試練⑤
自然界において、己が力で獲得した餌を喰らうことに咎などあろうか。
それは勝者に与えられた権利であり、むしろその権利を放棄することはかつて生者であった彼らに対する侮辱とさえ言え、生命を賭けた攻防の全てが単なる殺戮であったと、それこそ咎められるべきなのだ。
カギロウは、異形の死体を前に躊躇っていた。
傷ついた体は本能的に血を求める。それなのに、彼は目の前の肉を喰おうとはしなかった。
異形を喰った者は、自身が異形となる。
村の、今では風化しつつある言い伝えである。
異形の前では餌であることを良しとするワク村の人間にとって、その肉を食うなど到底考えが及ばないにしても、言い伝えとして残っている以上、過去に異形さえ脅かすほどの勇敢な戦士が存在していたという背景があることは言うまでもない。
果たして彼らはどのようにしてその身を化け物と変えたのか。そもそも言い伝えの真偽は。
本能と理性の間で、カギロウは迷っていた。
しかしながら、生死の境に立たされた者が理性によって身を滅ぼすはずもない。
さらにはカギロウにとっては、これこそ試練であった。彼は村の掟に逆らい生を掴み、神に対する自身の信仰を示した。生きる事こそ感謝であると、カギロウは証明したのだ。
ならば異形の肉を喰うこともまた感謝、自らの信仰に従う行為である。
最後の理性がカギロウにそう告げ、ついに彼は、まだ温かい死体に顔を埋めた。
柔らかそうな腹が好ましいようだが、うつ伏せになった異形をひっくり返す気力などカギロウには残されていない。彼はその背中に勢いよく歯をたてるが、やはりすこぶる硬かった。
カギロウは一度大きく齧りつき、首に力を込めて獣の如き形相で皮を引きはがした。
すると瑞々しい肉が露わになり、小さく燃える焚火の灯りを受けて宝石のような輝きを揺らした。
思わず見蕩れてごくりと唾を飲み込んだのも束の間、カギロウは再び肉の中へ顔を突っ込み、齧りつく。
そして口いっぱいに含んだそれを、一気に、飲み込んだ。
カギロウは天を仰ぎ、「はぁ」と息を吐く。
「なんと新鮮で、なんと命に溢れ……」
彼が心の奮い立ちを言葉にしたその時である。
突然、地面が大きく揺れたのだ。
膝立ちさえ困難な揺さぶりに、カギロウは咄嗟に伏せた。
「地震……!?」
否、大地が揺れているのではない。
カギロウの脳が平衡感覚を失い、天地の道理を見失ったのである。
次に彼を襲ったのは握りつぶされるかのような激しい頭痛。
「あああぁぁぁ!」
腕を噛み砕かれても悲鳴を上げることはなかったカギロウが、思わず叫んだ。
これこそが言い伝えの正体であった。
異形の肉は猛毒。それもどんな薬物よりも暴力的に、喰らった者へ作用する。
激烈な中枢興奮作用がこれよりカギロウを導きゆくは、常人が持つ許容量を遥かに超える恍惚感、万能感、快楽。
非現実的な幸福感に、やがて精神は耐えきれず、自我は崩壊する。限界を超える衝撃に、命は尽きていく。
ヒトであることを許されず、ただ喜び狂う。理性を失ったその様はまさに異形と言えよう。
カギロウは今、霞み始めた自我の中で,過分泌されたエンドルフィンによる無尽蔵の悦楽に苦しんでいる。
アドレナリンは彼の脳から潜在能力のたがを外し、祈るように握られたカナサの首飾りを圧砕した。
生物としての死か、ヒトとしての死か。カギロウに差し出されたのは、いずれかの道であった。
それでも抗うカギロウの目には、数多の星が浮かぶ空が見えていた。
今宵の空とは別の、彼にしか見えない暗闇と星が反転した光の宙である。
やがて全ての光はゆっくりと回転を始め、加速していく。
爛々と輝く渦と化した空はカギロウを飲み込み、快感だけを伝える無重力の中を彼は無邪気に泳いだ。
『カギロウさん……』
誰かの呼ぶ声がした。カギロウは探すが、輝きの奔流はすぐさま彼を遠いどこかへ連れて行く。
ふと、あらゆる理をも置き去りにした白一色の世界に、一際眩しい光の点が現れる。
その点はじわりと広がり、ヒトの形を成していく。
「あはっ、アキワタ様ぁ」
カギロウの目に、神の姿はいかに映ったのだろうか。
閾値を振り切った脳が見せた幻覚を最後に、カギロウの意識は深い闇の淵へ落ちていった。
行きつく先は、彼にしか分からない。ただ言えるとすれば、禁忌に触れた者に戻るべき場所は存在しないということだ。
神の加護などというものがあるとすれば、あるいは。
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