4.オトコノコのちっぽけなプライドは、時速三〇〇キロを凌駕する
『――――全ン市民に告ぐゥッ!』
上東京の街中を、騒がしい喚き声が響き渡った。
ヘレナはその声に顔を上げ、RADIUSが歩達の目の前に映像を広げる。
映像には如何にも神経質そうな細い目と、生え際が無惨にもM字に後退した髪が特徴的な、くたびれた背広の男が、見下す様に睨みつけていた。
男は巨大な黄色い四角形に乗りながら、何かの装置を片手にがなり立てる。
『私は江部灰尊! 独裁者RADIUSの圧政に異を唱える者でありィ、再び民主主義をこの地に蘇らさんとする者であるッ!』
男、灰尊は聞くに堪えないダミ声でがなり立てる。まるでそれが天意かの様に、傲慢に。
そうして、その声に道行く人々が不快に顔を歪ませた。
彼らにとってRADIUSはかけがえのない友人であり、頼れる為政者でもある。
友人を貶められるのは、人として、大なり小なり気分が悪くなるものがあるのだろう。
灰尊の映像からも人々の怒号と罵声が飛び交っている辺り、彼女の影響力がよく分かる。
……単純に声が不快なだけもある様だが。
そしてヘレナもまた、温厚な顔はなりを潜め、鋭く冷たい表情で声を分析する。歩はこんな顔も出来るのかと、驚きの目で彼女の豹変を見つめることしか出来なかった。
「……RADIUS。彼は、前に会った人だよね?」
『はい。江部灰尊。昨日午後五時二十七分頃に、上東京外縁通路にて“黒騎士”と密通していた市民活動家です。どうやら、公営放送をジャックしている様ですね』
ヘレナの問いかけに、RADIUSが灰尊のプロフィールを映し、読み上げる。
江部灰尊。六十六歳無職。
元は三十年前、まだ日本が都市国家連合制となり、RADIUSが都市管理A.Iになる前の“東京都議員”である。
今は反ロボット思想を掲げ、RADIUSの執政を「ロボットによる独裁政治」と目の敵にしている男だ。
今や形骸化している年度末での選挙に毎回出馬し、毎回RADIUSに圧倒的な敗北を喫する為、その筋では有名な男だが、その人物評はお世辞にも良い物ではなく「老害」「ただのロボット嫌い」「M字ハゲ」などと散々な扱いを受けている。
『最近では活動が減っていましたが、“黒騎士”と共謀していた様ですね。その様な事をせず、私との選挙戦で勝てば宜しいと思うのですが』
「それ、RADIUSが圧勝しちゃうじゃない」
『皆様が何故か、江部氏の演説に耳を貸されないだけです』
「まぁ、そりゃそうなるわな」
常日頃、完璧な政策と各種サービスを提供するRADIUSに、人間一人が勝てる物ではない。それが自分の生活に関わるならば、民衆は余程でない限り彼女を支持するだろう。
それに気付かず、ツン、とどこか拗ねた様に呟くRADIUSに、歩が苦笑を浮かべる。
そうこうしている内に、灰尊が一通り聞く気の起きない主張を述べ、結論に至った。
『……つまり! もう一度人間による人間の為の人間の社会を作り出す為には、暴君RADIUSを降す必要がある! その為に……!』
画面の灰尊は偉そうな笑みを浮かべ、片手に持った装置を弄くり始める。
すると、足元の四角形が音を立て、側面から足を生やし始める。
一本、二本、四本。八本の虫脚と、巨大な二本の剛腕が表出する。
そうして四角形は黄色の大蟹――大型解体工事用ロボット・キャンサーへと変形を遂げ、雄々しくその剛腕を振り上げて――。
『……大悪賊RADIUSと、それに踊らされる衆愚を誅罰する!』
――勢い良く振り下ろし、周囲を破壊し始めた。
豪腕によってべりべりと建材を剥がれ、音を立てて崩壊する建物達。その瓦礫を避けながら、人々は悲鳴を上げ、我先にと逃げ惑う。
その様子を見ながら、灰尊は哄笑する。勝ち誇った笑みは何処までも憎たらしい。
が、その顔にヘレナは一瞥もくれず――元より目は見えていないのだが、例え見えていたとしても、灰尊の笑みには見向きもしなかっただろう――淡々と、RADIUSに情報を求める。
『付近で作業予定だった、キャンサーがハッキングされている様です。対処の為、都市警察隊が出動しています』
「場所はどこ? 遠いかな」
『上新宿、商業区画です。此処、上羽田からでは浮遊自動車を時速三○キロメートルで用いたとして、およそ三十分はかかります』
「……遠いね。RADIUS、“ファスト・トラベル”を」
『既に完了しています』
言うが早いか、店の外でがこん、と何か重い物が外れる音が響く。
何事かと歩が外を見れば、街道の床がぱっくりと開いて、それに群がる様に人混みが出来ていた。彼らの注目は全て、店内にいるヘレナへと注がれており、その視線に歩は居心地悪そうに目を背ける。
しかしヘレナは何も構うこと無く、RADIUSの誘導を受けながら床の穴へと向かう。
その迷いのない歩きに、歩は声をかけようとするが、それよりも早くヘレナが振り向き、口を開いた。
「……じゃ、歩くん。そろそろ行くね?」
「おい、大丈夫なのか?」
「大丈夫! 歩くんが修理してくれたお蔭で、私、元気百倍だから!」
ぐっと力こぶを作るフリをして笑うヘレナに、歩はでも、と言い淀む。
歩の整備は確かに精一杯を尽くしたが、それでも完璧には程遠い。
盲目であることも鑑みれば、ヘレナの状態はとても万全とはいえず、今すぐにでも適切な調整を行うべきだと彼は見ていた。そしてそれは、多少なりともヘレナも、RADIUSも分かっている事である。
しかし、ヘレナは一切躊躇う事無く、RADIUSもまた、そんな彼女を止める事はしない。
事情を知らない人々は言うまでもなく、彼女を笑顔で、或いは猜疑的ながらも、早くあの狼藉を止めて欲しいと送り出す。
ある種の同調圧力が、歩の引き止めを妨げていた。
そうこうしている内に、ヘレナは床の穴へと足を入れ、全身を収めようとしている。
「マキナドールのおねーちゃん、がんばってーっ!」
「あんなM字ハゲ、ぶっ飛ばしちまってくれよ!」
民衆の声援、特に小さな子供や、若い少年少女達から声が挙がる。
彼らにとって、マキナドール・ヘレナという存在は紛うことなきヒーローであり、今もその信頼が崩れる事無く、純真に彼女の活躍を信じている。
そんな人々にヘレナは、誠意を以て、笑顔で手を振ってみせる。
時折後ろから聞こえる、「……でも、あの子、今期は成績悪いんだろ? 今回も負けるんじゃね?」「旧式だしなぁ。やっぱ無理あるんじゃない?」といった、心ない声には耳を貸さずに。
しかし、そんな声にも歩は耳を貸し、更に不安を煽られた。
もし此処で止めなかったら、ヘレナもまた建物の様にぺしゃんこにされてしまうかもしれない。しかし、引き止めるのは、マキナドールとしての任務を失敗させると同義で、そうなれば、ヘレナは解雇されてしまうだろう。でも引き止めなければ、恐らく彼女は……。
考えが堂々巡りになり、頭を抱えたくなる歩。
いっそ、このまま見送って、忘れてもいいのではないか……と思い。
「……心配しないで、歩くん! また会おうね!」
床の穴から身を乗り出し、優しげな笑顔を向けるヘレナを見て。
その鋼鉄の義手が、僅かに震えているのを見て。
「待って……待てって!」
その思いは霧散した。
もしかしたら、目の錯覚かもしれない。義手の誤動作かもしれない。
事実への疑問は浮かぶものの、歩の頭はそれを留めようとしなかった。
一気に軽くなった身体を、歩の一番奥底にある「見て見ぬ振りなんて出来るものか」という本音が動かす。
そうして心のエンジンがかかった歩は、一目散にヘレナの元へと駆け寄った。
彼女の入った穴はもう閉じかけている。逡巡すれば、間違いなく間に合わないだろう。
……ならば、躊躇わなければいい。多少の怪我がなんだ。意地を見せろ、と歩の奥底が叫ぶ。
その叫びを踏み台にする様に、歩は跳躍する。そして――。
「……ふっざけんな、馬鹿っ!」
「ひゃぁっ!?」
――歩は、僅かな隙間へと身を滑り込ませ、ヘレナの胸元へと頭から飛び込んだ。
それと同時に、床に開いていた穴は完全に閉まり、観衆達の姿も見えなくなる。
危うく足が挟まりそうになった事も、思い切り抱きしめてしまっている事も気にする事無く、歩はヘレナにしがみつきながら叫ぶ。
「心配しない訳ないだろッ!?」
「あ、歩くん……?」
「そりゃぁ、会って一日も経ってないけどな! 見知った奴が死ぬかもしれない場所に行くなんて、心配しない訳ないだろうがッ!」
「歩くん……」
「……アンタが盲目だって、知ってんだから、尚更だ」
「…………」
「手を貸す。だから、一人で抱え込むな。……俺に、後悔、させない、で」
顔を胸元に埋めながら、歩は言う。
ヘレナの棘皮センサーが、胸元に熱い液体が流れるのを確認する。
泣いているのだ。何が此処まで歩を動かしているのかは分からないが、歩は確かに、ヘレナの為に行動し、泣いている。
そんな人が、今までいただろうか。いや、いまい。
ヘレナという少女の傍にいたのは、RADIUSという“機械”だけなのだから。
その事実が、ヘレナの脳ではない何処かを暖める。まるで、流れる涙が染みこむ様に。
暖かさを愛おしみ、ヘレナは歩をきゅっと抱きしめる。
「頼っても、いいの?」
「……ん」
「ついちょっと前に、出会ったばっかりなのに?」
「当たり前だろ」
「……そっか。ありがとう、歩くん」
抱きしめたまま、ヘレナは歩の頭をゆっくりと撫でる。
今、歩が分かるのは、顔一面に広がる耐衝撃フィルムの冷たさと、それに包まれたポリウレタン樹脂の触り心地だけである。
その人よりも深く沈み込む柔らかさが。歩の手のひらに収まる程度の、慎ましやかなボリュームが。冷たさの中から染み込んでくる、心臓部の仄かな暖かみと、少し激しい鼓動が。
その感じられる全てが、歩の思考を、記憶の奥底で疼く何かをゆっくりと融かし、ただ「懐かしい」という感想だけを残させる……が。
「……でもね、歩くん?」
「ふぉっ!?」
がしり、と頭を握ってくる鋼鉄の手によって、少年の思考は現実へと戻された。
慌てて歩が顔を上げれば、にっこりとしたヘレナの笑顔がそこにある。しかしその目は微塵も笑っていない。
有り体に言って、怒っている。それに歩が気付いた頃には、時既に遅く。
「……急に飛び込んで来ちゃ危ないでしょ!? 怪我したらどうするつもりだったの!」
「あだだだだだだだッ!? ぎ、ギブギブギブッ!」
ヘレナは怒りの形相で歩の頭を圧迫し、的確に痛みだけを与える。下東京で育った彼の石頭も、これには堪らず悲鳴を上げた。
確かに歩の行動に、ヘレナは感銘を受けていた。
だが、それはそれとして、閉まりゆく扉や隔壁の間をすり抜けようとするというのは、上東京でもトップクラスの事故要因である。
多くはRADIUSが未然に防いだり、装置を緊急停止することで難を逃れるものの、不幸にもそれが原因でサイバネ技術にお世話になる物も、決して少なくはないのだ。
褒めるべきところは褒め、叱るべきところは叱る。これが、ヘレナの……子供向けの、基本方針であった。
『ヘレナ、それ以上はいけません。それ以上圧を高めると、健康に悪影響を及ぼします』
「おっと。ゴメンね? でも、ホントに危ないから、もうしちゃダメだよ?」
「お……おう……」
どうやら胸に顔を埋めた事については怒っていない様で、頭を解放すると、真面目な顔でヘレナは窘めるだけに留める。
歩も痛む頭を抑えながら、勢いで動くのは止そうと己を戒める。しかし一度火がつくと、理屈や常識で止まれるタイプではないと歩自身も自覚しているだけに、次にヘレナのお世話になる時が目に見える様であった。
そんな彼を、徐にヘレナはひょいと持ち上げ、くるりと回す。
「お、おいっ?」
「……えへへ」
そうして歩を太腿の上に乗せ、十五の少年にしては小さい――見た目では同じか、それより下の年齢に見えるヘレナと同じ程度――背を、ヘレナはぎゅう、と抱きしめる。
背中から感じる趣深い柔らかみに動揺する歩に対して、ヘレナはご満悦の表情で言う。
「……歩くん、こうして触ってみると、意外とちっちゃいんだね?」
「ち、ちっちゃくねーし!」
「そうかなぁ? 私と同じくらいでしょ? ……でも私、このくらいの方が可愛くて好きだよ?」
「こ、子供扱いするなぁっ! 俺はもう十五だぞっ!?」
「そっかぁ。じゃぁ、私のほうがおねえさんだね! おねーさん、って呼んでもいいよー?」
「誰がするかぁっ!」
精一杯暴れ、抱擁から逃れようとする歩だったが、その尽くがヘレナによって阻まれる。
諦めて力を抜けば、更にきつく抱きしめられる。頭をすり寄せている辺り、どうやら気に入った様だ。
そんな二人を気にしているのかいないのか。RADIUSの平坦な合成音声が、二人のいる空間に響く。
『交渉が纏まった様で何よりです。確認致しますが、お二人共搬送する形でよろしいでしょうか?』
「うん。歩くんはこっちでカバーしておくから、お願いね」
「俺も構わな……いや、構うけど。どうやって行くんだ? 徒歩じゃないよな?」
そう言って、歩がきょろきょろと辺りを見渡す。
歩は先程まで、ヘレナに夢中で気付かなかったが、穴の向こう側はおよそ高さ二メートルの、巨大な掃除機のホースの様な空間になっていた。
見たところ人影はないが、ウォークリフトや移動用の乗り物も見当たらない。ヘレナの強化された脚力なら乗り物はいらないかもしれないが、それにしては、いつまでも歩を抱きしめているのが奇妙である。
「おっほん! ここはね、歩くん。えーっと……」
『反重力式機人用移動装置。名称を“ファスト・トラベル”。機械化特別公務員にのみ使用が許可される移動装置です。これを用いる事により、大幅な時間短縮が可能となります』
「そう! そういうこと! ちなみに、私の一番お気に入りな移動手段だよっ!」
「何でアンタが誇らしげなんだ?」
えへん、と言わんばかりに胸を逸らすヘレナだったが、解説を行っているのは全てRADIUSである。呆れ顔で返す歩だったが、ふとRADIUSの言葉に引っ掛かりを覚える。
「って、ちょっと待て。機械化特別公務員にのみ……?」
『はい。緊急区画整理により、現場までの直線経路を確保。反重力性推進機構により、障害のない高速移動を可能とします。その速度は、時速にして三○○キロメートル』
「さん……っ!?」
『故に、本来は機械化特別公務員専用。所謂、サイボーグのみとなっております。が、伊須都様のご意向とご体調を慮り、安全第一でお送り致します。ご安心ください』
「……マジか」
淡々としたRADIUSの言葉に、歩は冷や汗を流す。
時速三○○キロの高速移動は、生身の人間ではとても厳しい物があるだろう。RADIUSが止めていないのを見るに、死にこそしないだろうが、意識を保たせる自信は歩にはない。
さりとて、無鉄砲に飛び込んだのは自分であり、手を貸すと言ったのも自分である。今更「やっぱりなし」と言う訳にはいかなかった。少年のちっぽけなプライドが、それを許さないのである。
結局、歩は生唾を飲み込んで。
「……お手柔らかに、頼む」
と、言う他なかったのであった。
「大丈夫! 私がちゃーんと、クッションになってあげるから!」
『計算上、致命的な損傷は起こり得ません。多少不快感や恐怖感を伴うかもしれませんが……通院が必要になる程ではないので、大丈夫です。安心して、お楽しみください』
「だってさ! 一緒に、楽しもうね!」
「お、おう……」
ヘレナのサムズアップに親指を合わせながら、歩は引き攣った笑みを浮かべる。
それに合わせた様に、RADIUSが空中に、「一〇」と書かれた映像を写した。
『カウントダウンを開始します。一〇、九、八、七、六、五、四、三、二、一――』
少しずつ、等間隔に刻まれる数。それを脳内で反芻し、身を縮こませる歩。
そんな歩を、ヘレナが包み込む様に抱きしめる。
落ち着いたカウントダウンと共に、ゆっくりと二人の身体が浮き上がる。
身体は歩達の意志に依らず、少しずつ前に進み始め――。
『――射出』
――点二秒。一秒に満たぬ僅かな時間で、二人は時速三〇〇キロの世界に到達した。
風を切る轟音と共に叩きつけられる空気の塊に、歩は目を閉ざされる。
歩の思った以上に衝撃が少ないのは、ヘレナが上手いこと、後ろからの推進重力に対する緩衝材になったお陰だろう。歩は知る由もないが、RADIUSが密かに気流を操作し、衝撃を殺しているのも功を奏している。
しかし、今迄乗り物といえばゆっくりと進むカーゴバイクや軌道エレベータだけだった歩にとって、時速三〇〇キロは初の体験である。
反重力特有の頼りない浮遊感と、高速移動の驚異に、歩は段々と身体から何か抜け落ちそうな感覚を覚え――そっと意識を手放した。