第16章 10話 ムルムル島沖海戦
アリオク市が位置する地域は比較的温暖で、真冬であっても海が凍りつくなどありえない。
だが今は違う。
海魔クラーケンが放つ呪わしい冷気が海を、船を、人を凍りつかせる。
アリオク海軍の軍艦5隻からの砲撃でもほとんど傷を与えられないクラーケンは、しかし円十字教会オミクロン聖騎士団所属潜水艦”ネプチューン”の聖なる一撃により腕を一本引きちぎられた。
「スポージ団長、クラーケン未だ健在です」
オミクロン聖騎士団の紋章を付けた若い聖騎士がかすかに震える声で言った。”ネプチューン”の分厚い耐圧ガラス越しであってさえ、クラーケンの姿は恐怖以外の何物でもなかった。
「見ればわかるよぉ。それと、この艦にいるときにはボクのこと艦長って呼びなさい」
「し、失礼しました艦長!」
スポージはブリッジの艦長席で指を組み、再度の聖雷撃砲による攻撃と、同時に大魔法具”エーテル誘導式砲弾射出装置”の起動を命じた。
「さぁ~あMr.クラーケン、聖騎士団の本気をたっぷりみせてあげますよ」
スポージは飄々とそう言いながらも、腹の奥には重々しい責務への緊張感がのしかかっていた。
――これで殺れなきゃボク左遷ものだぁ。
誰にも気づかれないサングラスの奥に、絶対者に挑む覚悟の光が宿っていた。
*
アッシュは我慢できたが、カルボはそれを見た途端床の上に嘔吐した。
生臭さと香ばしさが入り交じるにおいの元を辿って扉を開けた先は調理室だった。
調理されているのは、バラバラにされた人間やエルフの手足、臓物、脳やスペアリブだった。
調理しているのはマリンエルフだった――彼ら、彼女らは部屋の中に入ってきたアッシュとカルボには何の興味も示さず、ただ自分に与えられた役割を延々と続けているだけのようだった。
「……おい、しっかりしろ!」
アッシュがどやしつけても、煩わしそうにするだけで誰も彼も薄膜をかぶせたかのようにどんよりした目をしている。
――セイレーンに操られているのか?
アッシュはその考えに行き当たり、手当り次第殴り殺してしまわずに良かったと胸をなでおろした。
この食事が誰に与えられるのか。マーマンか。それとも別の何かが奥にいるのか。
それより先にすることがある――アッシュは黒鋼のメイスで調理器具を片っ端から破壊していった。
*
「ごめんねアッシュ」
足がすくんで動けなくなったカルボをアッシュはおんぶして運んでいる。よほど人肉料理の光景がショックなのだろう。アッシュとてそれは同じだった。メイスで山賊の頭蓋骨を叩き割った回数の分だけ死体に慣れていただけのことだ。それでも調理中の死体はしばらく忘れられないだろう。
「気にしなくていい」アッシュは肩甲骨のあたりにのしっと柔らかいものが押し付けられているのを感じながら、「それより、俺はこの奥に進むつもりだ。カルボ、お前はどうする? 残っててもいいぞ」
「こんなところでひとりにさせる気?」
「そうは言ってないだろ」
「一緒に行く」
そうか、とだけ答え、アッシュはカルボをおぶり直した。
今度はうなじのあたりが柔らかくて、温かい。
*
ザパ=リーンは困惑していた。
机の上においている空中投影機からの映像が突然途切れたからだ。
クラーケンの視聴覚にリンクして送られてきていた蹂躙の様子がぱったりと消えてしまった。魔力付与品の不調か。神経伝達に作用するエリクサーの配合にミスが有ったか。
それとも……。
いや、いやいやそんなわけがない。
クラーケンなどはじめから存在せず、自分の哀れな脳が生み出した妄想にすぎないのではないか……。
そんなことはありえない。
ザパ=リーンは机の上のデキャンタから水を飲もうとして、舌打ちひとつで床に叩きつけた。完全に凍りついていた。
なぜ映らなくなった、なぜ……さっきまであの忌々しい円十字教会聖騎士団の潜水艦から攻撃を受けて、そこで映像が途切れた。だから……ええと……。
「そんなバカな!」
叫び声が虚しく響いた。
聖騎士団の潜水艦に攻撃され、クラーケンは死んだのではないか?
「そんなことは絶対あってはならない! 私がこの半年、命と正気を捧げて完成させた”クラーケン制御”の技術だぞ!? 海の狂王を人類種の手で支配するそのワザで……そんな……クラーケンが、あんなオモチャにやられる程度だとすれば……私は、私の実績は何のために……!?」
ザパ=リーンは己の胸郭を内側から揺るがすような強烈な動悸を覚え、小部屋の扉を蹴破った。
そこには――。
「なっ……なんだお前!?」
そこには黒光りするメイスを持った、全く知らない人間の男が憤怒の形相で立っていた。
*
一方、ムルムル島沖。
海面の氷は急速に溶け始めていた。クラーケンは、不定形の肉体のおよそ3分の1を消失し、青黒い体液を滝のように流している。
大量のミアズマが溶け込んだクラーケンの体液は海を穢した。数年はまともな魚が獲れなくなるだろう。
だが、それでもこの巨大な悪夢を野放しにするよりはマシだ。誰もがそう思った。
誰よりも、オミクロン聖騎士団団長、スポージ艦長が。
「まだ動く感じ?」本心は隠し、気の抜けた声で副長へスポージが問うた。「鎮圧塔起動、出力確保よろしくぅ~」
ブリッジ内に了解の声が響いた。
「いい声だ。ボクぁいい部下を持って幸せだよぉ~」
軽妙な口調に冗談と思った艦橋騎士たちの間に和やかな笑顔が広がったが、スポージのことばには嘘偽りはなかった。
*
「『なんだお前?』……それはこっちのセリフっスよ」
大氷堂にアッシュの低い声が鈍く反響した。
対面している薄汚れたマリンエルフは、驚愕し固まっている。
ヒュン、と空を切る音と微かな冷風がマリンエルフの顔に吹いた。目の前にあったのは、血脂にギラつく真っ黒いメイスだった。
「質問、いいスか?」
アッシュは目上の者と、敵に対しては敬語を使う妙な癖がある。やや言い回しはおかしいが、そうするように矯正されたのだ。
かつて自分の親代わりだった、円十字教会シグマ聖騎士団団長コークスに。
「な、な、なんだ? 私を誰だと思って……」
マリンエルフは、本当ならもっと冷たくあしらう威厳を見せたかったが、膝が震えてうまく言葉が出てこなかった。
「知らねッス。誰なんです、アンタ」
「私は! 大魔導師ザパ=リーンだ! 私は、こんな地下の穴蔵で、私は……!」
「はあ、そうスか。で、ザパ=リーンさん」
「あ!?」
「質問、いいスか」
「な、な、な、なん……質問……何? なんだ?」
アッシュの目の奥にすうっと暗い炎が宿った。「あのキッチン、誰のために料理を作ってたんスか」
「誰って……」
「誰のために……何のために?」
「クラ、クラーケンだ」
「クラーケン……? そういや、さっき”クラーケン制御”とかなんとか」
「お、そうだ! すごいんだよ私の技術は! 洗脳用エリクサーを混入させたエサ、あああ、あとは小型化させた制御呪印を氷の内部に封入して長期間食わせ続ける。つまり内部からあの化け物を私色に染め上げたということだ! どうだ! すごいだろう!」
アッシュの答えは左肩へのメイスの一撃だった。
「うごああああッ!?」
ザパ=リーンは大氷堂の凍りついた床の上を転がりまわった。痛みを通り越して、信じられない衝撃で頭が狂ってしまいそうだった。
「そいつあすげえや。いや、実際すごいと思いますよ」
アッシュは真顔でそういった。本心からそう思ったからだ。もしザパ=リーンの手法が他の化け物に通用するのなら、人類はドラゴンにすら下僕にできる日が来るかもしれない。
「で、クラーケンの他には」
「何ををぉぉ……」
「ザパ=リーンさん、あの人肉旨かったッスか?」
「何? 味? そんなもの……癖が強かったが……いい調理法が見つかってからは口にあうようになった……」
「……」
「私は……くくっ、笑えるだろう? マリンエルフだがね、苦手なんだ……魚介類」
アッシュの答えは脇腹への蹴りだった。肋骨にヒビくらいは入っただろう。
「やああめろおお、私は、私はこの成果を持って帰って……ぐうう、私が本物だと認めさせなければ……!」
ザパ=リーンは凄まじい形相で皮膚が張り付くほど冷えた床を這い、その場から逃げようとした。
この哀れなマリンエルフ。彼こそが幽霊海賊船団事件の黒幕だ。アッシュは確信した。殺すのではなく生け捕りにして、事の真相を吐かせるためにアリオクの軍に引き渡すのが妥当だろう。
アッシュにとってクラーケンなど子供を怖がらせるおとぎ話の怪物にすぎないが、どうも状況的に本当にいるらしい。ザパ=リーンはそんな怪物を人類種の支配下に置くという。すごい男だと、アッシュは善悪を超えてそう思った。
――でも人食ったのはやりすぎだな。
アッシュは苦笑いを浮かべ、ロープで身柄を拘束しようとザパ=リーンのそばにしゃがみこんだ。
「アッシュ、後ろ!!」
「え?」
カルボの声がなければこの時アッシュは首を切り落とされていただろう。
頸動脈をわずかにそれ、首筋から後頭部にかけてスッと傷口が広がった。カミソリ一枚ほどの傷から、襟首をしとどに濡らすほど血がこぼれる。
アッシュは考えるよりも早くその場を飛び退き、大氷堂の床に氷の轍を作ってブレーキを掛けた。
一瞬前まで何もいなかったはずのそこに立っていたのは、真っ白な羽毛に覆われた直立したオオカミに、カマキリの意匠を無理やり混ぜ込んだ化け物だった。
”氷を引き裂くもの”。
闇の領域から呼び出される妖魔である。だが、いったい何者が召喚を?
「ふへへへへぇ……少し私も焦りすぎたようだ」
ザパ=リーンがゆらりと立ち上がった。メイスを叩き込まれた肩も、蹴られた脇腹も、どうやら痛みを感じていないようである。折れたほうと逆の手で、邪悪なマリンエルフは己の首筋にシリンジ型エーテルポットを突き刺していた。
「あー効く……ひと仕事の後はやはりこれに限るな」
「うそ……」カルボが顔色をなくした。「痛み止めじゃない、折れた骨が再生してる!」
「お、よくわかったな。そのとおりだ。このエリクサーは特製でね、市販のものとは訳が違う」
ザパ=リーンは中身のなくなったシリンジを足元に投げ捨てた。ちょうどそこには、ザパ=リーンが氷の床の上に描いた呪印が赤黒く脈動していた。
――あの短時間で呪印を……!
アッシュは気温とは違う寒気が背中に走るのを感じた。この男、やはりただのイカれたマリンエルフではない。魔術と錬金術に相当精通していなければできない芸当だ。
「やれぃ! そいつを細切れにしろ」
ザパ=リーンはその場で奇妙なステップを踏んで拳を振り上げた。
アイス・レンダーはシュッと息を吐いて――体温が低いせいで白くはならない――向こうがすけて見えるほど薄く鋭い鎌を振るった。
黒鋼のメイスが鎌を受ける。
甲高い音が大氷堂にこだまし、火花が飛び散る。
アイス・レンダーが逆の刃でアッシュの首を狙う。
アッシュはしゃがんでこれを交わすと同時に水面蹴りで妖魔の足を払い、バランスを崩したところに容赦なくメイスを突きこんだ。
アイス・レンダーはこれを上半身をスウェーさせる最小限の動きだけでこれをかわし、今度は鎌を交差させてハサミのように首を狙う。
アッシュ、これをメイスの頭で絡め取り受け止める。
ギリッと金属が軋んだ。
アイス・レンダーは世界の外側にある闇の勢力から呼び出された妖魔である。凍える空気の中に潜み、生きとし生けるものを引き裂いて切り身にしてしまう化け物だ。その体は殺すために形成され、その目的は殺すことそのものである。
それゆえ、メイスを扱うアッシュの力すら上回る。メイスに刃が食い込み、耳障りな音がキリキリと氷堂に響いた。
「くッ……!」
総黒鋼造りのメイスですら両断しかねない二本の刃、強烈な押し込み。アッシュは全身の力で押し返すが、震えるだけではねのけることができない。
――だったら!
アッシュはトンファー状になっている持ち手を握り、絡まった刃ごとメイスをひねった。
カミソリほどに鋭い刃である。薄い。たとえ妖魔といえども、頑強さまで兼ね備えることは不可能だった。
ものすごい音がして、アイス・レンダーの鎌は二本とも砕け散った。
「よぉ、アンタ他に何ができるんだい?」
引きつったような笑みを浮かべながら、アッシュは異界からの来訪者の昆虫じみた目を正面から見据えた。
「だッ!」
アッシュの頭突きがアイス・レンダーの顔面を捉えた。とんでもない色の鼻血が吹き出し、上半身がのけぞる。
その一瞬、勝敗は決まった。
合計十七発の殴打が白い妖魔の羽毛をどす黒く染めた。
妖魔は死体となって、霧になり、元いた領域へと還っていった。
*
「アッシュ! 大丈夫!?」
精根尽き果てて、凍りついた床の上に尻餅をついたアッシュにカルボが駆け寄った。渾身の力で戦ったせいで後頭部の傷が開き、不安になるほどの量の血がうなじから腰のあたりまでを濡らしている。
「このくらいじゃ死にゃあしないって」アッシュは不安げなカルボに苦笑した。「頭に近いケガは血が出やすいんだ」
それを聞いたカルボは珍しく眉を吊り上げて、無言のまま傷口に消毒エリクサーをふりかけた。
「いッ」
傷口にしみて、アッシュは悲鳴を上げかけた。
「……あんまり心配させないで」
別の軟膏を塗り込み、ガーゼと包帯を巻きつつ、カルボは低い声で言った。
アッシュは自分がもっとひどい修羅場をくぐり抜けた話を聞かせてやろうと思ったが、やめた。そういう雰囲気ではない。
「ぐうう、アイス・レンダーが消されるだと……?」そういう雰囲気を完全に無視して、ザパ=リーンが歯噛みした。「くそッ、セイレーン! セイレーン!! どこだ、戻ってこい!」
「セイレーン?」
「そうだ! あれが私に情報をもたらし、私はクラーケンの目覚めに手を貸してやったのだ!」
ザパ=リーンはもうでたらめに錯乱し、自分から口を割り始めた。
「畜生、畜生ちくしょう! 私がこれまで何をやってきたのか……!」
「それはへーたいさんか警察にたっぷり聞かれると思うよ?」
「え?」
惑乱したエルフの魔術師に、音もなく背後に立っていたカルボが鎮静エリクサーを首筋に打ち込んだ。エルフはすぐに目の焦点が合わなくなり、膝から崩れ落ちた。
*
「なんかくさいね、この部屋」
ザパ=リーンが研究用に使っていた小部屋に入ると、冷ややかな空間に垢じみた生活臭がこびりついていた。
部屋にはありとあらゆる場所に、素人では全く意味の分からない本やメモ書きが散らばっていて、誇張抜きで足の踏み場がない。
「これ、持って帰ったら高く売れないかな」
カルボが盗賊令嬢の本領を発揮して金目のものに目をつけ始めた。
「やめとけよ。自分で言ってただろ? 軍か警察が取り調べに使うだろうから、現場は保存しておかないと」
アッシュのまっとうな指摘にカルボはぶーと唇をとがらせた。
「あっ、あれなんだろ?」
「おい、だから現場は保存して……」
「これ」
カルボは机の上にあった、卵大のブローチのようなものを手に取ってアッシュに見せた。
「宝石使ってるし、これくらいならもらっても……」と冗談っぽく言いかけたカルボは、アッシュの表情にびくっと体を震わせた。
こんな表情は見たことがない。心臓がドキドキして、怖くなった。
「ごめんなさい、ちゃんと戻しておくから……」
「…………ドゥ」アッシュは恐ろしい表情のまま、何かをつぶやいた。
「え?」
「……キサナドゥだ」
「キサ……何?」
「それは……魔導結社キサナドゥの証だ」
カルボにはそれがどういう意味かわからなかった。
アッシュにとってこれがただならぬ何かを運ぶものだということ以外には……。
16章終わり
17章に続く