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『ぎび もあ』  作者: トキタケイ
びえりお漂着編
4/46

異形の肉

「降って来た」

 カギロウは天井を見上げた。雨粒が屋根を叩いている。

 彼にとっては空になった水がめを満たすための恵みの雨であるが、びえりおには関係のない話だ。

 むしろ腹立たしく思っているであろうことは、彼女の眉間にうっすら現れた皺を見れば分かる。


「そろそろ狩りに出ても良いんじゃないのか」

 苛立ちを隠すことなく、まるで逆さ言葉を話すびえりおに対してカギロウは短く答える。

「無理だ」

「無理ということはないだろう。私との約束はどうなる。はやく肉を獲ってこい」

「雨の中、俺に狩りをしろと言うのか? それに約束なんてしてないぞ。今日は我慢しろ」

「ならばあれを食わせろ」

 体を起き上がらせたびえりおの、瞳の蒼がカギロウを射抜く。


 カギロウは一瞬なにごとかと目を泳がせたが、すぐに理解し、叱るように彼女を見た。

「口をつけたのか、あれに……!」

 彼は飛ぶように家の奥へ向かい、灯りの届かない暗闇の中でなにやら始めたかと思えば、床下から小さな壺を取り出して中を確認した。

 そして安心したようにふうと息を吐き、それを元の場所へ戻した。


「お前は私に、この家には肉など無いと言ったな」

「……」

「私にはそれが何かの干し肉のように見えた」

 家の隅で、まるで亡霊のように佇む背中に向け、びえりおは無感情に問いただした。

 暗闇の中でカギロウは動かず、何を考えているかを読み取ることも出来ない。


 彼はやがてゆっくりと立ち上がり、再びびえりおの横へ腰を下ろした。

「良かった。本当に」

 カギロウは言うと、また深く息をした。

「お前が、よくあれを食わずに我慢できたものだ」

「……あまりに大事そうにしていたものでな。あれは何だ?」

「決して口にしてはいけないものだ」

「答えになっていない」

 びえりおは流石に腹を立てるよりも、もはやカギロウの態度には飽き飽きしていた。

 彼女の瞳には怒りではなく、懇願するような諦めの色が宿り始めていた。


 カギロウとしても頑として口を結んでいたが、そのように見つめられたこともあってか、さらにはびえりおの身の安全を優先したのだろう、観念したように口を開く。

「異形だ。あれは、異形の肉なのだ」

「異形?」

「昨夜、海に現れた、と言っても憶えていないだろうが」

「いや、覚えている。うっすらとではあるが意識はあったのだ。そうか、やはり夢では無かったのだな。お前は自分より強大な敵と戦い、そして斬り伏せてみせた。この国のヒトは強いと、純粋にそう思った」

 偽らざるびえりおの称賛に、カギロウは悲し気に目を細めた。

 異形を殺したことは、彼にとっては誇るべきことではないからだ。

 カギロウの心を、びえりおは知らない。


「異形に会ったなら、それを定めとし命を捧げよ。村の掟だ。つまり奴らと出くわした時は、ヒトである俺達には抗う術など無い。捕食されるのみだ」

「しかしお前は戦ったではないか」

 びえりおの問いは常に屈託なくカギロウに投げかけられた。


 カギロウにとっては甘い誘惑のようであり、彼女になら自身に燻る憂いを暴露しても良いのではないかという気にさせ、それが彼をより悩ませるのだ。

 現にカギロウの粗い氷のような意思は僅かに丸みを帯び始め、溶け出した水は涙となって彼の目から溢れようとしていた。

 彼はまだ未熟なのだ。


「俺にはそれが出来るからだ。掟と言えど、アキワタ様から授かった命を獣にくれてやることなど間違っている。異形に屈するなど……」

「アキワタとは、お前の信じる神のことか。何故誰もお前のように戦わない? 何故神への信仰よりも、村の決まり事を守るのだ」

「言っただろ、俺には出来ると。他の者には出来ない。誰もが異形を前にしては、抵抗すらままならない。奴らは凶暴で、好戦的であり、そして何よりも強いのだ」

「どうしてお前にはそれが出来る」

「……言いたくない」

「またか」

 子供のようにへそを曲げて俯くカギロウのもとへ、びえりおは僅かに寄り、その手に触れた。

 不意に伝わる温もりに、カギロウは咄嗟に手を引っ込め、目を丸くしてびえりおを見た。


「どういうつもりだ」

 久しく忘れていた優しい温度。カギロウは罪悪感さえ覚えているようであった。

 薄暗闇でも、彼の顔が染まっていくのが分かった。


「なぜ、異形の肉を大事にとっておくのだ。なぜそれを食わない」

 淡々と言葉を発するその唇に、カギロウの視線は結ばれた。それが図らずも彼女の身体へと降りた時、取り繕うかのように彼は声を出した。

「い、異形の肉はこの世のどんな毒よりも凶悪だ。食えば内から体を浸食し、地獄のような苦しみを与える。そして気が狂った頃には、死に至るかその者を異形へと変えてしまうのだ」

「なるほど、異形へと変えるか」

「お前があれを口にしてしまったのかと。だから俺は慌てたのだ」


「では、もし肉を食ってヒトであり続けることが出来たなら、そいつを何と呼ぶ」

「なんだと……?」

「お前の話がただの迷信でなければ、肉を食って平気であった者は、異形をその身に取り込んだことになる。だがそれにより生まれるのはヒトではないのだろう。かといって異形でもない」


 びえりおの瞳に縛られたカギロウは、海に溺れたように息をすることが出来なかった。

 それなのに、さらに意識はびえりおの中に吸い込まれていき、彼は妙な浮遊感の中で溺れ続けた。


「ヒトならざる強さを得た異端、果たしてそいつは群れの中で生きることを許されるかな、カギロウ?」

「……許されない、筈がない。ヒトという種を脅かす異形を越えたそれは、崇められこそすれ糾弾されるなど……いや違う、俺はそんなこと考えてなど……!」

「ようやく本音を明かしてくれたな。嬉しいぞ。それがお前の心か」

「違うっ」

 顔を伏せ、拳を固く握るカギロウを、びえりおはなおも見つめた。

 彼もその冷ややかな視線を頭頂部へと確かに感じ、凍えたように震えるのだった。


 びえりおは暫くそうした後、カギロウの耳元へ口を寄せ、こう言った。

「カギロウ、お前は異形を食ったのだな?」

 瞬間、カギロウの震えが止まった。

 かと思えば、次にはその体が先ほどよりも大きく振れ、地鳴りに似た笑い声を漏らす。

 びえりおは僅かに眉をひそめた。


「ふ、ふふ。びえりお、お前こそどうなのだ。声も出せぬほど衰弱した者が、芋と虫を食っただけでそこまで回復するものなのか? 丈夫に出来ている、というだけでは説明が付くまい」

「カギロウ、今はお前の話をしている」

「おかしいと思ったのだ」

 びえりおの動揺を感じ取ったか、カギロウはこれとばかりに頭を傾けて彼女を覗き、目だけで邪に笑って見せた。


「お前と一緒に倒れていた男は、それは無残に殺されていたのに、お前には傷一つ無かった。異形がお前を食わなかったのは、お前こそが異端である証拠だ……!」

 カギロウが放ったのはとんでもない出鱈目であるように思われた。

 事実、それは疑いようもない暴論であることは確かだ。


 笑い飛ばし、それで済ませてしまえばいい話なのだが、どういう訳かびえりおはカギロウを睨みつけ、ぎりぎりと歯を噛み締め激昂した。

 そして彼の首根っこを持ち顔を上げさせ、胸倉を掴み立ち上がると、それを引き寄せて息がかかるほどの距離まで顔を近づけた。

 カギロウは寸分浮き、苦しさに表情を歪める。


「今の言葉を取り消せ」

「お前、やはり……」

 振り絞られた声に、びえりおは咄嗟に険を解き、カギロウを床に下ろした。

 膝から崩れて咳き込むカギロウへ再び顔を寄せた彼女は、今度は優しく、赤ん坊をあやすように言葉をかける。

「冗談だよカギロウ。お前があまりにも頑なだったから、少しからってみたくなったのだ。すまなかったな」

「……冗談、だと? 笑えない、ぞ」

「私が楽しかったらそれで良い。それに、思ったより体の調子も戻ってきたようだ。やはりお前の言うように、私はもとから丈夫に出来ているのだ。女にしては力も強いしな」

 そのような言い訳で、彼女の行動が片付けられるはずが無かった。

 カギロウは自身の身体を持ち上げられ、あの美しかった青色を間近で見た時、そこに荒れ狂う海を感じたのだ。

 それは神の怒りに似ていたが、彼の信じる神ではない。

 もっと無慈悲で、理不尽な神の怒り。


 異形に打ち勝つほどの力と精神を持つカギロウでさえ恐怖し、あのまま首を絞め落とされるか、もしくは剝き出された歯で噛みつかれ、彼女が望んでやまない『肉』とされてしまうのではないかと覚悟した程だ。

 大人の女が、ああも怒りを露わにすることなどカギロウにとっては想像の埒外であったから、彼がそのように空想し、怯えるのも仕方が無いように思えた。


 しかしカギロウは笑わなくてはいけなかった。

 何が起きたのかは分からなくても、恐らく命拾いをしたと考えるまでに安堵し、そして全てが冗談であったという戯言に甘えなくてはいけないほど、彼は戸惑っていた。


 従ってカギロウはびえりおに笑い掛け、己を偽った。

「そこまで元気であれば、明日にでも出て行ってもらおうか」

「まだ頭がふらついている。暫くはここに居させてもらうぞ」

 何事も無かったかのようにびえりおも笑って言うが、それはまさしく悪い冗談のようであった。


「俺が助けたのだ、お前の面倒は最低限みてやる。だが俺が出て行けと言ったら、そうしてもらう」

 精一杯に強がり、いくらかは気がまぎれたようで、カギロウの身体は既に震えてはいなかった。

 人と人は助け合っている。与える者に、奪おうという考えを持つ者などいないと、彼はそう信じてきた。

 人ならば、些細なもめごともあろう。

 そうやってカギロウはまた偽った。


「悪かった。お前は異端なんかじゃない」

「全て冗談だと言ったではないか。お前の方こそ、そんなに気にするな」

 微かな淀みを残したまま二人は和解し、その日は床へ就いた。

 カギロウは家の隅で、びえりおは囲炉裏の傍で眠った。




「それにしても、女に触れられただけで顔を赤らめるとは、やはりお前も子供であったな」

「……二度とするな」

 そのような会話に、カギロウの意識は向いていない。


 夜になり考える事はいつも同じだった。

 床下にしまわれた異形の肉。

 それこそが事の全てを冗談とするにはいかない理由でもある。

 この家には異形の肉があるという事実をどうして戯れと済ますことが出来ようか。


 カギロウは思い出す。

 5年前、彼が村一番の戦士となる筈だったあの日。

 誰よりも神を信仰していたカギロウに、あまりにも困難な試練が与えられた。

 そしてそれは、今でも続いているのだ。

読んで頂きありがとうございます。

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