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『ぎび もあ』  作者: トキタケイ
びえりお漂着編
2/46

名前

 昇り始めた太陽は色こそ優しいが煌々と輝き、ちょうど木々の合間を縫って家の窓から女の顔を照らした。

「ん……」

 微かに聞こえた声に、青年も目を覚ます。

 身体を起こし、女を見た。


「ぁ……ぁ……」

「流石に弱っているか。少し待て、湯を冷まして持ってくる」

 声を出せぬ女を、それが水分が不足しているためだと判断した青年は急いで囲炉裏の火をおこし、水がめから器で水を汲んでそれを囲炉裏へ置いた。

 そうして女の元へ寄り、すぐ隣へ腰を下ろした。

「お前を生かして下さったアキワタ様に感謝するんだな」

 女は青年を見つめた。

 開閉するだけの口からは、彼女が言葉の意味を理解したかは判断がつかない。


 しかし、青年はそんなことは気にならないほど、女の瞳の、澄んだ海に似た蒼に見入っていた。

 青年が祈りを捧げてきた神の坐す楽園が、あたかもそこに存在していた。

 いや、この瞳にこそ、深く果ての無い慈悲などではなく、もしや神そのものが宿っているのではないのか。

 青年はそのように錯覚し、己を恥じた。

 一人の女の美しさに信仰心が揺らぐなど、あってはならない事である。


「声が出ぬか」

「ぁ……。……ぅ」

「なんだ?」

 女が何かを必死に訴えかけるので、青年は耳を済ました。

「ぃ……に……く。……に、く……」

「……にく? まさかな。肉が食いたいのか?」

 青年の問いに、女は僅かに頷いた。


 それは驚くべきことであった。

 青年は、異国の女とこうも容易に意思疎通が出来るとは想定していなかったからだ。

 昨夜、女を背負ってこの家を目指しながら、青年は彼女の容態も当然であるが、そのことばかりを気にしていた程である。


「この辺りで暮らしていたのか? 何にせよ言葉が通じるのは有難い。しかし待て、まずは水を飲んだほうが良い」

「ぁ……」

「それにこの家には肉なんて無い。今のお前に肉を食う体力があるとは思えないが、水を飲ませたら外へ何か獲りに行くとしよう」

 そこで器から湯気が上がるのを見た青年は、それを素早く囲炉裏から取り上げ、自らの前に置いた。


 しばらく手で煽いで熱を冷ました後、女の口元へ持っていく。

「口に含み、ゆっくりと飲みこめ。薬草を煎じてあるから少し苦いが、体を癒すに違いない」

 青年は器を傾け、女の口へ少しずつ湯冷ましを注いだ。


 女は顔をしかめつつも、含んだそれを喉を鳴らしてごくりと飲み込む。

「もう少し飲むか?」

「……ぃ」

 女は先ほどよりも大きく首を動かし、断りの意を示した。

 器を彼女の頭の横へ置き、青年は立ち上がる。

「飲めるようなら自分で飲め。俺は何か狩ってくる」

 青年は家の奥からカゴを取り、壁に立てかけてあった刀を差して家の外へ向かう。


 だが何かを思い出した様子で足を止めると、女の方を振り返った。

「時に、名はなんといったか。どう呼べばいいか分からんというのも、なかなか不便だ」

 投げかけられた問いに、女はしばらく青年を見るばかりであった。

 青年も彼女が何かを答えるまで、その途方もなく美しい碧眼を眺めているほかなかった。

 しばし沈黙が流れる。


「……いや、体力が戻ったらで構わない。無理を言った」

 耐えきれず、青年は女に背を向けた。

 そして今度こそ狩りへ出掛けようと踏み出す。

 しかしその時、

「ィ……ァぅ」

 聞こえてきた女の声に、青年は再び足を止め、そのほうを見た。

「Be……li……」

 やけに舌を使った発音。

 異国の言葉だと、青年は察する。

「びぇ、り……」

 耳をそばだて、彼が可能な限りの復唱をすると女はまた一音、紡いだ。

「……」

「……『お』? びぇりお。お前はびえりおというのか?」

 問い掛けに女の瞳が揺れ、そして何かを伝えようとしたが、疲れが溜まったのか、彼女は諦めたように目を閉じた。


 否定の意を感じなかったことから青年はそれをおよそ肯定と認めたのだろう。

 緩やかに呼吸を繰り返すびえりおを見て、微笑んだようであった。

「俺はカギロウという。恐らく長い付き合いにはならないだろうが、ちゃんと声を出せるようになったらそう呼んでくれ」

 カギロウは不器用にそう言って、ようやく狩りへ出た。




 カギロウの家は森の中に、まるで何かの間違いのようにポツンとあった。

 彼は家からあまり離れていない場所で食料となる物を探している。


 狩りへ出るとは言ったが、カギロウは未だ野ネズミの影すら見つけることが出来ずにいた。

 森にすむ動物の多くが、その鋭い嗅覚と聴覚、もしくは別の特別な感覚でもってカギロウの接近を察知し、彼の前に姿を現すことすらしないのだ。

 従ってカギロウは狩りを得意としなかった。


 ならば罠はどうかと、過去に工夫を凝らした装置を作ってはみたものの、不器用が丹精込めた罠にかかってくれるような親切心を持つ者などはいなかった。

それでも夜では幾分ましであり、闇の中でカギロウは他の動物のように嗅ぎ、聞き、精神を尖らせることが出来た。

 自身がそのような才能に恵まれたことについて、カギロウはやはり神に深く感謝した。


 しかしそう遠くへ行くへことも出来ず、最近では肉といえば海で魚を獲って食べることをしていたが、それにはちゃんとした理由がある。

 カギロウは、その理由を誰にも話したがらなかった。

『カギロウは村へ入ってはならない』。

『カギロウを村へ入れてはならない』。

『カギロウは村人と、村人はカギロウと会ってはならない』。

 かつて彼が言い渡された罰。

 カギロウは余りにも孤独を強いられる報いを受け入れ、5年間を村から離れたこの森の中で寡黙に生きて来た。

 従って、人間と出くわすかもしれない昼間は海へ行くことも出来ず、こうして家の近辺を探索しているのだ。


「困った」

 そんな彼が心の声を漏らした。

 いくらびえりおが欲していても、衰弱した彼女に肉を与えることは適切ではないとカギロウも理解していた。

 穀物などが最も良いだろうが、とりあえず野草や昆虫を採取してある。


 しかし彼は肉を探し続けた。

 それは異国から来たと思われるびえりおに、自らの孤独を重ねたためか。それともまだ未熟なカギロウには、びえりおはあまりに美しく魅惑的であったのかもしれない。

 いずれにせよ、彼はびえりおの期待に応えるべく森を歩いている。


「俺が助けた命。俺に責任がある。それは誰を助けようと変わらない……」

 どこか繕うような独り言の中に、青年の本心が隠れていた。

 彼はしばし、狩りを続ける。




 カギロウは家へ戻り、まずは特に収穫が無かったことをびえりおへ詫びることにした。

「戻るのが遅れた。申し訳ない。あと肉なんだが……」

 だが彼が見たのは、倒れた水がめの横で蹲る彼女の姿であった。


 カギロウはすぐにびえりおの元へ駆け寄り、彼女の肩を抱きあげる。

「無事か。一人で水を汲もうとしたのか?」

「……構うな。問題ない……」

 彼はびえりおが実に流暢に喋ったことに驚き、次に立ちのぼる女の香りに気付いて思わず息を止めた。

 動揺したカギロウによりやや乱暴に下ろされたびえりおだったが、彼女は文句を言わずそこからもとの寝床へ這って戻って行く。


「待て、服が水浸しだ。俺のを貸すから、動けるのなら着替えろ」

「後で良い……」

 びえりおは囲炉裏の傍まで辿り着くと、力尽きるように伏した。

 どうしたものかと戸惑うカギロウは取敢えず倒れた水がめを置き直すが、そこでまたあることに気が付き壁を見渡した。どうやら狩りに出る前と家の様子が変わっている。

「……だいぶ回復したようだな。これだけ動けるのだから」

「……」

「芋を干したものを吊るしておいたのだが、それが一つもない。驚いたな、全て食ってしまったのか」

「……美味かったぞ」

 伏したまま答えるびえりおにカギロウは腹を立てなかったが、そのかわり肉が獲れなかったことを詫びるのをやめた。

 カギロウは彼女が再び腹を空かせた時のため、取って来た野草と甲虫の幼虫を鍋に移し、飯の準備を始める。




 びえりおは一度眠りに就き、陽が沈んだ頃にまた目を覚ました。

「腹が減った」

 開口一番、空腹を訴える。


 カギロウはそろそろ頃合いかと温めておいた鍋を囲炉裏から取り、それを彼女の傍へ置いた。

「食え。肉ではないが、栄養のある虫と葉を煮ておいた」

「俺は虫は食わん。虫を食う意味が分からん」

「そうか。ならばせめて葉だけは食べて汁を飲め。あとお前は女なのだから『俺』ってのは少し間違っているぞ。恐らく聞いた言葉を真似たのだろうが、普通は『私』とか言うもんだ」

「普通?」

「みんなそうするということだ」

「知っている、そんなこと」

 びえりおはゆっくりと身体を起こし、棘のある言葉で返した。


 他人から何かを教わるという行為に慣れていないのだろう。カギロウはそのように理解し、特に何も言い返さなかった。


 それにしても、彼女が持つこの国の知識には偏りがあることは確かだった。

 基本的な会話が出来るというのに、自身の呼び方すらままならないのだから。

「言葉など、私の勝手にさせてもらうぞ」

 そしてあまり素直でない。

 どこか高貴さを感じる佇まいで、楚々と汁を飲むびえりおを見てカギロウはそうも理解した。


読んで頂きありがとうございます。

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