起こり
その夜、確かに時は流れていた。
しかし風は静穏、影と映る木々は揺れることはなく、凪いだ海もそこに浮かぶ月を淡く歪めるのみである。
さながら世界はその役割を放棄し、万物の流れは停滞しているように思えた。
無論、それは今を言い表すにはあまりに限定的で、人間的な傲慢を含んでいる表現であることは言うまでもない。
例えばこの時も砂浜の背後に広がる森の中では、哺乳類に限らず鳥類、爬虫類それに昆虫類とそれらを迎えるために今宵こそはと花開かせる植物など、様々な生命が活動している。
彼らは皆、夜を住みかとしていた。
世界はこの時も、自然の理を放棄することなく働き続けている。そこにヒトがいないだけなのだ。
しかしながらこの浜辺に、ヒトでありながら闇の中を生きる者がある。
恐らくは成人に満たない年頃であったが、粗末な服を着たその青年は、小柄であるが体つきは逞しく、月明かりを受けて輝く瞳を波打ち際へと向けてそろりそろりと歩いている。
何かを見つければ手に持った小刀の、その幅広の刃でつついてみては、また歩き出す。
ふと、力強く確かな足取りが止まり、次にしゃがみ込んだ彼は砂の上から何かを拾った。
それは長さが1メートルほどの木材。
渦巻のように彫り込まれた装飾は、波を模したものだろう。船の一部であったか。
青年は腰に巻いた帯に小刀を差し、その木材に向け祈りを捧げた。
「アキワタノカミよ」
彼は己の信じる神の名を呼び、そうして暫く目を閉じたまま、ささやかな贈り物に感謝を表し続ける。
海の彼方に届くよう、青年は深く祈った。
とその時、彼の瞼が弾かれたように勢いよく開いた。
ばっと立ち上がり、鼻を利かせる。
「血……」
僅かな空気の流れに乗り漂い来るのは、湿り気のある濃厚な血液の香りだった。
それもそう離れてはいないと、青年は木材を放り投げ、その匂いのする元へ走り出した。
その予想した通りに、すぐさま彼の目があるものを捉えた。
渚に、男女が並んで横たわっている。
波は優しく揺り起こすように二人を何度も撫でていたが、どちらも目を覚ます気配すらない。
男に関しては、その訳についてとかく説明する必要も無いようであった。
仰向けになった頭は下顎から上を失っており、既に命がない事は明らかであるからだ。
瑞々しく荒々しい断面は打ち砕かれた果実を連想させ、非現実的なグロテスクに青年は眉をひそめた。
匂いの元は、これであったことに間違いない。青年はこれを、この辺りにたびたび現れる肉食性の獣がやったのだと見た。
しかし、女には傷の一つも見当たらなかった。
あまりに対称的な二人を不思議に思い、また、女がまだ生きているかもしれないと考えた青年は膝を付いて、夜の暗闇でも確認できるほどまでその身体に顔を近づけた。
こちらも同様に仰向けで倒れている女は、シンプルなデザインの真っ白なドレスを着ている。
胸元のレースと刺繍により控えめな飾りが施された服は青年にとって初めて見る物であり、彼の脳はこの女が異国の者であるという推測を導き出す。
さらに長い黒髪は薄明かりに照らされてやや赤く艶めき、しなやかに伸びた手足は幼子を思わせる程に無垢である。されど確かな骨格を有する体躯は成人女性の肉感的なそれであり、青年は女の豊かに隆起した胸元から思わず目を逸らした。
また目は閉じられているが、全ての部位がはっきりと主張しているのにも関わらずまるで設計されたかのように配置された顔面は、彼に思いがけず感嘆の念を抱かせるほど極めて整っていた。
美しい。つまりはその言葉に尽きた。
だが青年の耳が微かな音を聞き取った瞬間、彼の頭を満たしていた甘い思考はたちまち霧散する。
青年は己の耳を、女の口元へ寄せた。
微弱だが、息をしている。
青年がすぐさま女の顎を軽く持ち上げ気道の確保を図ると、女は先ほどよりも幾分かスムーズに息をし始めた。水を飲んでいる様子はない。
ひとまずは安心した青年であったが、そのとき彼の敏感な鼻は新たな匂いを嗅ぎ取り、表情に緊張感を浮かばせた。
むせ返るような獣臭さが、やがて辺りを包む。
それは視覚による確認を行うまでもなく、青年へと居場所を告げる。
彼はすかさず立ち上がり、臭いの方角を振り返った。とうに女のことなど頭の中には無い。
「異形……」
青年の声は震え、乾いていた。額にはじんわりと汗をかき、荒い呼吸で視線の先にそれを捉えた。
直立した姿は体長およそ2メートル、体毛はほぼ生えていない。凹凸のある体表は、月の下では黒曜石のような光沢を放ち、夜においてはヘドロを被った大男とでも呼ぶべき醜悪な様相をより引き立てていた。
耳はヒトとよく似た形をしているが、暗闇に鈍く紅く光る瞳が、それがヒトならざるものであることを示している。
また、特徴的であるのは長い尻尾であり、鋭く尖った先端はあたかもその攻撃性を体現していた。
異形とはまさに名の通りであるが、恐ろしさは別のところにもある。
あくまで言い伝えの域を出ないが、彼等は、喰らった得物から知恵を得ると言われている。
しかし不確かなものにこそヒトは恐怖を抱くのだ。
つまり自らの命が奪われる恐怖と、確立された知的生命としての地位を侵略される恐怖、人々は二つの恐怖に襲われ絶望のみを強いられる。
そうであっても青年が浮かばせるは、未知に対する畏怖ではないようであった。
既知の恐怖の再来。青年は過去にも異形と遭遇したことがある。
それを証明するように、腰に差していた刃物を青年は固く握りしめ、肩の位置に構えて戦闘の用意を済ませていた。
異形は災い、出会ったなら天運とし、その命を捧げよ。
青年が暮らしていた村の、これもまた言い伝えであった。
ヒトは異形に打ち勝つ力を持たず、被食者であるほかないという『諦めの掟』である。
従ってこの状況は死と同義であるのだが、小刀を構える青年の姿勢はこの掟を真っ向から拒絶していた。
「あの男、お前が喰ったのか」
己を奮い起こすように、青年はいった。
しかし逃走も、襲撃もするでもなく、相手から目だけは離さずただそこに立っている。
敵の出方を窺っているのか。
もしくは仕掛けることが出来ない。
いかに既知といえど、捕食者としてヒトの上に立つ脅威であることには変わりない。
極めて低い青年の士気を感じたか、異形は鋭い牙を剥き出しにして威嚇、まるで笑うように唸り声を上げた。
もはや逃走という道は寸分も残されていない。
青年が理解し、覚悟する間もなくついにその時は訪れた。
異形はその屈強な脚で地を蹴り、一瞬で青年との距離を詰めた。それと同時に振り下ろされた腕の、鋭利な爪が襲う。
砂に足を取られたか、やや勢いを殺された突撃はそれでも疾く、咄嗟にのけ反った青年の胸を掠めた。
体勢を崩しながらも、青年は小刀を振り上げ相手の首を落としにかかるが、狙いは大きく外れて堅牢な牙に弾かれる。青年の全身から冷たい汗が噴き出す。
予感するまでもなく大きく開かれた身体へ、異形が持つ第三の腕である尻尾が突いた。
「ぐっ……」
青年は飛びのき一先ず距離を取った後、再び構えた。
異形は尻尾の先端を前方に向け、依然として攻撃の意思を緩めない。
そこで青年はふと考えた。
異形はなぜ初めから尻尾を使わなかったのかと。ヒトが持ち得ぬ武器、間合いの広い尻尾にこそ利があるのではないか。恐らく、これは一対一の対等な戦闘に慣れていない。もしくは『戦闘』というものを知らない。
そして青年の推測は正しいようであった。
わざとらしい程に尻尾の先端を見せつける異形。それは、先の応酬で学習したが故の、小手先の戦法に過ぎない。
証拠として、なおも牙をむく凶悪なその形相を裏切り、今度はなかなか襲い掛かる様子がない。
恐怖は、今となっては青年だけの物ではない。僅かな遣り取りにより、異形は多くのことを知ってしまったのだ。
対して青年は、徐々に冷静な思考を取り戻していた。
ならば仕掛けたのは青年。顔の前に刃をかざし、相手へ向かう。
迎え撃つ異形は、月光に煌めく尻尾で鋭い突きを放つが、その光が攻撃の軌跡を読み易くする。
青年は尻尾を払いのけながら過ぎ去り、すぐさま振り向いた。敵の斜め後方から薙ぐ。
それに対抗するはまたしても尻尾による突き。青年にとっては予想外であったが、これにより全ての仮定が確信めいたものへと大きく傾いた。
払われた尻尾での迎撃は考え得る限りの悪手。
それよりもまず、異形は背後から迫る青年の攻撃を捉えてはいなかった。
刃は異形の耳の下から深々と切り込まれ、向こうの皮一枚を残して滑らかに振り抜かれた。
ほぼ切り分けられた首は残った皮膚を支点として前方へ折れ、露わになった美しい切断面から怒涛の如く血が噴き出す。
やがて漆黒の獣は断末魔を上げる事さえ許されぬままこと切れ、冷たい砂の上に倒れた。
それを確認した青年の、身体の奥からは疲労と安堵感が沸き立つ。
彼は耐えきれず膝から崩れ落ちた。
そして胸をやかましく叩く心臓を深く息をして静め、受けた傷を確認した。
異形の尻尾は青年の腹を突きはしたものの、その屈強な筋肉を貫く事はなかった。
胸の裂傷も、出血はあるが浅い。
「……大事無し」
と、そこで青年は女達のことを思い出し、彼女らの元へ駆け寄った。
女は絶えず円滑に呼吸を繰り返している。ただ、意識があるかは定かでない。
青年は今一度大きく息をして、まずは男の死体を引き摺って森の入り口から少し奥の木の下へ埋めた。
疲労も頂点に達しようかというところだったが、急いで女のいる場所へ戻る。
「俺が助けた命、俺に責任がある」
わざわざそう言って、女を背負う。
伝わる肉の柔らかさが、頑なな青年の心を惑わせた。
「異国の女は、少し重い」
彼なりの硬派を貫いたが故の弁解であったか。
森の奥へ、女と共に消えて行く。
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