第11章 07話 来る
沼エルフは数あるエルフ属の中でも特に大らかで、その生活も原始的、あるいは素朴なものである。
沼地を自由に動くためにその手足は大きく、水かきがある。泳いだり潜ったりしやすいよう肌は滑りやすく、大きな丸い目には水中や泥の中でも見えるように瞬膜がある。火を炊くことはほとんどなく、捕まえた魚は小さな祭壇の上に乗せ精霊と分かち合う。このとき精霊の力が発揮され、汚れた泥や寄生虫が綺麗に抜けてナマのままでも食べることができるという。
小集団で行動し、自分たちの生息域を侵犯される以外のことはほとんどのことを受け入れ、また同胞とみなした者は人間もエルフも関係なく協力を惜しまないという。非常に”出来た”エルフなのだ。
現在ガープ王国の湿地帯に住むスワンプエルフはフォレストエルフの庇護を受け、交流を持つとともに、ガープ王国が居住地を汚すことのないよう見張っている。
これがいま現在スワンプエルフが置かれた状況である。
彼らはフォレストエルフのように偉大な血族を奉じるプライドの高い者たちではない。だが当たり前のこととして身に危害が及べば抗うし、同胞や友人が傷つけられることを見過ごすことはない。
だからその日の夜もスワンプエルフは自らの居住地を死守しようとしたし、協力体制にあるフォレストエルフたちも手を貸した。そして、ガープ王国側の人間たちも。
エルフも、人間も、誰も、その日の夜までわすれていた。
湿地帯の住人は、彼らだけではなかったということを。
*
ドニエプルはアッシュ、カルボを送り出したあと軟禁状態に置かれていた。
ガープ王国の会談場となる帷幕から少し離れた、あまり衛生的ではないテントの一角がドニエプルに与えられたスペースだった。
靴を脱いで寝台の上にあぐらをかき、瞑想に耽るうちに時間は過ぎる。行者である彼には、たいていの苦難は”修行”であると考えることで受け入れることができた。この程度の待遇は特別苦しいうちには当たらない。
アッシュたちが黒薔薇のため解毒剤を持って商業都市ヴィネに向かってからおよそ一週間が経過している。
基本的にテントから出られないドニエプルには外の様子はわからない。エルフと人間の会談の様子もだ。空気の緊張感は会談の始まり頃よりも緩んだ気がするが、具体的な内容はわからない。
「会談は順調なのですかな?」
食事を運んできた兵士にストレートに尋ねてみた。ドニエプルは行者である。つまり僧侶だ。小細工を弄するよりも正面から質問をぶつけたほうがいいと判断した。
偶然にもその兵士は龍骸苑の信者であり、うまく話を聞くことが出来た。とはいえその兵士も下っ端の一兵卒であり、噂ぐらいしか知らなかったのだが。
他にも数人からこっそり聞いた情報をドニエプルなりにまとめると、どうやら会談そのものは上手くいったらしい――つまりフォレストエルフ側は泥中の巨神文明遺跡の発掘を人間側に許し――ついでにスワンプエルフを発掘の支援として送り込むことも――泥炭の採掘に関しても採掘箇所をずらすことで譲歩した。かわりにガープ王国側はエルフ側の自治権を現在より拡大するということでまとまったらしい。
相互に譲歩し、相互に権利を得たという落とし所なのであろう。
ドニエプルは政治のことはさっぱりだが、平和裏に終わるのならばそれでいいという考え方である。
大切なことは日々の修行であり、修業の成果を後世に残すことである。はるか数千年、数万年の時を超える龍の骸のように強く、深く。龍骸苑の教えであり同時にドニエプルの生き方そのものだった。
ドニエプルには疑問が残った。
会談が大筋合意に至ったのであれば、それ以上長々と議論を続ける必要はないのではないか。至極まっとうな疑問である。
「それが、どうも別の危急の用件があったらしく、議題がそちらに移っているらしいんだ」
「危急の用件ですと?」
ドニエプルは面食らって、同時に兵舎テントの中に緊張感が霧のように流れていることを感知した。気のせいか、これはいくさの匂いだ。
――いくさ? ガープ王国側もフォレストエルフ側も、話がまとまったのではないか? 両者が戦う必要など無いはずだ……。
と、急にドニエプルの下っ腹が無意識に引き締まった。
「こいつぁ、いかんな」
ドニエプルは自分の両腕の手鎖をみた。セラ=ヴェルデに付けられた精霊の手枷ではない。
「まあ、緊急事態ということだ。許されよ」
そう言って、ドニエプルは手首をひねり、いともたやすく手鎖を壊した。魔力付与品でもない限り、オーラを両腕に集めればさして難しいことではない。
巨躯とは思えないスピードで兵舎テントを抜けだした、次の瞬間。
夜空を赤く染める”炎の槍”がテントに次から次へと突き刺さった。
襲撃だ。
*
一方、商業都市ヴィネ、ヒューレンジ邸。
「白百合!」「黒薔薇!」
手に入れた解毒剤を注射した途端、黒薔薇はウソのように回復し、大切な自分の半身と抱き合った。
アッシュとカルボは心から安堵し、膝から力が抜けるような心地だった。
「よかったね、黒薔薇、白百合」とカルボ。
「はい……」「本当に」「ありがとう」「ございます」
とは言え二週間近く高熱に苦しめられた身である。体力は弱っていて、まだしばらくは療養を続けなければならなそうだ。
「こちらのエルフは?」と盗賊ギルド”青い葉”元締めであり、カルボの実の父でもあるヒューレンジが尋ねた。
「セラ=ヴェルデという。少々細かい経緯があり、ここまで走ってきた次第」
それよりも、とセラ=ヴェルデはアッシュとカルボを振り返った。
「速く戻らねば、あの大男は危ないのではないか?」
「そうだな。装備を補充次第ガープ王国に戻ろう」
「エルフ自治領だ」
「ガープ領地内の自治領だろう?」
「確かにそうだが、独立戦争をしかければ血が流れる。ゆえに我らが温情から割譲したに過ぎない」
「そんなことを言ってもだな、世の中はそうは見ちゃくれない……」
「はいはいそこまで」カルボはいきなり討論を始めるアッシュとセラ=ヴェルデを諌めた。「今はそんなことよりドニエプルを助けに行きましょ。半日休んだら出発ってことで、ね?」
アッシュもセラ=ヴェルデも反論はなかった。乗っていたのが半生体馬と浮き馬だったとはいえ、ずっと鞍の上で座りっぱなしというのはなかなか堪えるものがあった。
それぞれがヒューレンジ邸のベッドやソファに体を横たえると、すぐに寝息を立て始めた。
――娘の友達、か。
ヒューレンジは妙な感慨にふけった。カルボが家に友人を連れてくることなど今までなかったはずだ。きっと家出の時期に何か多くのことを学んだに違いない。だとしたら自分は父親失格だな――と。
それならせめて娘の仲間たちに出来るだけの援助をしておこう。
ヒューレンジは、今はそのことだけを考えた。
*
再びガープ王国北部大湿地帯、会談場のある帷幕。
闇夜の中から破壊呪文”炎の槍”が降り注ぐなどという事態を想定していなかった外交官マル=ディエスは、まさかフォレストエルフからの攻撃かと寝台から跳ね上がり、帷幕の外へ飛び出した。
だがそこにいたのはエルフたちではなかった。もっと厄介なものだ。
ウロコに覆われた体躯。頭には色も形も違う鶏冠。長く野太いしっぽを使って素早く動き、手には原始的な槍や斧。
「リザードマンだ!」
兵士たちの誰かが叫んだ。
「撃て、クロスボウ持って来い!」
リザードマンに対処しようと武装を取り出そうとした男が、リザードマンの投槍によって背中から心臓まで突き刺されて死んだ。
別のリザードマンは片手に持った松明でところかまわず放火し、帷幕はにわかに混乱の極みに投げ込まれた。夜中の襲撃である。完全武装の兵士は歩哨くらいしかおらず、他の兵士たちは武器を身につける時間はあればこそ、鎧まで着込んでいる時間はない。一刻も早くリザードマンのうごきを止めなければ、最悪中央の帷幕が燃え尽きてしまう。
「このぅ!!」
槍を持った兵士が、訓練通りの動きで穂先を喉元を狙って突き入れた。
「シャガガガ」
リザードマンの耳障りな声。焦げ茶に白の筋が入った人型トカゲは、青黒い舌で口の周りを舐めた。石斧のような原始的な斧で槍を防ぎ、逆に力任せで槍を中頃からへし折った。
兵士は驚きながらも何とか腰の剣を引き抜いて、果敢にリザードマンへと挑んだ。が、反対に兵士は思い切り突き飛ばされ、テントの布にぶち当たってビリビリと引き裂いてしまった。
尻尾だ。
リザードマンの重心を支える三本目の足であり、くるりと回って叩きつければ回し蹴りを叩きこむがごとき威力を持つ。胸甲をつけていない人間がまともに食らうとそのダメージは内臓まで響く。
「シャガッガ」
「シャーガガッ」
ふたりのリザードマンが、ほとんどの人間には判別不能の声を上げ、何らかのコミュニケーションを取った。リザードマンたちはふたり揃ってどこかへ駆け出した。
その先には、避難の最中のガープ王国外交官、マル=ディエスの姿があった。