第16章 09話 オミクロン聖騎士団
「……何だ今の揺れ」
冷気の立ち上る縦穴をエレベーターで降り、底まで着いた途端に足元にぐらりとくるものを感じ、アッシュは天を仰いだ。外よりも明らかに冷たい風が吹く。
「地震、か?」
「どうしよう? 上に戻る?」先を行っていたカルボがくるりと振り返ってアッシュを見た。「さっき着いたばっかりだけど」
アッシュは少し首を傾げ、状況を整理した。「ここまで来て戻るのは時間の無駄だ。先に調べていこう」
「そうだね……あれ?」
「どうした」
「あそこ、見て」
カルボが指差すところに視線を向けると、そこには一般的な人間の身長の数倍もある両開きの扉があった。鍵はかかっておらず、やや開き気味のまま凍りついているようだった。
「巨神文明の遺跡かな」
「そうらしい……よし」アッシュは腹を決め、己の拳をかち合わせた。「中に入ろう」
「でも、凍りついてるけど」
「こうする」
言うやいなや、アッシュは黒鋼のメイスを全力で叩きつけた。バリバリと音を立てて氷にヒビが入る。二撃、三撃、最後に蹴りを入れると、もう勘弁してくれというように軋みを上げて分厚い扉が開いた。
扉の向こうからはさらに冷え切った空気が流れ込んでくる。
好奇心をくすぐるには十分な状況だった。
*
アリオク海軍軍艦”アンタッチャブル”艦内は完全に恐慌状態に陥っていた。
左舷が大きく砕け散り、そこから強烈な冷気が艦内に流れ込み、すでに数人の乗組員が氷の彫像と化した。
「クラーケン……クラーケンだ! 伝説は実在した!!」
突如浮上した海の狂王クラーケンの姿を間近で見て正気を失う者もいた。
船乗りならば誰でも知っている海魔クラーケン。半ばおとぎ話の存在であり、噂話に尾ひれが何重にもついた存在だった。いま、アリオク海軍の艦隊全てから見ることができる位置に屹立する信じられないほど恐ろしい巨体は、たしかに肉を持った化け物である。
老練な軍艦”ロバート”艦長ですら正確な命令を出すことができず、僚艦と連絡を取ることすら頭のなかから飛んでいた。
「ほ、砲撃……」”ロバート”艦長はそれでも正気をつなぎとめ、かすれた声で下士官に命令を下した。「砲撃だ! 残りの砲弾をありったけ撃ち込め! 魔術兵、僧兵、とにかく遠隔攻撃ができるものはすぐさま攻撃に移れ!」
”ロバート”に呼応し、僚艦の”ガンビーノ””スギ”も回頭し、ムルムル島に打ち込んだ焼夷エリクサー弾の残存分をクラーケンに向けて打ち込んだ。砲声が海面を揺るがす。
クラーケンに次々と外れなく命中するのは、各艦に駐在する魔術兵たちによる弾道調整の呪文が作用しているせいだ。
凄まじい炎がクラーケンの悪夢のような巨体を包む。まともな海獣であれば皮膚がただれ、分厚い皮下脂肪を溶かして骨まで焼くつく威力だ。
しかしクラーケンである。
水では消せないエリクサーの炎を、強烈な冷気で包み込んでから体表ごと削り落とす。氷の中に閉じ込められた炎は水中に没し、海面を泡立たせながらあえなく海の藻屑となった。
と、出し抜けにクラーケンが咆哮した。
その声をなんと例えるべきか。
耐性のないものはそれを聞いただけで錯乱し、投身自殺を図るほどのものだった。
ぼこり、ぼこりぼこりとクラーケンの体のあちこちに青白い光が浮かぶ。眼球のようであった。同時に、それはエーテル放射の焦点装置でもあった。
その眼球の光量が増し、青白い光線が四方八方に放たれた。
冷凍ビーム――気の抜けた名前に反し致命的な威力があった。海面をざあっと撫ぜた光線はそのままアリオク海軍の軍艦を襲い、その射線上を瞬時に凍りつかせた。強烈な冷気が艦内に流れ込み、各艦で幾人もの乗組員が真っ白に凍りつき、艦の揺れで倒れると粉々に砕け散った。
中でも”スギ”は艦橋を完全に氷漬けにされ、戦闘不能に陥った。
クラーケンが歩く――あるいは泳ぐ――と、熟練の船乗りさえ尻込みする高波が起こった。氷と水、そして無数に生えた腕と触手を合成したような接近攻撃が軍艦を襲った。砲撃は狙った威力が出せず、魔術兵の力を集結させた破壊呪文ですら氷の壁を撃ちぬけず、もはや万策尽きたかに見えた。
――こうなれば、衝角突撃して自爆するしかあるまい。
”ロバート”艦長は腹をくくった。
「重エーテル機関の出力を限界まで上げておけ」
艦橋の隅っこで頭を抱え、震えている操舵手たちを無理やり奮い立たせ、艦長は帽子をかぶり直した。
”伝説”に挑むならそれも本望だ――と何人の乗組員が思ったのか、それを確かめるすべはもうない。だがエーテル機関の暴走による自爆であれば倒せるはずだと艦長は思っていた。逆に言えば、それで効かなければもはやアリオク海軍は壊滅だ……。
”ロバート”は90°回頭し、船首からクラーケンに突撃を始めた。
しかし。
「前方から波が……いえ、氷の波が走ってきます! 海が凍りついてこれ以上は前に進めません!!」
――なんてこった。
艦長は全身の汗腺から汗が吹き出すのを感じた。もはや万事休す。せめて僚艦を逃し戦力を無駄にさせないことだけが自分にできる最後の役割だ。
『待ってくださいよぉ~アリオク海軍のみなさぁん』
突如、馬鹿でかい拡声がムルムル海域全体に轟いた。
次の瞬間、凍りついた海面を割って、巨大な流線型の船首が現れた。
『お待たせしてすいませぇん、ちょっと手続きに時間がかかってしまってねぇ~』
拡声を振りまいているのは浮上してきた潜水艦。その艦首に刻まれている紋章は……。
と、クラーケンは自分を邪魔されたと感じたのか、潜水艦に向かって冷凍ビームを放った。
効かない。
潜水艦は全体に強力なエーテルフィールドを張り巡らせ、冷凍ビームを完全に弾き飛ばした。
効かない、と見るや今度は巨大な腕をもたげ、クラーケンは潜水艦に向けて拳を振り下ろした。
『はい一斉射よろしくぅ!』
どこか楽しげな拡声が響き渡り、潜水艦のあちこちにハッチが開く。そこからどう、と音を立てて光の塊がシャボン玉のように湧き上がり、次の瞬間クラーケンの腕に向けて高速で迫った
激突、爆発。クラーケンの何番目かの腕は、人間で例えるなら肘のあたりでミンチとなり、青い血とともに肉片が海中に没した。
『お~またせしましたぁ、円十字教会オミクロン聖騎士団、潜水戦艦”ネプチューン”参上!!』
オミクロン聖騎士団団長・スポージは潜水艦の艦長席でニヤリと笑い、丸いサングラスの奥で不敵に目を光らせた。
*
「やはり弓無しで闘うのは得策ではないな」
焼け焦げた丘の上。セラは全身に傷を負いながら、それでも目から意志の力を放ち、女怪セイレーンと対峙していた。
クラーケンの大暴力を背中で感じつつもそれを無視し、ショートソードを構え直す。
「お前は殺す。私の手で」
セイレーンは聞く耳を持たず、人類種の発声方法では出せない高音域の歌声を放った。それは聞くものに幻覚を引き起こさせる魔歌だ。周囲に居合わせたアリオク海兵はバタバタと倒れ、まだ生き残っているマーマンたちは歌に屈服し、セイレーンにひざまずいた。
「効かないと言っている!」
セラの両耳は精霊によって守られ、セイレーンの歌を遮ってくれる。一気に距離を詰め、フォレストエルフ流の剣術でおぞましき敵を切りつけ、捌き、突き刺す。
セイレーンは美貌の女を模した顔を崩し、魔性をむき出しにした。セイレーンは海に住む鬼族の一員であり、説得など不可能だ。殺すか、さもなくば無辜の犠牲者を増やすか。どちらかしかない。
恐ろしい爪を伸ばし、セイレーンがセラの森色の服を引き裂く。
よろめきつつセラはショートソードでセイレーンの指を切り飛ばした。
赤と青の血をそれぞれに流し、彼女らの戦いは続く。だがそれにも限界がある。セラの背後で起こっているクラーケンとオミクロン聖騎士団の潜水艦とが闘う衝突音が次第に大きくなり、お互いが『今こんなことをしている場合ではない』と感じているのがわかった。
「ならば!」
セラは気迫を放ち、しかしショートソードを鞘に収めた。
セイレーンは困惑し、表情が一瞬美女のそれに戻った。まさかセラがひくわけがない、そう思っていたからだろう。
だが、セラにひくつもりなど一切なかった。
「精霊憑依術! ”深き森の獣”!」
セラの声に応じ、耳栓役を務めていた薄緑に光る精霊がセラの体内へと潜り込んだ。
一瞬、セイレーンはたじろいだ。この時点でセイレーンが襲いかかればセラは切り刻まれていただろう。
だがもう遅かった。
精霊憑依術は文字通り精霊を己の肉体と合体させる術だ。弓にかける”倍力弓”と同じように、エーテル体の塊である精霊を吸収することで全身の能力を引き上げる。
わずかな時間、セイレーンの足が止まった。次の瞬間にはセイレーンの背中にショートソード――否、鋭いセラの手刀が叩き込まれ、腹の側まで貫通した。
ぐぱ、とセイレーンの口から青い血が流れる。
「終わりだ、化け物め」
セラの頑なな意志が宿ったかのような手刀は次にセイレーンの首筋に走った。
青い血を噴水のように頸動脈から吹き出し、首なしのセイレーンはぐらりと倒れ、やがて血も流れなくなった。
*
「……な……なんでこんなに寒いの!?」
カルボは自分の肩をさすり、キャットスーツの防寒機能が正常に働いているかどうか確認した。
「いくら地下に降りたからってこの寒さは……おかしいな」とアッシュ。
ふたりとも吐く息は白く、震えて歯の根が合わない。まるで真冬――いや、それよりも寒さが厳しい。
「なにか、こう……体が温まるエリクサーみたいなものは?」
問われたカルボはうーんと唸って、「タバスコとか」
「……タバスコ?」
「ほら、野宿したときとかに役に立つかと思って」
アッシュは無理そうだと諦め、長く尾を引くようなため息を付いた。同時にこれ以上進むことが躊躇われる。こんな寒さを我慢してまで奥に行く価値があるのか?
カルボはキャットスーツの断熱効果を最大まで引き上げ、「たぶんだけど、マーマンの本拠地だよねここ」
「そう、だな」
アッシュは他のものに気を取られながら答えた。凍った廊下の中で、生臭い魚のにおいと、妙に香ばしい何かが焦げているにおいが漂っている。遅れてカルボもそれに気づいた。
「もしかしたら違うものの棲家かもしれない」
寒さよりもそのことが気になって、アッシュたちはもう少し廊下の奥まで足を進めた。
註:この世界にも「タバスコ」という名前の調味料が存在する。