第11章 06話 沼の中からこんにちわ
セラ=ヴェルデの尖った耳がひくっと動いた。
「妙な気配がする」
独特の発声法で、その声は三頭分の蹄の音が響いていてもアッシュとカルボの耳に届いた。
前を走るアッシュは小さくうなずき、セラ=ヴェルデに並走するカルボはそれとなく周囲の状況を見渡した。目端の利く女エルフと同じように何かを察知していたらしい。
駆け足で走る半生体馬と浮き馬は、十分な性能を発揮すれば生身の人間には追いつくことが難しい。追跡側が”長距離加速”の呪文を使えば別だが、そこまでしてアッシュたちに追いつこうとする人間もしくはエルフがいるとは思えなかった。解毒剤を運んでいるだけの三人の後をつけても何かの得があるだろうか?
逆に人間かエルフの味方が追いつこうとしている――というのは現実味に乏しい。何らかの伝令があるのなら声をかけてくるなり呪文でコンタクトを取ってくるはずだろう。
そうなればこの気配はいったいなんだ?
等間隔をとり、近づくでもなく遠ざかるでもなく発散される気配に、アッシュたち三人は緊張を強いられた。
大湿地帯、エルフの森、そして泥炭採掘と巨神文明の地下遺跡。縄張りと所有権を主張しあう大切な時期である。何らかの裏があってもおかしくはないのだが――やはり”人の気配”は感じない。
もしや”見張りの魔の目”――文字通り魔法的な眼球を生み出し、対象の場所や人間を監視し続ける呪文――を放ったのかもしれない。
「駆け足で行けばあと3時間で湿地帯を抜ける。放っておいて進もう」とアッシュ。
「いや、邪魔者は邪魔をしている間に消すべきだ」とセラ=ヴェルデ。
「一旦止まって馬を休ませない? この子たちも走り通しで疲れてると思うし」とカルボは馬の首から肩にかけて撫でていった。
三者三様、意見の筋は通っている。折衷案として、だく足でややゆっくりと進みつつ、追跡しているらしき何者かの出方をうかがった。
「もしフォレストエルフなら」アッシュは水筒からわずかに水を口に含み、飲み下した。「フォレストエルフの追跡だったら。弓矢で射殺されるかもしれないな」
そんなことはありえない、とセラ=ヴェルデは即座に否定した。
「私は幹事(註:フォレストエルフ内の階級のひとつ。ここでは”上司”程度の意味)に裁可を仰いで貴殿らに同行している。私を巻き込んで射殺するような真似はありえない」
セラ=ヴェルデは鼻息を荒くした。どうやら、フォレストエルフとしての誇りにとやかく難癖をつけられるのを極端に嫌うらしい。
「そうだな」
アッシュはそう言って、大湿地帯に細々伸びる道の左右に視線をやった。それならいいんだが、と口の中だけでつぶやく。セラ=ヴェルデの話を100%信じるほど単純にはなれない。
「むしろ人間の追手ということは考えられないのか?」とセラ=ヴェルデ。
「かもな」アッシュは言った。「可能性だけ言うなら、誰が追ってきても不思議じゃないが……」
と、言葉の途中で元聖騎士は何かを見た。
「セラ=ヴェルデ」
「何ごとだ? まさか本当に人間の追手が?」
「そうじゃない。どうやら人間でもエルフでもないらしい」
「どういうこと?」とカルボが鞍から乗り出した。
「左後ろの池を見てみろ。そーっとな」
アッシュの言葉に、人間とエルフの女たちはわずかに首を曲げてその方向を見た。
「あれは……”将軍イモリ”か。普通の個体よりずいぶん大きいな」
セラ=ヴェルデはエルフの森をすみかとし、多くの同胞と同様にあまり外に出ることはない。それでも森の周りに広がる大湿地帯に、その手の”大物”が生息していることくらいは常識として知っている。それらの巨大両生類や爬虫類が、人間やエルフを襲うことがあることも。
だが、将軍イモリとて自分より大きな馬に乗ったヒトをむやみに襲うほど無軌道ではない。よほど腹をすかせているか、さもなくば……。
「まってセラ=ヴェルデ」カルボがまた鞍から乗り出した。「あの大きさ、普通じゃないよ」
「だから、将軍イモリはもともと大きいんだ……が?」
セラ=ヴェルデもその違和感のわけに気がついた。
湿地の池の中から顔だけを見せている将軍イモリの後ろに小さな山のように水面から盛り上がった何かがヌラヌラとした肌を晒していた。
「あれは!」思わずセラ=ヴェルデは浮き馬の鞍の上で叫んだ。「イモリ巨人!?」
セラ=ヴェルデの声を合図にしたように、巨大イモリの面々はアッシュたちめがけって一斉に走りだした。両生類の何を考えているかわからない目だが、どうやらグレーターニュートマンに周りのイモリが操られているらしいということはなんとなくわかった。
「おいおい、本当にでかいな」
半生体馬から飛び降りつつ、アッシュはイモリ巨人の大きさに呆れた。巨漢であるドニエプルのさらに頭ひとつ分は大きいだろうか。
「くっ……まず私が射つ、残ったものを貴殿らが頼む!」
セラ=ヴェルデはいうが早いが背中に回していた長弓を引き絞り、わずか一呼吸の間に三本の弓を放ち、全部の矢を命中させた。
次いでカルボが試験官型エリクサーの蓋をひねりイモリ軍団達に手前に向け遠投した。エリクサーのポットが地面に落ち、水没した途端、爆発的な水柱と白煙が立ち上った。ナトリウムをベースにした水場用の爆発エリクサーだ。
人間と同じくらいの大きさがある将軍イモリが面白いように高々と跳ね上げられ、湿地に落ちて動かなくなった。
「おお、すげえな」
アッシュは子供のように興味深くエリクサーの爆発反応をみて感嘆の声を漏らし、それから腰の革ケースに入れた鋼鉄のメイスを引き抜いた。
「あのデカブツを殺る。援護、頼むぜ」
返事を効くこと無くアッシュは馬の鞍を使って思い切り跳躍し、イモリ巨人に向かって一直線に走りだした。
*
数時間後、エルフの森。
森の奥に隠された、ささやかながら美しい”深緑の館”と名付けられた建物の中に、ガープ王国側との交渉が明けたカム=ラムカム特使と数人の幹事、そして館の主である大幹事が集まっていた。
「……では、まだ決着がついていないと?」
皺に埋め尽くされ、驚くほど長いヒゲを持つ老エルフ――大幹事ジラ=ゴラオンがしわびた声で言った。
「力及ばずお恥ずかしい限り。さすがはマル=ディエス。舌鋒鋭い男です」
カム=ラムカム特使は大幹事にフォレストエルフ風陳謝のジェスチャーを示した。朝から休憩を挟んで12時間。晩餐会も開かれない。ハードな交渉の場であった。カム=ラムカムの顔色にはやや疲労が滲んできた。
「主張は平行線か」と幹事のひとり。
「いえ、先方からひとつ打診が」
カム=ラムカムは今日行われた会議の膨大な資料を随伴員に命じて取り出させた。円卓の上に大湿地帯とエルフの森、ガープ王国領地が書き込まれた白地図をひろげ、その一点を長い指で小突いた。
「問題の泥炭採掘ポイント――そこから偶然掘り出された巨神文明遺跡ですが、その発掘に泥エルフの手を借りたいと。十分な対価を支払い、かつ遺跡を早急に発掘し、その上で現状の採掘ポイントを拡大、移動する。互いの益になる方向性をもっと広く考えたいという提案でした」
「なるほどのう」大幹事ジラ=ゴラオンはため息を付き、「先方は泥炭の採掘を諦めはせんだろうな」
「やはり問題は巨神文明の遺跡です。われらの伝承では触れるべきでないとされていますが……」カム=ラムカムは含みを持たせた。
「なんだね?」
「私はむしろ、完全に遺跡を暴いてしまったほうがいいように思います。つまり……」カム=ラムカムは白地図の遺跡ポイントを指さして「我々フォレストエルフの遺跡に触れるべからずという主張を支える根拠は、われらの伝承だけしかありません。彼ら人間にとっては単なる古い言い伝えの墨守だと思われている。これが決定的な齟齬を生み出している」
深緑の館はカム=ラムカムの提案にざわついた。先祖の言葉に従うべきという守旧派。人間との係争をこれ以上続けるくらいなら妥協すべきであるという折衷派。むしろ人間よりも先に遺跡調査のイニシアティブを取りに行くべきだという急進派。幹事たちは自らの行動を定めるべくバラバラに論議を始めた。
これは時間がかかるな、とラム=ラムカムは睡眠時間が削られることを覚悟した。
*
時間は前後して、アッシュたちの戦いの現場。
「これで全部かな」
最後の力を振り絞るように脛に噛み付こうとした将軍イモリの頭部を踏み潰し、アッシュは体液のベットリ貼り付いたメイスを払い、腰の革ケースに収めた。頬から伝った返り血がつうっと口の中に入って、思い切り唾を吐いた。
「結構エリクサー使っちゃった」
「途中で買えるとこあったか?」
こともなげに言葉をかわすカルボとアッシュに、誇り高きフォレストエルフのセラ=ヴェルデは目を白黒させた。
強い。
女のカルボの方こそエリクサーありきのものだが、男の方のアッシュはメイス一本でほとんど独力でイモリ大巨人を叩き潰してしまった。そんなことができる森の同胞はそう多くはない。
「なあセラ=ヴェルデ」
「……何だ」
「このイモリ軍団、大湿地帯にはそこら中にいるものなのか?」
「いや、そんなことはない。大型のイモリは確かに大湿地帯に住む獣だが、もっと水気の多い場所に住んでいるはずだ。森のもっと南側の……”腐れ沼”と呼ばれているほうに」
「腐れ沼?」
「文字通りだ。水が淀んで沼になって、瘴気(註:エーテルが性質変化を起こしたもの。環境や生物を侵食する毒気)が漂っている。湿地の北側ではあまり目撃例はない」
「じゃあこいつらはたまたま北の方へ迷い込んできたってわけか」
「そうかもしれない……が」と、セラ=ヴェルデはちらりとカルボの方を見た。
「アッシュ、今はそれよりも解毒剤を早く届けないと」とカルボ。
「そうだな」
アッシュ、カルボ、セラ=ヴェルデはそれぞれの馬に乗り、さらに北の商業都市ヴィネに向かった。