第02章 02話 ミアズマ
翌朝。
地下水が流れて細い滝になっているところで顔を洗い、最低限の身だしなみを整えると、アッシュとカルボは昨日に続き巨神遺跡を下へ下へと降りていった。
「ねえアッシュ」
「なんだ?」
「あとどのくらいで着くかな?」
「今日か明日か明後日かってとこだな」
「ぜんぜんわからない」
「こういうのニガテなんだ。そっちこそどうなんだ。こういうのはシーフが得意って相場が決まってるだろ」
「地図見せて」
「ん」
「メモに書いてあることが正しいとしたら、ここを通らないといけないんだよね」
「どこ」
「”ミアズマ”がたまってて、危険な場所」
ミアズマとはエーテル――魔法の力の源のことだ――の性質が変化したもので、負の瘴気とも呼ばれている。人体に有害で、吸い込んでしまうと悪くすれば昏倒し、そのまま死んでしまうことさえある。そしてそれ以上に厄介なのが、負の力によって死者を蠢く不死者に変えてしまう”効能”があることだ。
「不死者か……」
地図を見る限り迂回しようとすれば大幅な時間ロスがあり、今の装備では途中で水や食料がきれてしまう。遺跡群の中でまともな食料にありつける可能性は低い。まともでない食料なら別だが――そんなサバイバル技術を発揮するよりは一度フェネクスの町に戻って装備を調整しなおしたほうがましだ。
「行ってみよう」
「ええ~?」カルボは豊かな胸の前で握りこぶしをつくって、不安げに眉を下げた。「大丈夫かな?」
「アンデットとの戦いならそれなりに慣れてる」
アッシュは左眉の古傷を指でなぞった。
*
谷を深く深く下るに連れ日差しは遠のき、代わりに冷ややかな空気が肌を撫でる。瓦解した遺跡ブロックの破片が散らばり、後ろの暗がりから何か良くないモノが顔を出してきそうな雰囲気が漂い始めた。
「この先が例の”ミアズマ溜まり”だ……っと」
アッシュは自分の胸辺りの高さがある段差を飛び降りた。傷だらけのプレートメイルがガシャリと音を立てる。
カルボもそれに続く。着地動作はなめらかで、柔らかいキャットスーツを着ているせいもあってほとんど音を立てない。さすがはシーフといったところだ。
「行こう。冷えてきた」
「うん。ミアズマ、なるべく吸い込まないようにしてね」
「ああ」
そのまま坂を降り続けると、紫がかったガスのようなものが足元を覆いはじめた。急激に、背中にじわじわと染みこむような悪寒がふたりを襲った。ミアズマの影響だ。
――さて、どう出てくるか。
アッシュは汚れたマントで隠した顔半分の下で、唇を湿した。あのクロゴールという男はよほど几帳面に調べ尽くしたらしい。ミアズマは実際にあり、そこには危険が満ちている。
「アッシュ!」
カルボが叫んだ。ミアズマの霧の中から、ずるうりと青ざめた男が立ち上がった。表情は虚ろで――というより両方の眼球がない。かわりに赤黒い炎のようなものが灯っていて、ついでに胸から下に大穴が開いている。明らかに生きた人間ではない。
死んだ盗掘者か何かが野生動物に内臓を食われ、その死体がミアズマの中に転がっていたのだろうか。いったいいつからそうしていたのかはわからない。何年か、何十年か、もしかするとそれ以上前からミアズマにつつまれて土に帰ることもできず、生者のにおいが近づくのを待っていた……。
「ききき気持ち悪い……」
カルボは眉をひそめて一歩下がった。
「アンデットは苦手か?」
「好きな人っているの?」
アッシュが答える前に、アンデットの男がぬうっと両腕をつきだした。狙いはアッシュの喉だ。首を絞めようとしている。
が、そこまでだった。
死ねない死者がいったいどれほどの期間ミアズマの力で縛り付けられていたのかわからないが、その年月はアッシュのメイス一閃によって崩れ去った。脳天にメイスを叩きこまれ、頭蓋骨が砕け散ったのだ。
「うぎゃ~! 気持ち悪い!」
カルボが叫んで、アッシュの袖を掴んだ。砕けた頭蓋骨の中からどす黒いヒルの群れのようになった脳みそがズルズルとこぼれ落ち、そのまま身体も融けてしまった。ひどい光景だ。
「行こ! もう早く通り抜けようよ!」
よほど堪えたのか、カルボは必死になってアッシュを促した。ミアズマ溜まりは標準的な球技場ほどもある。その中に青ざめた男がひとりきり、というわけではないだろう。現にふたりの周辺からはうめき声が弱々しく聞こえ、ミアズマの霧の中で何かが立ち上がろうという気配が渦巻いていた。
「わかった。コケるなよ」
「大丈夫、身の軽さには自信があるから!」
と言った途端にカルボはすっ転び、ミアズマの霧の中に倒れこんだ。
「カルボ!」
アッシュはすぐに助け起こそうと駆け寄った。カルボの足首には青白い手が絡みついていた。ドジではなく、転倒させられたのだ。
耳障りなうめき声を発しながら青ざめた不死者はカルボにのしかかるようにして闇の中に引きずり込もうとしている。
「この!」
アッシュはカルボの足首を握りしめた手を踏み潰し、メイスを顔面に突き入れた。嫌な音を立てて首が後ろにちぎれ飛ぶ。
「いわんこっちゃない」アッシュはカルボを立ち上がらせた。
カルボはごほごほと咳込んで、「うー、ちょっと肺の中に吸い込んじゃった……」
「ちょっとくらいなら大丈夫だ。それよりも」
「……それよりも?」
「立ちふさがるヤツは叩き潰す。そっちの方が手っ取り早い」
アッシュの言葉にカルボはあからさまに難色を示したが、抗議する前に飛び出していってしまった。
「もう! どうなっても知らないからね!」
結局カルボもあとに続いた。ミアズマの只中でじっとしているよりはマシだろう。
そうこうしている内にペイルマンや、完全に肉も皮も腐り落ちた動く骸骨が現れる。
「綺麗さっぱり叩き潰してやりますんで、かんべんしてください亡者のみなさん」
アッシュはアンデッドの群れにむしろ歓喜しながら飛び込んでいった。
*
「無茶しすぎだよぅ」
なんとかミアズマ溜まりを抜けた、カルボはスケルトンに引っかかれたアッシュの頬に傷薬のエリクサーを塗ってやりながら、唇を尖らせた。
「あんな数のアンデッド相手にしてたら死んじゃうよ?」
「そりゃ悪かった」アッシュの声は心ここにあらずという感じで、「ああいうの、ちょっと久しぶりでな。ふふ、興奮した」
「興奮って……」
「人間相手よりアンデッドを叩き潰すほうが楽でいい。元々死んでるから」
「そういうものなの?」
「ん? まあ……なんというか、そうなんだよ俺の場合は」
アッシュは自分が元聖騎士であることをつい明かしそうになっていた。かつては闇の亡者を消し去るプロフェッショナルだったなどということは――別に喋ってしまっても構わないが――そうなると蒸し返したくないことまで話さないといけない。遺跡にアタックしている最中に余計なことをカルボには言いたくはなかった。
「とにかく、ここを超えればあとは大した障害もないはずだ。急ごう」
*
「これは……」
アッシュは石造りの巨大な立方体を前に、頭がくらくらする思いだった。
今まで渡ってきた遺跡ブロックもそうだったのだが、巨神の遺跡はその名の通り巨神がいた場所であり、巨神が使いやすいようにブロックが積み上げられている。だから柱の高さも普通の人類種が建てる建築物のおよそ五倍はあるし、出入りする扉も同じくらい大きい。
だが巨神の遺跡としてはこれでもまだ小さい方なのだ。
はるか太古、巨神類が世界の支配者として過ごしていた長い長い10万年という年月の中には、ほとんど想像を絶する大きさの巨神が暮らしていたこともあった。人間のスケールの10倍、20倍、あるいはもっと巨大な個体もいたという考古学的資料もあるという。
だから、西メラゾナ巨神遺跡群はまだ人類種の理解が及ぶ範囲の大きさといえる。
「このどこかに”金の指紋”を使う場所があって、そこから中にはいればいいんだよね?」
「手分けして探そう」
アッシュは落ち着いた風を装いながらも、巨神文明のとてつもなさに胸が踊った。