2.たのしいたのしい待ち合わせ
揺蕩う様な心地と、吸い込まれていく様な心地。
その二つの感覚と共に、歩の意識は電脳空間に降りていく。
彼が気付けば、そこは白塗りの床がいつまでも続く空間となっていた。
病院着の様な白い服は、電脳空間における初期設定の服装である。
どうやら、無事に接続出来た様だと、歩は一旦安堵し、辺りを見回す。
「ここは……」
『エディットルームです。歩様』
辺りを見回す歩に、声がかけられる。
声の主は彼の直ぐ側にいた。
白亜の世界に佇む、白磁の少女。
「RADIUS」
『こうして間近でお会いするのは初めてですね。気分が悪い、思考が定まらないなど、電脳酔いの症状はございませんか?』
「あぁ。ちょっと眠気はあるけど」
『フルダイブされる方には、よくあることです』
「……もっと心配してくれたって、罰は当たらないぞ?」
『バイタルチェックは完璧ですから』
落ち着き払った声に、歩はやれやれと苦笑する。
体調管理が万全なのは事実であり、そう断言するのはRADIUSなりの、気を紛らわせるジョークでもある。
コンピュータが完璧を断言する。世に言う“お約束”というものだ。
「で、エディットルームっていうと、何をするんだ?」
『アバター製作です。この電脳空間における貴方の外見設定を決定します。身長・体重……その他、顔のパーツ一つ一つまで拘ることが出来ます』
「へぇ……」
『極端な身長体重の変更でも、違和感を感じない様に此方が補正をかけますので、ご安心を』
目の前に出現した姿見を見て、歩はふむ、と考える。
電脳学校ではこういった設定は出来なかったので、少し新鮮であった。
コンプレックスでもある身長を補強する絶好の機会だが……。
「……まぁ、外見はこのままで良いだろ」
『よろしいのですか?』
「極端に変えて、ヘレナが見つけられなかったら困るだろ。……現実じゃ俺の声と身長くらいしか知らないんだし」
『それもそうですね』
現実では目の見えないヘレナも、電脳空間であればその限りではない。
バイザーが彼女に視覚を齎す以上、ほぼ同じ仕組みであるVR内でなら、彼女は十全の状態で在れるのだ。
それを技術者として理解しているだけに、歩は若干緊張している。
ある意味、歩は今日初めて、ヘレナの前に姿を現すのだ。
「……幻滅されないよな?」
『大丈夫です』
「その根拠は?」
『ヘレナですから』
「……そうだな」
緊張、そして僅かな期待と、大きな不安。
それをゆっくりと飲み込んで、歩はエディットルームから退出した。
***
「……っと」
『ようこそ、“超幸福RPG(仮)”へ』
エディットルームから抜けた歩達を待っていたのは、賑やかな街道であった。
とはいえ、全面お化け屋敷の如き荒廃を見せる下東京の街道でも、色取り取りの広告と機械達、そしてRADIUSに包まれた上東京とも違う光景である。
そんな光景に、歩はRADIUSと共に立っていた。
「なんか……なんだろう? とにかく……」
『ワクワクする?』
「そう、それ! こんな光景、見たこと無い!」
『世界観自体は平均的なファンタジーですが、お喜び頂けたなら幸いです』
端的に言い表すならば、その光景は正に“剣と魔法のファンタジー”である。
木やレンガ、漆喰で作られた建築物や、完全に木造の商店街。
そこをローブや民族衣装、鎧兜を纏った人々が所狭しと動き回る光景は、電子書籍で知っていようとも、今の世代では決して見れない筈の光景であった。
正に“異世界”とも呼ぶべきその街並みに、歩は暫し見惚れていたが、やがてヘレナとの待ち合わせを思い出す。
「そういえば、ヘレナは何処にいるんだ……?」
『前方二十メートル先に、待ち合わせ場所の広場があります。まずはそこに向かいましょう』
「わかった」
RADIUSの誘導を受けて、歩は道なりに進む。
街並みは海外の保存都市――旧来の都市を観光資源として保存したもの――にも負けない立派なレンガ造りだが、看板は殆どが日本語を記している。
薬屋。武器屋。道具屋。簡単な表記の割に、その内装は客引きの為に拘り抜かれている。
だが、何より歩の目を引くのは――。
「……なぁ、あの店員って、A.Iか?」
『いいえ。人間ですよ』
「マジかよ……」
――人間が、店員をやっているということだ。
二一一六年の日本では、人間の店員による接客というのは珍しい。
いや、そもそも人間が現場に携わること、それ自体が珍しいのだ。
一次から三次産業までを機械が負担する現在、人間に必要とされることは、運営の舵取りである。
人間の手作業、手料理などは、家庭における最上級の愛情表現であり、企業における最高級のサービスであり、日本における最古参の伝統であった。
そんな日本の、上東京で。
電脳空間とはいえ、“接客する人間の店員”に出逢えると思っていなかった歩は、ある種の感動に包まれていた。
『ふふ。……先にヘレナと合流して、後で見に行きましょうね』
「うんっ」
普段の大人ぶった物言いも何処へやら。
歳相応の、きらきらとした笑顔で、歩は目的地まで駈け出した。
***
一方で、ヘレナは待ち合わせ場所である広場のベンチで座りながら、まだかまだかと待ち侘びていた。
普段は彼女も“視覚”で楽しめる電脳空間だが、今は楽しんでいる余裕はない。
一秒が六十倍に引き伸ばされた電脳空間ではあるものの、今味わっている体感時間の長さは、その百倍は超えていた。
「……うぅー。まだかなぁ、大丈夫かなぁ」
『ふふ。……もうすぐですよ、ヘレナ』
RADIUSが連れて来るのは分かっているものの、あの歳若い整備士のことだ。
この間だって、警察に絡んで半殺しの憂き目に遭いかけたのだから、マナーの悪いプレイヤーとトラブルになっていないかと、彼女は気が気でないのだった。
「うぅー……っ」
『ふふふ』
そんな彼女に、RADIUSは珍しく笑っている。
リソースの許す限り無数に分裂出来る彼女は、常に互いを同期しているのだ。
歩の現状も、ヘレナの現状も知るRADIUS達にとっては、この有様は可笑しくて仕方がない様だった。
現に他の――少数ながら、他のプレイヤーに同行しているRADIUSも存在する――RADIUSでさえも時に吹き出し、時に腹を抱え、RADIUS同士で悶え合っているのだから。
そうまで一頻り笑われても気にすることなく……否。
気にすることも出来ずに、ヘレナはキョロキョロと探すのを止め、溜息をつく。
「……でも、コレで大丈夫かなぁ」
『大丈夫。大丈夫』
「幻滅されない?」
『大丈夫ですよ。だって……』
「だって?」
『歩様ですから』
「……そうだねぇ」
緊張、そして僅かな期待と、大きな不安。
それをゆっくりと飲み込んで、ヘレナは再び、歩が来るであろう曲がり角を見やる。
すると、その曲がり角の向こう、まだ見えぬ場所から、聞き慣れた声がやって来る。
「……あの声!」
『迎えに行きましょう。“私”が隣にいる少年が、歩様です』
「うんっ!」
ヘレナは勢い良く駈け出し、曲がり角へと駆け出す。
――その向こうで、見慣れた顔の少年が、彼女を見上げていた。