構え、
フユが僕を討たんと氷柱の一撃を見舞おうとした瞬間、
「ア」
瞬く間に、フユの身体が凍てついた。
彫像のように、佐伯フユの時間が止まった。
暴走……超常現象行使者に例外なく訪れるという過負荷……
それが僕らの逃避行の末にたどり着いた、結末というわけか。
「フユ……」
凍てついた彼女は、表情を動かすことも、心の臓を動かすこともできないでいる。
「ナユタ……」
僕はナユタの名を呼ぶ。その冷たい手を握りしめる。脈のない手。上下しないブレザーの胸元が僕の涙を吸って、しっとりと染みを作っていた。
「僕は、……」
また何もしないまま、ただ生き残って――――
「ぁ、ぁ…………」
両膝をつく。
身体をくの字に折って、両手で顔を覆って、声にならない絶叫をあげた。
『…………………………………………………………………………………………』
そんな僕の無様な姿を、半透明の亡霊がただ、見守っていた。
――生存者 一名
――生死不明 二名:宇都宮コトリ、倉見モカ
――死者 十三名:五十嵐ビビ、音城スグヤ、小岩井テンマ、
日向ケンイチ、新居シノブ、寒川トシユキ、
浅倉エイジ、辻ミモリ、黛チカシ、
神楽坂ドルチェ、八嶋ナデシコ、佐伯フユ、
近江ナユタ




