たばこ百合・ビフォー
ざあざあと雨の降る八月の蒸し暑い日だった。
所用で街に出なければならないことを恨みながら、大通りの商店街にひっそりとある地下への階段を歩いて、水没していないことを確認して、私はそのシガーバーに訪れた。
「おっ、溺れてなかったか」
「もっとマシな冗談を言いな」
キセルで煙草を吸ってるマスターの婆は剣呑な目つきで私を睨みながら厳しい言葉をぴしゃりとかけた。
婆は煙草だけが趣味とかで付き合ってた爺さんにも先立たれて趣味でこんな仕事をしているらしいが、煙草を作る腕前だけは一級品だ。死なれたら困るが、毎日こうもスパスパ煙草吸ってるようじゃ先は長くないだろうな。
雨のせいか店内はいつも通り閑散としているが、ただ一人客に煙草をくゆらせている着物の品の良い女性がいた。
婆も着物だから一瞬そういう店かと思ってしまったがここにドレスコードはない。ただ煙草好きが集まるだけ。
少し煙の臭いを嗅ぐと、その甘ったるさに頬がヒクつく。
「おいおいオタク、一体それはなんだ? チョコレートシガレット?」
「……なんですか、あなた」
「香田宗耶、どうぞよろしく」
「男の方みたいな名前ですね」
「よく言われるよ」
話しながら目に座ると、淑やかさのある姿勢に真っすぐ見つめてくる目、艶やかな流れるような黒い髪に白い首筋、実に育ちも良さそうなお嬢さんで、今までここで見たことのない異質な存在だった。
まるで、今日ここに他に人がいないのは彼女がいるからだ、そう言われれば信じてしまうような。
「あんたは?」
「龍鳳琴華と申します。……まあ、お見知りおきを」
歯切れが悪いのは、一期一会ゆえ、今後会わないと彼女も予感しているからだろうか。
今日こうして出会えたこと自体が奇跡のような、なんて言っても特別喜びもしない。彼女は不意打ちの不運だと言わんばかりの顔だし。
「琴華はよくここに来るの?」
「馴れ馴れしいですね」
「いーじゃん。私も宗耶で良いよ。で……」
「いえ、初めてですので。お店も、あなたも」
妙につんけんした態度で嫌われてしまったみたいだ。
「じゃその甘ったるい煙草は婆が作ってたのかよ。そんなん持ってたのか婆」
「どうしても吸いたいってんでね。そんなもん、煙草じゃないがね。」
と婆はいつものように自分の吸う煙草以外をけなす。婆の理論によればヤニの地獄みたいなのじゃないと煙草じゃないらしい。一度試しに吸わせてもらったがあれは味も臭いもクソもない、ただの毒だった。とんだニコ中の癖に今年で八十だったか。
だが、この女が吸ってるのも逆にそういうのは最小限、スーパーに売ってるような香草とか茶葉なんかをブレンドしたものじゃないだろうか。確かに煙草っぽくない、癖はかなり強いと思うけど。
「へぇ。琴華ちゃんなんでそんな煙草吸いたかったの?」
「何でも良いでしょう、あなたには関係ありません」
「関係ないなら教えてくれたっていいじゃん。気になるし知りたい」
というか、わざわざ雨の中ここまで来て、ただ注文した煙草を買って帰るだけというのは味気ない。
ウイスキーと注文していた煙草に金を払って、改めて琴華ちゃんの前に座り直す。すると彼女の目は私の持った酒瓶に向けられた。
「なに、琴華ちゃんも飲む?」
「だっ、誰が! それより琴華ちゃんと呼ぶのはやめなさい!」
年下扱いはされたくないみたいだ。実際年齢はそんなに離れてないみたいだけど、彼女は人馴れしてないし、煙草も初めてらしい。よくこんなところ選んだな、って思うけど。
「ま、いいじゃん一杯くらい」
「……一杯だけですよ?」
意外とちょろい娘みたいだから、酒が回ったら話もしてくれるだろう。
最初の一杯、おずおずと恐ろし気に見てから……一気にぐいっと!
「ちょ、ゆっくり飲みなって」
げほげほとむせながら酒を置いて、彼女は涙目で私を睨む。
どうやらお酒も初めてみたいだ。むせ終わったら何を言われるのか、一人おどおどしてたけどむせてる間に大人しくなった。
「初めてのお酒だった? そういうのはもっと信頼できる人と一緒にさ」
「いません! 私にそんな人は!」
やっぱり怒ってた。しかも寂しいこと言ってる。赤い顔は照れか、酔いか、怒りかな。
「そんなことないって。お父さんとかお母さんとか」
「お父様もお母様も分からず屋です!!」
お父様、お母様ねぇ。素の発言なら、私の想像以上に良い家に住んでいるのかもしれない。彼女はちびちびとウイスキーを舐めながら恨めしそうに私を見ている。
いや、私が恨めしいのではなく、不満が爆発しているのだろう。
彼女は意外なほどあっさり、その事情を話し始めた。
想像の九割増しで良い家柄の彼女は、来る日も来る日も習い事、お付きの人が家の外でも中でもついてきて自由がない。
そんなわけで大学の進路について親と喧嘩して逃げてきてしまったらしい。
未成年だった。
「お酒、飲んじゃダメじゃん」
「もう良いんです! もっと下さい!」
流石に未成年と知った以上それはできない。煙草も取り上げようと思ったけど、婆さんの呆れ切った表情を見ると、これは本当に煙草ですらないらしい。まあ、そのくせ飲酒を強引に止めないのも婆らしい。
「琴華ちゃん、そう自分を傷つけるもんじゃないよ。まだ未来があるんだから」
「未来なんて……龍鳳に生まれた以上私なんて……どうせ……」
ううう、と泣き言が始まった。ころころと変わる表情は見ていて楽しいけれど、そもそもこの場にいること自体が間違いなのだから、あまり楽しんでいる余裕もない。
「とりあえず出よう。ファミレスで何か食べる?」
「ふぁみれす、ですか? 良いですね! 行ってみたいと思っていました!」
誰にでもどこにでもついていきそうな雰囲気に危うさを感じながら、私は言葉通り移動を始めた。
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一体どういう状況で逃げだせば着物姿でこんなところまで来るのだろう。歩く彼女は百合の花、カラコロと耳障りの良い下駄の音が雨音に負けずに響く。
「うふふ、私ふぁみれすって初めてなんです」
「だと思った。凄いテンション上がってたし」
というか、本当に表情がコロコロ変わる。笑ったり怒ったり泣いたり、だいぶ酒には弱いみたいだ。今はとても楽しそう。
それほど歩かずにファミレスにつくと、メニューも店内も興味深そうに覗き込む彼女の幼い表情は実に見ていて飽きなかった。ここまで時間をかけるつもりもなかったけど、結構いい暇潰しにはなりそうだ。
「あ、あの、宗耶さん、私注文が決められません!」
「あー、食べたいもの好きなだけ頼んでいいよ。お金はあるし」
「お金なら私もあります! ほら、ほら」
彼女が取り出した皮財布は、本当にぎっしりとお札が詰まっていた。
「うわ、見せなくていい、いいから」
想像以上にヤバいかもしれないけど、ここまで見てしまった以上放っておくわけにもいかない。
にしても、すっかり仔犬のように懐いてくる。元々育ちが良いから人に失礼をすることはないんだろう。今は酔ってるし、色々教えてくれる私に対してちょっとした敬意みたいなのもあるみたいだ。
そしたら、猶更放っておくわけにはいかなくなる。なんて危なっかしい……。
「あ、お酒あるんですね! 私この『ぷれみゃあむもるつ』っていうの飲んで良いですか?」
「ダメに決まってんだろ未成年。大人しくドリアとかピザでも食べときなって」
「どりあ……ドリアンですか」
「メニューに描いてあるでしょ……。えっと、ラザニアとか、リゾットみたいな、感じの」
通じるかどうか分からないけれど、ドリアよりかは馴染みがありそうな気がする。まさか洋風の炊き込みご飯だよ、なんて言わなきゃダメでもあるまい。
けど琴華はもうそんなこと気にせず、メニューを見て「選べません……」とうっとり幸せそうに悩んでいる。
腹を満たしたら帰らせるべきだけど、家がこの辺りならタクシー代も渡せるけど。
「では私、この豆サラダとチーズピザとドリアとハンバーグアンドステーキとぺぺろんちーの、ふぉかっちゃ四ピース、あと飲み物とデザートは……」
タクシー代、渡せるかどうか怪しくなってきた。
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「うーーーーんん、もう食べられません……」
「琴華って相当馬鹿だよね! もう食べられませんって言ってからどれだけ食べた!?」
注文に次ぐ注文、アイスを最後に七連続で頼んだ時は店員さんの表情も少し引きつってた。私はそのたびに財布を見てたけど琴華がお金持ってるからまあいいかって諦めた。
ただ、今面倒臭いのは琴華が完全に睡眠モードに入ってるから私が担いで店を出たことだ。酔いが完全に回ってきたらしくて、足取りもおぼつかない。かといって店に置いておくこともこれ以上夜を過ごすのも喜ばしくない。
「で、家どこ? タクシー代くらいならなんとかなるかと思うから」
「家、なんて帰りません~! 私はもう、りゅーほーをやめるんです~!」
お金持ちの龍鳳の家、って言ってもタクシー運転手は分からないだろうなぁ。酔っ払いの相手がこんなに面倒臭いとは思わなかった。
「てか、うわ、雨まだ強いな……」
「あはっ! あはっ! 濡れませんか!?」
「濡れたくないよ、煙草も湿気るし」
きちんと包装されてはいるが、流石に濡れてしまったらどうしようもない。というか服が濡れるのだっていやだ。
「……マックとかないかな……いやしかし」
このお嬢様な人をそこらの店で一泊というのは流石に気が引ける。しかしこの辺りのホテルとは……。
このお嬢様にカプセルホテル二人はないし、一人当たりの値段だとやっぱラブホになるか。
「あそこ入るよ。いい?」
「……ええっ!? 御冗談でしょう!?」
「あそこ安いし」
「そ、そんなことで……で、ですが良いでしょう。龍鳳の長女として二言はありません」
その家にはもう帰らないんじゃなかったのか。いや名乗るだけなら勝手にしてくれていいけど。
毅然とした態度できちんと立ち、琴華が自分の脚で歩けることを確認したらやっとホテルの中に入れた。
女二人で、しかも琴華が酔ってるから訝しい目で見られたけれど、外が大雨だからなんとか察してくれたらしく無事チェックインできた。
着替えとかがないけど下着とかは最悪私が買いに行けばいいか……お嬢様ってなんか、高級品しか身に着けなさそうだけど大丈夫かな。
「とりあえずシャワー浴びてきなよ」
「は、はい……」
着物の着方も脱ぎ方も分からないからそこは任せて、とりあえずベッドで腰を落ち着ける。ふぅ。
もっと内装はケバいかと思ってたけど意外と普通にホテルっぽい。ベッドは一つしかないけど充分大きな二人サイズで女二人が寝るには申し分ない。
少し暑苦しいかもしれないから私は椅子で寝ようか、そんなことを考えていたら。
「あ、あの……」
彼女は全裸で出てきた。
「うわっ! あ、着替え、そうだないじゃん、どうしよ」
先にシャワーを浴びたら着替えがない。いやバスローブくらいあるかな。いやなんにせよ夏だし裸で寝るくらいはいいか……でもお嬢様だし……うーんどうしよう。
そんな風にもう一度頭を悩ませていると、彼女は胸と股間だけを隠しながら、そそいと近寄ってきた。
「その、するんですよね、えっちなことを……」
「は!?」
妙に悩ましげに腰をくゆらせているかと思えば、突拍子もないことを言いだす。
まだ水滴の残る若い肌は白磁のように滑らかで、風呂上りであることを差し引いてもみずみずしい肌は、きっと若さだけじゃなくて育ちもあるんだろう。
そんな琴華の顔は恥ずかしそうに赤く、目は男を誘うように潤んでいる。
いや、誘われているのは私、だけど。
「え、なんでえっちなことするんですか?」
「だ、だってここってそういう場所じゃないですか」
ラブホテル、だから一緒に入ったらエッチなことをしなければならないと。
「いやいやいやそんなことないし。ただ雨宿りに泊まりに来ただけだしセックスしなきゃ出られないなんてルールないから」
「あっ、そうだったんですか!? な、なんだ、私てっきり……」
続く言葉はなく、彼女はバスルームに戻ったかと思いきや、しっかりバスローブを着こんできた。そっちにあったのか、着替え。
というか、なんだそれ、なんだその。
ここに入る時、私とエッチする覚悟を決めてたのか。
めちゃくちゃ可愛いじゃないか。
「すいません、それではその、シャワーどうぞ」
「……ん」
気のない返事をして、私は少し水シャワーを浴びせ体を鎮めた。これじゃ外で雨を浴びてても変わらないのに。
戻ってみると、酒のせいもあってか琴華ちゃんはすーすー、と規則正しい寝息を立てていた。
まあ、今日は彼女にとって色々あったのだ。家族の元から逃げたり、煙草と酒を味わって、初めてのファミレスにいって、こんな悪い女に引っかかって。
濡れた黒い髪の艶やかさと、僅かに覗く白いうなじ。
うなじ、ってこう、何がそんなに色気があるのか、って思ってたけど、確かに妙にかじりつきたくなる感じがした。齧らないけど。
私はこの小さな背中に何かをしようという気はない。ただ、ほんの少しの小さな縁だったはずだけど、それが妙に長引いたことを惜しく感じながら、意識を落とした。
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無事チェックアウトをして、すぐ。
「で、帰る?」
「いえ、私はもう龍鳳の家に戻ろうとは思いませんので」
「ふーん。まあ頑張んなよ。悪い男には引っかからないようにね。すぐ騙されそうだし。せいぜい気を付けて」
「ちょ、ちょっと待ってください! 見捨てるんですか!?」
そそくさとその場を離れようとするも、服の裾を掴まれる。同時にカラ、と下駄の小気味よい音が強引に引っ張ったり押したりをさせてくれない。
「見捨てるも何も、そりゃ未成年連れ回したことに引け目は感じるけど、こっちは善意の行動を充分したし」
「不充分です! そんな中途半端で見捨てられると、その、困ります!」
全部そっちの都合じゃないか、と思うけどこれ以上色々話しても水掛け論だ。というか、全部琴華の都合で喋られる。
けど、世渡りが下手糞そうでも琴華は育ちが良い分、賢いところもあるはずで。
「っていうか、こんな家出しても無駄だって思わない?」
私の穿った言葉は、それ一言で琴華を黙らせるには充分で。
少し子供には残酷な言葉だったかもしれないと反省しながら、心を鬼にしなければ彼女のためにもならないだろう。
「私は……」
弁明する言葉は震えて続きが出てこない。
逃げてどうにかなる、なんてことは世の中にはない。辛いことだけどね。人に言えたことでもないけど。
「……一つだけ、良いですか?」
「……ま、それくらいなら」
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彼女が私と来た場所は小学校だった。
何の変哲もない公立の小学校、夏休みだからかプール用のバッグを持った小学生が列をなして歩いている。
「思い出の場所なんです」
誰に話すでもなく、独り言みたいに琴華は呟く。
「昔は難しいことを考えずに、全部がむしゃらにやってましたね。褒められることが嬉しくて、自分にできることを何でもやってました。でも」
一旦言葉を切った彼女は、私に分かるように喋るわけではなく、たぶん、自分でもどう思ってるかわからなくて、手探りなんだろう。
そんな彼女の手探りの言葉を、想いを、傍で私だけが聞いている。
「……このままじゃダメだって、思ったんです、けど」
彼女の表情を覗き見ると、道に迷った子供のように不安と憂鬱に塗れていた。
私と出会ったのが一つの運命なら、私にしかできないことを言ってみるのもそういう運命だろうか。
「ちょっとついてきて」
「……はい?」
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「これ、私のCD」
「へ、え、CD!? 宗耶さんって歌手だったんですか!?」
「そんないいもんじゃないよ。アマチュアの、ライブハウスとかでしか歌わないような感じだし」
それでも、ちょっとした自慢だけど。
「私には琴華みたいな悩みはないけど、歌しかないっていうか、もう他に何もないようなもんだし。全然違うけどさ、同じように苦しんでる、みたいな」
思ったより言葉にしづらくて四苦八苦する。歌に乗せれば一発なのに。
「あーとえーと、つまりさ、とりあえずそれ、今度聞いてみてよ、うん。それで分かってくれる、と思う」
しどろもどろなんとかいうことだけ言うと、後は私が恥ずかしくなってしまった。
「じゃあ、もう私はオーケーだから。うん、あとは、辛いかもしれないけど色々頑張っていこう、みたいな」
「あ、あの……」
「じゃあ、うん、ばいばい! これでおしまい!」
私はそう言い切ると、扉を閉めて自分の家に引きこもった。強引な別れ方だけどそれ以外に取る手段が思いつかなかった。
ただ、CDの中に『考えが変わらなかったら八月の日に、君の思い出の場所に』そんなメモだけを残した。
真夏の白昼夢のような出会いは、甘い甘いチョコレートの香りと共に今も脳裏に染み付いている。