第10章 13話 猛毒
最後に残ったひとりの暗殺者は、背後から毒付きのナイフでアッシュの喉元を狙った。
メイスでは間に合わない。とっさに上げた左の前腕がガキリとナイフを受け止めた。アッシュ特注の鎧は肩から拳までの装甲を重視して作っている。至近距離からのナイフ一本程度では切り裂けない。
ナイフを受け止めた隙を付き、暗殺者のつま先を目一杯踏み潰そうとしたがこれは外れた。小柄な暗殺者はすぐに後ろに飛びのいた。
――手強い。
アッシュは奥歯を噛み締めた。他の暗殺者も決して簡単な相手ではなかったが、この背の低い暗殺者は別格だ。間合いの取り方がうまい。こちらからメイスで殴りに行くにはどうやっても一歩近づかないと届かない位置。先手を打とうにも動作を悟られてしまう。
「アッシュ殿!」
ドニエプルが大声を上げながら暗殺者をアッシュとふたりで挟み込む位置まで走ってこようとした。
「待て、ドニ!」アッシュがそれを制した。「お前の僧服じゃ毒を防げない、近づくな!」
キュッと音を立ててドニエプルの足が止まった。ドニエプルは単なる力自慢の男ではない。龍骸苑の行者であり、心身のエーテル制御と近接戦闘のエキスパートなのだ。
「錫杖でも持ってくればよかったですな!」
肩で息をしながらの冗談に、アッシュは答えている余裕が無い。
その瞬間に来た。
左の袖口から、太いワイヤーのようなものがするりとこぼれた――かと思うとそのワイヤーはアッシュの顔を狙って飛んできた。メイスで受け止めるのではなく横っ飛びに交わしたのはギリギリの野性的勘だった。
ワイヤーの鞭にも毒が仕込まれていて、もしメイスで止めていたら毒の飛沫が飛んで顔にかかっていただろう。目鼻に入ればそこで終わってしまうところだった。
――こいつ、いくつ手を残している!?
アッシュは攻めあぐねた。
簡単に頭をふっ飛ばして終わりという相手ではない。毒を受けないようにしつつ、隠し武器での反撃を食らわないようにダメージを与える……。
「アッシュ!」
思案を打ち破るようにカルボの声。
盗賊ギルドの娘はベルトのホルダーから大ぶりの缶入りエリクサーを取り出し、躊躇なくそれを吹いた。内部のガスの圧力で振り撒かれたそれは糸状の粘着性エリクサーで、対象にへばりついて自由を奪うという見た目も効果も蜘蛛の糸に似ている。
普通ならこれを浴びて足止めを食らうところだろう。
しかしその暗殺者はまさしく特別で、初撃の糸の先が届くより早く垂直にジャンプ、天井の照明を掴んでぶら下がったのである。
「ウソっ!?」
カルボはただでさえ大きな目をさらに丸々と見開いた。廊下の照明までは暗殺者の身長の4倍近くある。シーフとして訓練を積んだカルボも跳躍力には自信のある方だったが、これは桁違いだ。おそらく単純な筋力ではなく、エリクサーを使っているか、ドニエプルと同じように体内のエーテルを操作しているに違いない。
信じられない面持ちで天井を見上げていたカルボは、次の瞬間アッシュに抱きかかえられて思い切り押し倒された。
「ぁ痛っ!」
後頭部を打って悲鳴を上げるカルボは何がなんだかわからなくなったが、自分の体の上にアッシュがのしかかっていることだけはわかった。彼の左手が、豊かな胸を思い切り掴んでいることも。
頭の回路が一度断線したカルボは、ほんの一瞬前まで立っていた場所に霧吹きのように毒が降り注いできたのを見て正気に戻った。もし先ほどの状態で口をあんぐり開けていれば、間違いなく毒の餌食になっていただろう。
「大丈夫か?」
「う、うん。私は大丈夫」
「アイツが何を隠してるのかわからない。エリクサーを使うなら死角を突くんだ。いいな?」
カルボがうなづくと、アッシュは立ち上がり、カルボの手を掴んで起き上がらせた。
再び暗殺者との対決に臨むアッシュの後ろ姿を見ながら、カルボは自分の胸を押さえた。
「おっぱいさわられた……」
つぶやきは緊迫の中に溶けて、誰にも聞こえなかった。
*
ワイヤー鞭、投げナイフ。小型の投網。
いずれにも毒が仕込まれ、アッシュには近づく余裕が生まれない。
最後の暗殺者が手強いことは疑いようがない。しかしドニエプル、カルボそしてアッシュに三方を固められ、隙あらば攻撃を加えようとする状態が長くに及べばいくら強敵であろうとも限界は来る。
「おらァ!」
アッシュの叫びとともに繰り出されたメイスが暗殺者の毒ナイフを叩き折った。
暗殺者は代わりの武器を取り出そうとするが、そこにカルボのスプレー式火炎放射エリクサーが見舞われる。かと思えばドニエプルが食堂から持ちだした椅子をぶん投げて次の動作を牽制した。
「諦めたらどうスか、そっちに勝ち目はねーッスよ」
アッシュは連続する瞬時の攻防ですっかり息が上がっている。覆面の暗殺者も同様だ。
アッシュは暗殺者が降伏などしないと読んでいる。やるとすれば逃走か、あとは……自爆だ。爆薬エリクサーを使えば、小規模でも死体がバラバラになって正体を確かめることが難しくなる。大規模ならば――アッシュはつばを飲み込んだ――大規模なら、この場にいる全員が巻き添えを食うことになるだろう。
――だったら!
アッシュは暗殺者との距離を一気に詰めた。
暗殺者はここぞとばかりに投矢を懐から取り出し、一瞬の間もなく投げの体勢に入った。
そこがアッシュの狙い目だった。
つい先程カルボから借り受けたスプレー式糸状粘着エリクサーをダートを持った腕に吹きつけた。
覆面の奥からでも暗殺者の焦りが伝わってきた。指とダートが絡まって投げることができない。これで片手は封じた。
「ドニ!」
「承知!」
アッシュとドニエプルの挟み撃ちが炸裂した。アッシュのメイスが暗殺者の顔の直前を通過し、スウェーしたところをドニエプルの豪腕が後頭部に叩きつけられたのだ。
さしもの暗殺者もこれには耐えられなかった。糸が切れたように膝から崩れ落ちる。
ようやく――これで終わりだ。
*
「なんとか」「かんとか」「うまく」「行きましたね」
黒薔薇と白百合はやっと緊張から解き放たれ、ふたりで抱き合っている。
「ヒューレンジ様!」
おっとり刀で邸内の警護を担当する黒服たちが集まってきた。来るのが数分遅い。全て片付いたあとの彼らの仕事は、暗殺者たちの武装を剥いで、危険をなくしてから縛り上げることだ。
アッシュは気の毒に思った――縛り上げられた暗殺者は、すべての事情をどんな手段を使ってでも吐かされるだろう。盗賊ギルドのそれは、おそらく相当陰湿に違いない。
アッシュはその場に座り込み、緊張の連続で消耗した気力を回復させようとした。額の汗を拭おうとしたが、前腕から拳を覆う金属鎧に邪魔されてうまくいかない。
「アッシュ殿」
ドニエプルが気を使って小さめのタオルを差し出してきた。気が利くドニエプルに感謝しがら汗を拭いたが――。
くさい。
ドニエプルの汗が染み込んでいるらしい。好意を無駄にするのも悪いので軽くぬぐうとすぐに返した。
「一応はこれで一安心か……」
半ば死を覚悟していたヒューレンジは廊下の床から立ち上がると、タイを締め直して皆に礼を述べようとした。
だが。
まだ縛り上げられていなかった小柄な暗殺者が、腕にクロスボウを装着していた。
完全に死角だった。
アッシュは廊下に座り込み、カルボとドニエプルも緊張から解き放たれてすぐには動けない。ジョプリンは暗殺者相手にスリを仕掛けるという恐ろしく緊張する行動をとったせいか、いまだにぼんやりとしたまま口を開けさえしない。
「危ない!」
ヒューレンジはありったけの声量で叫んだ。
この状況。ヒューレンジ自身を含め、誰が狙われてもおかしくない。
暗殺者は躊躇をしない。
殺すときは殺す。
狙いはやはりブルーハーブ元締めであるヒューレンジ。たとえ暗殺者集団が全滅しようと、ブルーの元締めが死ねば大混乱が起きるのは目に見えている。レッドトップを追い詰めたというのにそれが全てひっくり返されるかもしれない。
ヒューレンジは何があっても射られるわけにはいけないと理解していたが、体が追いついてこない。時間の感覚が何倍にも引き伸ばされ――暗殺者は躊躇をしなかった。
誰もがどうすることもできないままクロスボウから毒の染みこんだ矢弾が放たれ――しかし間一髪、ヒューレンジからコースが外れた。
だが。
「あうっ!」
少女の苦悶の声がした。
矢弾はヒューレンジから外れた。そのコースは微妙に斜めにずれ――。
黒薔薇の脇腹に突き立った。
*
「……」「黒薔薇?」「……」「いったい」「……」「起こったのですか」
白薔薇の震える声。いつもなら精神感応でつながって喋る言葉が、白百合の声しか発せられない。
最初に動いたのはアッシュだった。床に横たわった暗殺者につま先を叩き込み、覆面を剥いでからメイスを叩きこもうとした。黒薔薇はパーティの一員だ。大切な仲間だ。血をもって償わせなければいけない。
だが、覆面の下の顔を見て、珍しく――本当に珍しくメイスの動きを止めた。
レッドトップ総元締め、シティエルフのダン=ジャリスその人だったからだ。