あだ名がメスゴリラの私が何故か王子に求められている
王都から離れたのどかな麦畑が広がる、ひっそりとした辺境にヴェンゲルという騎士一家が暮らしていた。
エドワルド・ヴェンゲルは王の騎士として、数ある栄光を納めた騎士である。30歳半ばを過ぎた頃、大きな傷を負ったため騎士を引退し、王から承った国境付近の領地にて独りで余生を過ごそうと考えていた。しかし、国境付近の警備を司っていたヘバール家の一人娘であるクリスティーンに一目惚れし、猛烈なアタックを繰り返した。クリスティーンは気の強い女性であったが、数々の猛攻撃をエドワルドから受け、仕方なく折れたのだった。
それからというもの二人は愛を育み、沢山の子宝に恵まれた。
「川遊び行こうぜ!」
「いいね!行こう行こう!」
「じゃ、きょうそうな!」
「一番はおやつ一個多くね!」
次々に家から走り出ていく小さな子供たち。順に長男ロバート、次男ジャック、三男ルイス、四男リック。そして……
「にいさまたちぃーまってぇー!」
長女アリスの計5人。
アリスは兄達に決して追い付けないだろう、短い足を必死に上げて追いかけていった。
このお話は騎士家系に唯一女性であるアリスが生まれたことによって始まる物語である。
月日はたち、少年たちがヴェンゲル邸から飛び出して来た。
「今日は取っ組み合いしようぜ!」
「いいね!賛成賛成!」
「じゃ、俺からな!」
「一番は掃除しなくていい権利ね!」
今日も今日とて元気な声が響き渡った。そして……
「お兄様たちには負けない!」
長い黒髪を高く結い上げた気の強そうな少女、アリスが少年の輪の中へ入った。その瞬間、少年たちは苦いものを飲み込んだような顔をした。
「メスゴリラのお前が入ると勝負になんねーんだよ」
「昔は本当に本当に可愛かったのにね」
「1抜けるわ俺……」
「メスゴリラに勝てる訳ないもんね」
少年たちの活気あった声がまるで雨が降ったかというように静まる。反対に少女は嵐を起こすように手を振り上げ、声を張り上げた。
「私はメスゴリラじゃない!!」
少年たちは一人の少女によって次々と吹っ飛ばされるのであった。
騎士の家系であるヴェンゲル家に生まれた女の子__アリス__は剣の訓練など率先してされているものではなかった。しかし、上に4人いる兄達が剣の練習をしているのをアリスは遊びと勘違いしたのか、真似をしているうちに何故か兄達よりも強くなってしまった。
そして、アリスは兄達にメスゴリラと不名誉なあだ名を付けられてしまったのだ。
そんな風に呼ばれて喜ぶ女性などいないだろう。
アリスはそう呼ばれる度にキレては相手を剣や拳でのしていった。
アリスをメスゴリラと呼んだ相手を倒していくことで更に強さを手に入れてしまったのか、彼女に敵う者はいなくなった。
エドワルド・ヴェンゲルは困っていた。唯一妻のように美しい容姿を持った娘であるアリスがエドワルドの膝の上でボロボロに泣きまくっていることに。
それも理由が、兄妹の一番下の女の子でありながら兄達より自身が強過ぎて可愛くないというもの。
騎士としての教育を息子たちに教えていたことも悪かったのか。
辺境の地になど娯楽が少なく、兄達と遊ぶくらいしかなかったことも関係しているのだろうか……。
アリスは嗚咽をしながら声をあげる。
「わた、し、メスゴ……リラって、にいさまたっちが……可愛、く、ないって……」
「メスゴ……そんなことはない。アリスはクリスティーンに似て美しいぞ」
「おとうさ、ま……ほ、ほんと……?」
海のような青い瞳を滲ませ、鼻水を盛大に流しながらアリスはエドワルドの顔を真っ直ぐに見た。エドワルドはアリスを安心させるように優しく微笑む。
「ああ、本当だ」
「じゃあ……おとうさま、がアリスっとけ、結婚してくれ……る?」
「それは……クリスティーンが居るから駄目だな」
「うそつきっ!」
「……ッ理不尽!」
再度ボロボロに泣き出したアリスは手を振り上げ、エドワルドの顎へ一撃を食らわせた。
別の意味でも攻撃を食らったエドワルドは騎士時代に決して誰にも見せなかった情けない顔を晒すのだった。
何処で育て方を間違ってしまったのだろうと、エドワルドは頭を悩ませるのだった。
「みっともないわねぇ、エド」
「それは君とアリスの前だけだよ」
エドワルドは泣きつかれたアリスを寝かせてから、負傷した顎を手当てをしてもらおうと妻であるクリスティーンの元へ訪れていた。
手当てをしてくれる手付きは優しいものの、言葉にはトゲがある。
まぁ、それはクリスティーンの性格からして状況を楽しんでいるという意味もあった。
クリスティーンは目を細めて赤い唇を弧に描く。
「それほど心配しなくても大丈夫よ」
「なぜそう言えるんだい?」
「私がそうだったから」
「君は……メスゴ」
「ん?」
「……違う。君は私より強くないだろう?」
エドワルドがメスゴリラと口に出そうとしたとき、クリスティーンは世にも恐ろしい笑みを浮かべたのでエドワルドは慌てて言い直した。彼女はまぁいいわと言わんばかりに、澄ました顔をする。
「その強さはそうだけど……。私だってあのときは気が強すぎて誰も寄って来なかったのよ。だけど、エドは違ったわ」
思わずほぅ、と息を付くような美しい笑みをクリスティーンは浮かべてエドワルドの顎をなぞった。先程の痛みが全て消えるようであった。クリティーンは続ける。
「私と貴方が出会ったもの。そのうちアリスにも現れるわ。今は見守りましょう」
「……分かった」
クリスティーンはエドワルドの手当てを終えたところで頬にキスをし、さっさと部屋からエドワルドを追い出すのだった。
「夫なのにこの扱い……理不尽……」
エドワルドはとぼとぼと自室へ帰るのだった。
王都から離れた自然が広がる場所へ、ここへは相応しくないだろう格好をした人物が二人、馬を駆って進んでいた。
先頭を進んでいたローブを着た淡い緑色の髪をした成人を過ぎたばかりであろう青年が馬を止めた。それに後ろに付いていたフードを被っている少年も馬を止める。青年が少年へと顔を向ける。
「ここが……エドワルド・ヴェンゲルがいる領地ですね」
「ここにそんな伝説の騎士が住んでいるのか?」
青年の声に、声変わり前であろう少年の声の返事があった。フードの少年は偉そうにしているものの、年上であろう青年は不快そうではなかった。少年の問いに青年は頷く。
「確かです。そして、5人の息子たちは非常に優秀であるそうですよ」
「それは楽しみだ。手合わせをして、見定めてから引き抜きたい所だな」
フードの下で少年は不敵に笑うのだった。
朝となり、アリスは一人になりたいと家から少し離れた山に来ていた。山は静かで小鳥のさえずり、川のせせらぎが聞こえたりと傷付いた心が少しだけ落ち着くものであった。
アリスは透きとおる川に近づき、水面に顔を写す。
「メスゴリラって……女で強かったら駄目なの?男で強かったら言われないの……?」
アリスが問いかけるも答えがあるはずもなく、アリスは悲しみにくれた。
艶のある長い黒髪、青空のような色の瞳。美しい母と同じものを持っている。しかし、アリスは母のように女性らしくはなく、メスゴリラと言われ続けていては自信などあるはずがない。
「男に生まれたらこんなことに為らなかった……」
長い髪が川に垂れ、川に写っていたアリスの顔を消した。
その髪を見て、アリスはある衝動に駆られた。
騎士の家系として、常に左腰に掛けている自身の剣を鞘から抜き出す。
よく磨かれ光に反射する剣を見て、アリスは一息つき、剣を持っていない左手で長い髪をひとつに束ねる。
そして、髪を根本から思い切り剣を振った。
左手の力が抜けた所で、引っ張られた頭に痛みが走ったものの一瞬だった。
風に乗って黒い糸がいくつも流れていく。
アリスはそれを見送って、軽くなった頭をみようと、再度川へ自身の顔を写す。
不恰好に髪が切れているが、何処と無く男っぽくなり、格好良く見えた。
「これで、メスゴリラと言われない!」
高揚した気分のまま、剣を勢い良く振って、鍛練しようと山の奥へ颯爽と掛けていくのだった。
少女にあるまじき顔を浮かべてアリスは木を斬り倒し山の中を駆け巡る。
「今の私は無敵だ!」
吹っ切れた感情が抑えきれずに溢れ出していた。
そんな中だった。
突然、目の前にフードを被った人物が現れたのだ。
「うわあ!」
「えっ」
急に止まることが出来ず、その人物へアリスは体をぶつけ、相手を押し倒してしまった。
アリスは持っていた剣を地面へ置き、慌てて起き上がり、相手を抱き起こす。
「ご、ごめんなさい!」
「いってぇ……」
相手は受け身を取ったのか、意識を失ったりはしていなかった。そして、起き上がらせた時にフードが外れ、相手の顔が露となった。
まるで炎が燃えているような赤い髪と瞳。アリスの兄達は父と同じく茶髪であり、このように目立つ髪は初めてあったのでアリスは見とれてしまった。
少年は頭をかきながら、アリスへ顔合わせ、ムスっとした顔をした。
「ゴリラかと思ったらなんだ、人間か」
「ゴリ…………歯をくいしばれ!」
「んがっ!?」
アリスは見知らぬ少年にアッパーを食らわせ、その場から泣きながら去って行くのだった。
赤髪の少年は、今しがた起こったことを頭の中で整理した。
「今のは危なかったな……」
見知らぬ黒髪の少年がぶつかって来たと思ったらそのあと、いきなり拳を振り上げて来た。慌てて急所から攻撃をずらしたものの、避けきれずにいくらか食らってしまった。口のなかに鉄の味が広がり、赤髪の少年は気持ち悪いと唾を地面へ吐き出す。すると、見慣れない剣がすぐ側に置いてあった。それをかかげ、ある紋章が目に入る。
「それはヴェンデルの紋章ですね」
「クリム……お前」
声が後ろから聞こえ、振り向くと、新緑を思わせるような髪色の青年__クリムがいた。クリムは申し訳ないように目を伏せ、杖を取り出し、回復魔法を赤髪の少年にかけた。
「ユアン王子……すみません、油断していました。安全な領地だと思って探索していたのですが……」
「安全だとは思うが、ゴリラのようなとんでもない強さの少年が居たんだ。俺より強い……な?」
「例えが酷くないでしょうか?伝説の騎士の子と言えばいいでしょうに」
赤髪の少年の名はユアン。ヴァルハイム国の第一王子であった。クリムの回復魔法によってユアンの傷が癒える。ユアンはクリムから目を外し、手に持っているずっしりとした重みのある剣を眺めた。様々な逸話がある伝説の騎士、ヴェンデル。ヴェンデルには古の竜を司った紋章が剣に彫られていると言われている。
剣は主人から離れたことで輝きが失せたように沈黙を保っている。持っている手がだんだんと痺れてきた。
これを振り下ろすには相当の力がいるだろうことが伺えた。ユアンと同じくらいの少年がこれを振って木を斬り倒していたのだ。
「欲しいな」
「剣がですか?」
ユアンはクリムのその答えにお前は役に立たない奴だなぁと呆れた顔をクリムへと向ける。それにクリムは顔を真っ赤にして怒った。
「私は魔法使いですよ!貴方の側近とか本職じゃないんです!研究室に籠りたい!!」
「あーあー聞こえない。聞こえない」
「こんなときにわざとらしく子供になるのは止めて下さい!」
火に油を注いでしまったのか、クリムはずっと怒っている。一応まだ成人していないから子供のはずだが、クリムにはそう見えてないらしい。まぁ、そんなことはどうでもいい。
「クリムには俺の補佐として仕事を振り分けすぎていると思っている。だから、ここに来たんだろ」
「それでさっきのゴリラを勧誘すると?」
「お前も言ってるじゃないか。……ともかく、この剣を持った奴を勧誘するぞ。俺に警戒させずに近付いて二撃も入れたんだ。俺より強いから俺の護衛に最適だ」
「彼に嫌われてそうですが……」
「……そこは……王子の権力で」
「私みたいにですか。はぁ、仕方ないですね。私の平穏を少しでも取り戻すため協力しましょう」
嫌味のようにグチグチ言うクリムに、ユアンは有能だが、小言が多いと思うのだった。
エドワルドは混乱した。一人で外に出た可愛い娘が泣きじゃくりながら帰って来たと思ったら美しい長い髪を山へ置いてきたらしい。
「ちょっと、山で草を根こそぎ刈って探してくる」
「貴方、正気に戻れ。それで、アリスはどうして髪を切ったのかしら?」
クリスティーンの高いヒールで足を踏まれ、エドワルドは正気に戻る。クリスティーンが聞くもアリスは嗚咽にまみれ、話せないようだった。
息子たちも心配からか、家から出てくる。
アリスのバサバサになった短い髪。暴れたのか、木で擦ったのか服は所々破け、白い肌には擦り傷が走っていた。剣は落としてしまったのか鞘しかない。
一体何があったのか。
そんな時だった。
「ここが、ヴェンデル邸か」
「突然失礼します」
大小二つのフードを被った人物が突然現れた。
エドワルドは妻と子供たちを後ろに下げ、常に帯剣している剣を素早く引き抜く。
相手は何もしないと手を上げ、エドワルドが様子を伺うのを見てから、フードを取り払った。
大きい方はさらっと揺れる緑色の髪をしており、小さい方は太陽のように燃える髪色をしていた。
エドワルドは現れた見覚えのある髪を見て、向けていた剣を下げるのだった。
「剣を向けてしまい、申し訳ありません。ユアン王子、如何なる罰も受けましょう」
王家特有の赤髪。第一王子のユアンへ剣を向けたなど不敬罪である。エドワルドに何があっても文句は言えない。しかし、王子は首を横に振る。
「いいや、俺が伝えなかったことが悪い。よって不問だ。しかし、ある条件を飲んでほしい」
「なんでしょう?」
「この剣を持つゴリラ……少年を俺の騎士にしたい」
そういって、王子はむき出しの剣を掲げた。
竜を型どった紋章。それは間違いなくヴェンデルの証。そして、剥き出しの剣を治める鞘だけを持った者は一人__アリスしかいない。しかし、今は大層泣いている。そこで、エドワルド・ヴェンデルは盛大な勘違いした。泣いている娘、数々の傷、切った髪、犯人は王子かと。
エドワルドは闘気を滾らせ、剣先を王子へ向ける。
「ユアン王子。王子でもやっていいこととやってはいけないことがあります」
「いきなりどうした?」
「嫌がる我が子の剣を取り、ましてや髪を切るなど言語道断。王の騎士であった私が命と引き換えにその腐った性根を正しましょう」
「何を言って……」
「そこへなおれええええええ!!」
「うわあああ!」
それから、正気を失ったかつての伝説の騎士であるエドワルドの体力が尽きるまでユアン王子の誤解は解けなかったのであった。
頭にたん瘤を作ったユアン王子を前に、頭を床に擦り付けるようにしてエドワルドは頭を下げていた。
「申し訳ありません。娘の一大事についカッとなってしまい、我を失ってしまいました。如何なる罰も……」
それにユアン王子は不貞腐れたような顔をしながら首を横に振った。
「勘違いしたならしようがないとでも言っておこう。こんなことで罪には問わん」
「感謝します。それで、本題ですが、私の娘を王子の騎士にしたいということでよろしいですか?」
それに王子は頭に疑問符を浮かべた。
「先ほどから何を言っている?おれはこの剣を持ったお前の息子を騎士にしたいと言っている」
そこで、今まで閉口していたアリスが口を開けた。
「あの人……メスゴリラじゃなくて、ゴリラって言った……」
泣きながら王子を指さすアリス。
それで、エドワルドは納得して頷きながらユアン王子へと説明する。
「ああ、その剣を持つのはゴリラではなく、メスゴリラです」
「メスゴリラ?どういうことだ?」
「ですから、メスゴリラが……」
アリスは泣いたままであったが、メスゴリラという言葉が行き交うことが許せず、感情が限界突破してしまった。
涙を流したまま、般若のような顔を浮かべ、アリスは王子へと近づく。ポカンと口を開けているユアン王子からすかさず自身の剣を奪い取り、力を込めた。
「ふっとべ!」
「ぐえっ」
峰打ちで力の限り王子をふっとばす。
人ではないものというように蛙のような声で鳴いて、王子は軽々空へ飛んでいった。それを見送ってから、アリスは次の標的へ狙いを定めた。
そう、あのあだ名を連呼した父親である、エドワルドへ……。
唯一信じていたのに、裏切られたことを根に持ち、アリスは泣きながらも笑った。それにエドワルドは青い顔をして、後退る。
「アリス!違うんだ!メスゴリラと言ったのは」
「ふっとべ!」
エドワルドは重さがあるためか、軽く吹っ飛んだだけであったが、運悪く木へと激突し、そのまま地面へ沈んでいった。
それを今まで傍観していた緑髪の男が場違いにパチパチとアリスへ向け拍手した。
「あの生意気なバ……ではなく、あの王子に油断もスキも与えず、素晴らしい。……ああ、私はクリムと申します。あの生意気なバ……王子の側近です。アリスさんとお呼びしてもいいでしょうか?」
「ゴリラじゃなければ何とでも呼べばいい」
アリスはキレているためか、言葉が荒々しくなっていたが、それでクリムは気分を害したりなどはしなかった。むしろ、喜んでいた。
「ではアリスさん、これからよろしくお願いしますね。ああ、そうそう。王子を吹っ飛ばしたからと言って罪には私がしませんので大丈夫ですよ。死んでたら別ですけど。まぁ、あの生意気なバカ王子は図太いので大丈夫でしょう。では、時間を開けて再度貴女を勧誘しに来ましょう」
「来ても無駄。私はゴリラじゃないから」
「……禁句のようですね。王子は私の方からも叱っておきましょう。では」
クリムは懐から杖を出し、何かをぶつぶつ唱えると途端に見えなくなった。魔法を使って何処かへ移動したのだろう。
いまだ、獣のように荒い息を繰り返すアリスは怒りに任せ、再度山の中へと入って行き、木を斬り倒していくのだった。
クリムが王子の吹っ飛ばされた距離を計算し、そこへ魔法で移動したが、王子はそこにいなかった。
「受け身取って、直ぐに復活したんですかね。本当にスライムの団体様御一行のようにしぶとい」
グチグチ言いながら歩いていると、さわさわと水が流れる音が聞こえる。そこへクリムが近付いていく。すると、緩やかに流れる川の上で、顔を水面からだしながらプカプカ浮いている王子がいた。
「はぁ、やっと見つけましたよ王子」
クリムは王子が何故川に入って楽しんでいるのか疑問には思ったが、聞きたくはなかった。面倒くさいことがおこりそうであったために。しかし、王子は聞いて欲しかったのだろう。口を開ける。
「なぁ、クリム。俺、今、熱いんだ」
「風邪ですか?バカは風邪引かないって聞きますけど」
「酷っ……まぁ、今はいいけど。ともかく、ゴリラがメスゴリラと分かった時から熱くなったんだ」
「……つまり、ゴリラを男と思っていたが、女と分かってから熱くなったと」
「……おれはあのメスゴリラに惚れたようだ」
真っ赤にした顔を沈めるように川のなかへ入っていく王子。クリムはそれを見送って面倒くさいことになったと後悔したが、取り敢えず人が増えれば王子に関わる時間が減るだろうと、騎士としてか妻としてか分からないが、アリスの勧誘を少しは手伝おうと思うのだった。
月日は更に過ぎ、アリスは14歳となった。王都の学園に入ったがアリスの強さの噂話が独り歩きをしているのか、男子ならず女子までもが2人を除いて寄って来ることはなかった。
そんな訳でアリスは授業が終わったら暇であり、時間を潰すために必然と剣の練習をしに演習場へ行くしかなかった。
荷物を手っ取り早く片付け、帯剣している剣の位置を確認してから歩き出す。
そんなアリスの前に、炎のように赤い髪を靡かせた少年が立ちふさがる。少年の顔立ちは14歳らしく、まだ幼いものの、将来は格好良くなるだろうと思うほど整っていた。
少年__ユアンはここヴァルハイム国の第一王子である。
王子であるから、不敬な態度は取れないとアリスは必然と足を止めることになる。
しかし、このようなことを何度もされてアリスはいい加減うんざりしていた。
アリスは毎回ユアン王子に会うたびにある告白をされ続けているのだ。
また同じ言葉が来るだろうとアリスは拳に力を込める。
それから間もなく、曇りのない瞳を輝かせて王子は大きな声で叫んだ。
「メスゴリラ、お前に惚れているんだ!俺の騎士になって、最終的に結婚してくれ!!」
「私はメスゴリラなどではなく人間だ!いい加減にしろ!!」
相手は仮にも王子であるので、アリスは剣を抜かず、拳を振り上げるのだった。
そもそもアリスとユアンの出会いは最悪なもので忘れたいものであるが、彼が会いに来てはその嫌な記憶を思い出させるのだ。
アリスはメスゴリラと何度も何度も嫌なあだ名を呼ばれていい気はしなかった。
それなのに、あきもせず毎回呼ぶのは何故だろうか。やはり、嫌がることに気づいていないのか、それとも意地悪をしているつもりなのか。いや、側近であるクリム__何かとアリスに王子のことを愚痴ってくる__が王子を馬鹿と言っていたので本当に馬鹿すぎて分からないのかもしれない……。
アリスは考えても考えても分からずに疲れるだけであった。そんな気持ちを変えようと演習場にて剣を振るのだった。
光に照らされ短い黒髪が剣を振るごとに艶やかに揺れる。青空を写したような瞳が獲物を見抜くように視線を外すことなく真っ直ぐを見ていた。時間が経つ事に洗練されてくる佇まい。それらは一種の芸術であるかのようにアリスは美しかった。
アリスの髪は幼いときに短く切ってからそのままの長さにしてあり、少女であるものの、肉付きや強さも相まって中性的な容姿に見えた。
それを遠くから眺める影が二つ。ユアン王子とその側近のクリムだ。ユアンはお腹を抑えながらニヤっと不気味に笑った。
「流石俺のメスゴリラだ。今日もいいパンチをもらった」
「王子、いい加減照れ隠しを止めて本名で彼女を呼べばいいじゃないですか」
「……俺はまだ彼女自身から名前を聞いていない」
急に真剣な顔をしたユアンにクリムはため息を吐いた。もう、長い付き合いになるが、ユアンはこうと決めたら絶対に譲らないのだ。王子としてそれは求められるものかもしれないが、クリムにとっては馬鹿に等しかった。
「本当にバ……変なところで頑固なんですから。それよりどうするんですか?最近人に慣れた黒猫が大量に送り込まれるようになったじゃないですか。今は私達の手におえていますけど、そのうち駄目になりますよ」
暗に私達の命がなくなりますよと、クリムが言えば、王子はもう少し時間をかけたいと言う。
「今はまだ噂話程度で止まっているが、メスゴリラの強さが露呈すればこういうことも出来なくなるだろう」
ユアンは思案顔でアリスを見つめる。
死角などないと言わんばかりにだだっ広い演習場。その真ん中に彼女は居るのだ。王子の騎士や妻として此方へ引き込めばこんな所で剣を振ることなど出来なくなるだろう。
そんな時だった。
真っ直ぐを見ていたはずのアリスがユアン達に気付いたとばかりに、捕らえて離さないというような獣の視線を向け、突然剣を振りかぶって投げた。
ザクッ
ユアンが音のした直ぐ右方向に顔を向けるとなんと、目の前で剣が壁に突き刺さっていたのだ。
ユアン、クリム共々流石に血の気が引き、アリスの居た場所に顔を戻すも彼女は居ない。
何処だと思った瞬間、ガッと剣を抜く音がした。
獣のように音もなく、アリスは移動して来たのだ。
それにゴクッとユアンは恐れからか喉を鳴らした。
アリスは剣を振り払って鞘に納め、王子の方へ振り返った。
「私は人間だ」
そういって彼女は去っていった。
残された二人は蛇に睨まれた蛙の如く、直ぐには動くことが出来なかった。
いや、正確にはそこには手慣れた黒猫がもう一匹いた。いま、正に油断していた王子を殺そうとしていたのだが、アリスによって恐怖から動くことが出来なかったのだ。その黒猫はそのまま何もせずに身を隠すのだった。
カツカツとアリスは靴音をわざと鳴らして歩いていた。それもアリスのことをメスゴリラという王子のせいだった。
「可愛くない私によく何度も……いい加減にしてほしい。名前で呼んでくれたら別に王子の騎士になってあげてもいいのに」
アリスは家族以外で初めて接した異性が王子だったのだ。出会いは最悪であったものの、学園入ってから1人で不安であったアリスに顔は知っている王子が何度も話しかけてくれることがほんの少し嬉しかったのだ。
そんな王子は何だか色々と狙われているようで、さりげなく出来ているかは分からないが助けていた。
「最近は多くなって来ている……。でも、騎士になるのはまだ先がいいな」
隠れている者や気配を消している者を探し出すのは以外と楽しい。今の状況をもう少しだけ楽しみたいとアリスは思うのだった。しかし、それが王子の騎士として向いてることだとアリスは一寸たりとも思わないのだった。