第16章 07話 艦砲射撃
ザパ=リーンは自分の正気を疑っていた。
氷点を下回る小部屋にこもってすでに半年。
当初は骨身にしみる寒さへの悪態で日々の研究に費やすべき時間を奪われること甚だしかったが、今や寒暖を感じる生理機能さえ怪しく思える。吐く息の白さだけが自分の生を証明している。だが、近頃はそれも確証にはならないのではないかという妄想が、すでに幾重にも積み重なった妄想の丘に上乗せされる。あるいは、自分はもうとっくに死んで――。
いや、こんなことではいけない。ザパ=リーンはかぶりを振ってやるべき仕事の手順を整理しようとした。
仕事。そう、仕事だ。自分がこんな場所にいるのは……確か……やらなければいけないことがあるからだ。
目的。
目的が。
ここに来た目的を果たさなければ帰ることはできない。帰る……帰る? どこに……?
とにかく、目的を果たさなければ。
冷たく冷え切った机の上に乱雑に積み上げられた書物を開き、空中投影機のスイッチを入れる。魔力付与品であるそれは、現在までの研究で判明した事実を何もない空間に表示する。
「さあ……今日も一日がんばろう……」
ザパ=リーンはかすれた声を発した。誰に聞かせるでもなく。凍てついた小部屋にいるのはひとりだけ。
もうずっとひとりだけだ。
錬金術の複雑な実験は昨日ようやく成功させた。一昨日だったかもしれない。いや、もっと前……いやいや、それはまだ成功していないのかもしれない……ともかく、最優先で必要な作業は終了しているはずだ。ザパ=リーンは投影機の映し出すチェック項目を数度確かめ、実験の成功が妄想の産物でないと確認し、安堵のため息を付いた。息はまだ白い。自分はまだ生きている……。
ザパ=リーンは机の上に3分の1ほど中身の残っていたシリンジ式のエリクサーポッドを躊躇なく首筋に差し、ショットした。覚醒作用のあるエリクサーが体内をめぐり、倦み切った意識が急速にシャープになる。そうだ、私は狂ってなどいない……。
つい数分前とは打って変わったキビキビとした動きで、ザパ=リーンは己が開発した錬金術の成果を量産し始めた。
「これだよ、これこれ!」
自分ひとりにだけ聞かせるには少々大きすぎる声を上げ、あまり役に立たないエーテルヒーターの上に吊るしてあった防寒着に袖を通すと、小部屋のドアを勢い良く開け、雄叫びをあげた。
そこには彼にかしずく半魚人の群れがいた――。
*
ムルムル島周辺はちょっとした戦争状態に突入した。
アリオク海軍の軍艦5隻が島の西側に集結し、砲爆撃を加えた。エンチャンテッド砲身により加速され射出される砲弾が島全体を火の海に変え、各艦の僧兵たちが呼び出した天使たちが島に集まっていたマーマンとアンデッドを撃滅していく。
敵方もやられっぱなしではなく、マーマン・ウォーロックたちが魔術で対抗し、甲板に直接召喚した妖魔と船体よじ登るアンデッドが乗組員を殺害していった。
やがて砲爆撃が収まると、ムルムル島はほとんど焼け野原になり、島の形が変わってしまった。
だが自然破壊を云々している余裕はない。
どこかに潜んでいた幽霊海賊船が全くだしぬけにアリオク艦隊の背後から現れ、得意の捨て身接舷攻撃を仕掛けてきたのだ。
「はっはっは! この艦ロバートに取り付いたのがおぬしらの失策よ!」
モンクであるドニエプルにとって、アンデッドは不倶戴天の敵である。それに対応する手段も、龍骸苑開祖から連綿と受け継がれてきた洗練されたものである。
まずは”噴射の構え”からペイルマン・パイレーツの群れに飛び蹴りを食らわせ、ボウリングのように4、5体を弾き飛ばして海中に沈める。そこからペイルマンたちを投げ飛ばし、頭と胸の二ヶ所を念入りに踏み潰した。
実体の希薄な幽鬼には”聖炎の構え”で拳に体内エーテルを集め、ぶん殴る。
ドニエプルの八面六臂の活躍で、軍艦ロバートの海兵はほとんど無傷で済み、加えてアッシュたちの援護もあって被害は最小限に抑えることができた。
それでも幽霊船団の脅威は艦隊の一隻を中破させられるほどの効力があった。小型ゴーレムガレー船でそっと近づき、マーマンとアンデッドの混成部隊で自爆攻撃を仕掛けるなど、敵は十分考えた上で作戦を立手ているようだった。
「マーマンはともかく、アンデッドが規律を守るとは思えん」ロバートの艦長がアッシュたちに言った。「やはり何者かが操っているのは疑いようもない」
「操る……セイレーンの魔力ッスかね?」アッシュは船酔いのすっかり治った顔で言った。戦うことで船の揺れを感じなくなっているようだ。
「おそらくな。だが他の何者かが関与しているという可能性もある」
「そこで自分らの出番ってことスか」
「話が早い。ムルムル島は元々マーマンのテリトリーで、私たちは――アリオク市全体でという意味だが――不干渉を貫いていた。余計な衝突を避けるためにだ。マーマンもそれについては承知していたはずなのだが……」
アッシュは不敵な笑みを浮かべ、「ムルムル島に誰かが何かを仕出かしてマーマンとアンデッドの乗り込む幽霊海賊船団を作り上げた、と」
「そうだ。君たちには遊撃隊としてセイレーン、ないし敵を指揮している何者かを探すことを優先してほしい。我が海軍が敵をしらみつぶしにしている間に」
それが単純にマーマンたちと戦うよりも危険性が高い任務であることはアッシュも海軍もお互い了承済みだ。
アッシュたちは覚悟を決め、揚陸艇に乗り込んだ。
*
砲爆撃によって燃えた土と木々の匂いと、濃厚な磯の臭気。
それらの入り混じった臭いは到底心地良いものではなかったが、アッシュにとってそれほど重要な事ではない。
ここ数日悩まされ続けてきた船酔いから解放され地面を踏みしめる。足元が揺れていないことがこんなにも心地よいものものだったとは。
そんな中、全てを焼き尽くす爆撃の中で生き残ったマーマンや、死に損なったアンデッドがいた。復讐でもしようというのか、それらは走り出し一直線にアッシュたちへ躍り出てきた。
銛を持ったマーマンが、先頭に立つアッシュへ鋭い一撃を繰り出した。
運が悪い。
久々に自由に体を動かせるようになったアッシュはマーマンの動きが緩慢に見えるほど素早く腰のメイスを引き抜き、曲芸のようにトンファー状の持ち手を操った。銛の穂先は一瞬の交差で砕け散り、無防備になった胸骨に黒鋼のメイスを突き入れた。
ウロコの割れる音、骨が砕ける音。内蔵まで達した衝撃は青い血を巡らせる心臓まで届き、後ろに吹っ飛んで転がった。
次いで、おぼつかない足元で迫りくる燃えかけのペイルマンが現れた。
アッシュはそれらをひとりで叩き潰す。
「リハビリにもなりゃしない」嘯いて、アッシュはメイスを振ってウロコやペイルマンの腐った血を払い、腰のケースに入れた。
「アッシュ、こんなところで大暴れしてたらスタミナ切れちゃうよ」
カルボの心配する声に、普段であれば『安心しろ』で済ますところだ。だが船酔いで役立たずの状態のときに何くれとなく看病してもらった恩もある。ここはカルボに従った。
「この先何があるのかさっぱりわからないな」とセラ。「敵の本拠地らしきものも見えない。あったとしても爆撃でふっとんだのではないか?」
ドニエプルが首を傾げ、「それなら艦隊を襲う幽霊船団も動きを止めていいはずですが、そんな雰囲気はないですな……おっと、第2陣が来ましたぞ」
またもやマーマンの群れとペイルマン。それに加えて――。
「マリンエルフ!?」
化け物に混ざっているのは紛れもないエルフだった。それも明らかにアンデッドではなく、生きたマリンエルフだ。手に手に武器を持ち、あるいは少し離れた場所で呪文を唱えている者もいる。
「アッシュ、あれは――彼らはどうする?」
セラがわずかに狼狽した声で言った。マリンエルフとは生態も価値観も違うが、少なくとも同じエルフであることに違いない。果たして邪魔者と決めつけて排除することが正しいのか……。
「あのエルフさんたち」黒薔薇が黒目がちの目をぱちくりさせ、超精神術を使ってマリンエルフの姿を見た。「何かに操られていますわ」
「白百合もそう思います。脳エーテル波がむちゃくちゃですの。歩いているのに気を失っているような」
「テレパスも通じませんわ」
それを聞いて、セラは軽く唇を噛んだ。「これもセイレーンの仕業か?」
「おそらくな」とアッシュ。「歌で洗脳したってところか」
「とりあえず気絶に収めておきましょう」とドニエプル。
一同はその提案にうなずき、マリンエルフたちに手加減した攻撃を加えた。
*
気を失っていたマリンエルフの青年が、はっと我に返った。
「お目覚めですな」とドニエプルが穏やかな口調で言った。
青年は自分の置かれている状況が全くわからず、困惑してその場を逃げようとした。
「待て、私たちは敵ではない」セラが青年の肩に手を乗せ、落ち着かせようとした。「聞かせてほしい、君はなぜこんな場所に……ムルムル島にいるんだ」
「ム……ムルムル島?」
「そうだ」
「いや……わかりません。僕はその……単なる漁師で、明け方の漁にでたら、この……よくわからない事になって、こんなところに」
エルフの青年の表情に嘘はなさそうだった。
「よくわからないことってのは、どういう意味スか? できるだけ詳しく思い出してもらえませんかね?」
アッシュは下手に出ているのか高圧的に話を進めようとしているのかよくわからない態度でそう言った。
「ええと……本当にわからないんです。漁に出て……あ!」
「どうかした?」
「ふ、船を沈められたんです、だんだん思い出してきた。女の歌声がして、仲間がみんなおかしくなって、海に飛び込んだり酔っ払ったみたいになったり、船員同士で殺し合いが起こったりして……」
青年はブルブルと震えだした。脳裏にこびりついた恐怖の記憶が蘇っているようだ。
「……やはりか」セラは苛立ちを隠そうともせず言った。
「わたくしも聞いてみたいですわ」と黒薔薇がわきわきしながら言った。その格好は冗談のように水着姿だ。
「白百合もです」
「あなた、この島のどこから出てきたのかわかりますか?」と黒薔薇。
「どこかに隠れておいでだったのでしょう? そうでなければあんなに爆発して行きているのは不思議ですもの」と白百合。
青年は目を見開き、アッシュたちはそれ以上に驚いた。マスコットだと思っていた黒薔薇と白百合が、こんな質問ができるなんて。
「詳しくはわかりませんが、あの……燃えている丘の向こう側に大きな穴があって、シャッターがあって、そこに閉じ込められていた……と思います」
「よし、だいたいわかった」
アッシュは立ち上がり、宣言した。
「雑魚の掃除は兵隊さんに任せて、俺たちはその穴に向かおう」