第10章 12話 暗殺者襲来
暗殺者がゆっくりと己の懐に手を伸ばした。
瞬間的にアッシュは選択を迫られる。
次に何をするのか確かめること無くメイスで突撃するか。
出方をうかがって、安全に片付けられる手段を構築してから攻めに回るか。
この局面でアッシュが選んだのは後者だった。アッシュ、ドニエプル、そしてカルボがひとりの暗殺者を取り囲んでいる状況なら、単身飛び込んで危険を拾うことはあるまいという考えだ。
が、意思疎通が取れない状況ではその選択は最良とは限らなかった。
「むぅん!」
暗殺者の斜め背後にいたドニエプルが、後ろからのタックルを決めたのである。
暗殺者は体を捻ってそれを回避しようとしたが、巨漢のドニエプルは覆いかぶさるような動きで逃げ場を封じ、幅広の肩を思い切りぶち当てた。暗殺者は大きく前につんのめり、押し倒された。
当初のプランとは違ったが、標的を止められるならなんでもいい。
それよりもヒューレンジの命が最優先だ。
アッシュは後のことはドニエプルに任せ、ヒューレンジと黒薔薇、白百合たちが身を潜めた廊下側に向かった。
バン!
突然の爆発音。
さっきの暗殺者か? いや、そちらではない。廊下側の窓が砕け散り、そこから新たな賊が侵入してきたのだ。アッシュは唇を噛み締めた。先ほど暗殺者が懐で何かを取り出そうとしていたのは、こちらには聞こえない警報装置か何かだったのだろうか。それを合図に新たな暗殺者が入り込んできたと?
考えていられる状況ではない。4人、いや5人の増援も最初の暗殺者と同じく黒ずくめで、身のこなしがあきらかにチンピラヤクザとは違う。暗殺専門にレッドトップが集めた精鋭部隊――そんなところだろう。
各々が短剣、クロスボウ、鎖分銅、諸々を手にしている。
アッシュの頬がわずかに引きつった。恐怖ではない、むしろ歓喜の表情。その双眸は見る者の心胆を寒からしめるひとごろしの鈍い光が宿っていた。
「クロ、シロ」
「はい」「なんでございましょう」
「ヒューレンジさんをお前たちふたりで守ってくれ」
「はい」「承知です」「アッシュも」「お気をつけて」
アッシュは口の中でよし、とつぶやくと、暗殺者集団に跳びかかった。
*
鎖分銅を手にした暗殺者が前にでた。広い廊下の利を活かし鎖が素早く回転する。かすっただけで皮膚が裂け肉がえぐれるほどの威力が秘められている。その間に暗殺者一団の後ろ二名が食堂に突入して、ドニエプルとカルボの命を狙いに行った。
厳しい局面だ。アッシュはひとりで三人を相手にしなければならず、ドニエプル、カルボはそれぞれひとりずつを相手にしなければならない。
アッシュはメイスを手に、鎖分銅の暗殺者との距離を一気に詰めた。
黒覆面で見えないはずの暗殺者の顔が恐怖の色を浮かべているのがアッシュにはわかった。
「来てもいいッスよ、その鎖分銅で」
アッシュは恐ろしい表情で笑みを浮かべ、左手で手招きした。
その言葉に乗せられ、鎖を振り回す暗殺者が”ここは俺がやる”というハンドサインを見せた。仲間内にしか通じないはずのサインだが、アッシュは看破した。同じようなやりかたはどの暴力集団にもある。聖騎士団にもそういうものはあった。
「ふっ!」
覆面の奥で暗殺者が気を吐いて、分銅の先端をアッシュの顔面へと振り下ろした。
アッシュの眼光が不吉な光を宿した。それを待っていた、と言わんばかりにメイスを振り上げて、分銅を弾き返した。”打ち返し”だ。破壊力のあるメイスをぶち当てることで、その衝撃より弱いものをすべて跳ね返してしまうのだ。分銅の威力は皮や肉をえぐりとる力を持っているが、骨ごと粉砕するメイスには及ばない。
ガギン、と打ち返された分銅は暗殺者の脇腹に食い込んだ。衝撃で黒ずくめの体がくの字に折れ曲がる。
当然アッシュはその隙を逃さない。
鋭い機動で突進し、メイスを叩き込む――だが敵も暗殺者である。そう簡単に殺られはしない。暗殺者は鎖分銅を手早く手元に引き寄せ、両手でピンと張ってメイスを受け止めようとした。
だがそれは失策だ。
全力で叩き込まれるメイスの破壊力は鎖を束ねた程度では止められはしない。
暗殺者は手に持った鎖ごと顔面にメイスを叩きこまれ、廊下に汚らしいシミを広げた。
アッシュが前にしている暗殺者の残りはこれでふたり。カルボとドニエプルのところにもふたり。ドニエプルの戦闘能力はアッシュでさえ舌を巻くほどで、カルボも手持ちのエリクサーがあるかぎり殺されるところまではいかないはずだ。ここにクロ、シロが加わっていればまず問題なかったが、いまはヒューレンジの守りに付いている。まだ動かせない。
――だったら、こっちがとっとと片付けるまでだ。
アッシュは次の暗殺者に向け、ひとごろしの視線を向けた。
*
ジョプリンはひどく困惑し、恐怖のあまり口から心臓が飛び出そうなほど心拍数が跳ね上がっていた。
ほんの数日カルボたちと行動をともにしていただけなのに、よもや敵の送り込んだ暗殺者に襲われるなんて。
ジョプリンは半分部外者のようなものだから”積極的に”は殺されないだろう。だがアッシュやカルボが倒されれば、口封じのため”消極的に”殺されることは目に見えている。
一応目の前で手をつないでいる黒と白の少女が念動力で障壁を張っているらしいが、それが果たしてどこまで効果があるのやらジョプリンには判断がつかない。
アッシュたちが暗殺者をつつがなく撃退するまでは何ひとつ安全は保証されないのだ。
いまジョプリンは元締めのヒューレンジと一緒に廊下のどん詰まりにしゃがみ込み、その前に黒薔薇と白百合が、さらにその先にアッシュの背中がある。そこに相対するふたりの暗殺者。
まずひとりは楽に処分できたようだが、次は完全に2対1だ。アッシュはそれを退けられるのか……?
ジョプリンの心配をよそに、アッシュはふたりの暗殺者の挟撃をメイスと蹴りでかき回し、際どい局面で放たれたクロスボウを天井近くまでジャンプして回避した。
「うお!?」
流れ矢が飛んできてジョプリンの背後の壁に突き刺さった。恐る恐る振り返ると、矢弾の先から黒紫色の粘液のようなものが、つうっと垂れた。毒矢だ。ジョプリンはエリクサーの知識に乏しいが、この状況で使われるならば一撃必殺の恐ろしいものだろうと見当がついた。
こんなものを相手にしているアッシュには敬意を表するが、代わりたいとは思わない。
と、戦況がやや傾いた。
食堂の中で戦うドニエプルがエーテルを集中させた拳で暗殺者のひとりの脾臓を破裂させ、思い切り床に叩きつけたのだ。
さらに、カルボがスプレー式小型火炎放射エリクサーを振り回して苦戦していたもうひとりの暗殺者を、空いた手で後ろから胴のところでクラッチし、反り投げた。頚椎粉砕。
これでふたりの暗殺者が倒され、残すはアッシュの相手にしているふたりだけとなった。
――なんてこった。
ジョプリンはそんな言葉しか浮かばなかった。アッシュもドニエプルも並の強さではないことは知っていたつもりだが、無傷で倒してしまうとは……。
一方のアッシュ。
暗殺者はどいつもこいつも毒の武器を使い、確実に命を狙ってくる。つまり無傷で倒さなければ死ぬのは自分たちの方なのだ。敵の人数が何人になろうとも危険は続く。
と、クロスボウを構えた暗殺者が二射目を放ってから跳躍し、アッシュの背後に位置どった。
――挟み撃ち!
ああ、とジョプリンの口から無意識に音が漏れた。クロスボウの暗殺者はアッシュの背後で素早く矢筒から矢弾を抜き、セットし始める――当然その矢弾も毒が塗られている。
アッシュはどう動くのか。ジョプリンは全身から冷たい汗が滲んだ。ドニエプルとカルボが応援に来るまでに最低でもあと10秒はかかるだろう。その間、耐えることはできるのか。
あの腰に括りつけた矢弾……あと三本はある。
いったいどうすればいい……自分にできることはあるのか。
心臓の拍動が胸を内側からノックする。緊張が、興奮が、そしてひとつの結論がジョプリンの足りない部分にピタリとハマった。
すう、と呼吸が楽になり――ジョプリンの目には鋭いものが宿った。
*
アッシュは背中にひりひりと熱のようなものを感じている。
後ろからクロスボウで狙われているのは、振り返らずとも分かる。
矢弾にたっぷり仕込まれた毒は、おそらく強力な麻痺毒であろうとアッシュは見ている。5分と経たず心肺機能が麻痺して死に至る。どれもこれもが必殺の一撃になるというわけだ。
そして挟み撃ちを仕掛けているもうひとり。前方で姿勢を低くしてナイフを構えている小柄な暗殺者の、異様な殺気である。
暗殺者が殺気を持っているのは当然のことではあるのだが、ビジネスライクな冷ややかなものでありがちだ。暗殺者は暗殺という仕事を任されて人を殺すのだから、そこに感情を入れるべきではない。
――くそっ、こんな時に。
アッシュはかつてのシグマ聖騎士団の団員であった頃の己を思い出していた。
”狂犬”。
狂犬アッシュ――わずか数年前まで、アッシュはそう呼ばれていた。
――いまそんなことはどうでもいい……本当に死ぬぞ……。
アッシュはいま一度全身の感覚を総動員して敵の動きを探る。
背後をクロスボウで狙われている以上、今の場所にいる限り撃たれたら終わりだ。いくら人間離れした素早さを持っていても、引き金を引くところを見れない状態で放たれる矢弾をかわすのは不可能だ。
ここから抜け出す唯一の方法は、挟み撃ちを逃れ、前後どちらでもいいから暗殺者の背後を取ることだ。
アッシュは前方にいる小柄な暗殺者――女か?――のドロリと熱い殺意を浴び、強い殺意だからこその油断を誘い、背後を取ることにした。
アッシュの武器はメイスや蹴り技だけではない。手も足もふさがっていても使える口がある。挑発に乗らせるのだ。
だが。
クロスボウを構えた暗殺者が突如動いた。くるりと振り返り、狙いをヒューレンジへと向けたのだ。
黒薔薇と白百合が念動力で障壁を張り巡らせる。だがクロスボウだ。その威力を弾き返すことができるかどうか、本人たちにもわからないはずだ。
「ひひっ」
ほとんど声を発さなかった暗殺者が、勝利を確信したのか、覆面の下で小さく笑った。
引き金が引かれる。
毒の矢弾が強烈な弦の力で――。
放たれなかった。
その場にいる誰もが一瞬そのクロスボウを見た。
そこに矢弾はセットされていなかった。
暗殺者は無意識に腰にセットした矢筒からもう一本を引き抜こうとした――そこには何も入っていない。
「悪いな、これで飯食ってるんだ」
ジョプリンが会心の笑みを浮かべた。
暗殺者が一切気づくこと無く、クロスボウの矢弾を後ろからスリ取り、ついでに残りの分も矢筒から抜き取ったのだ。
覆面の中で暗殺者がどんな顔をしていたかは誰にもわからない。振り返ったアッシュのメイスが暗殺者の頭部を水平に打ち、聞いただけで身が竦む音を立ててふっ飛ばしたからだ。清潔で豪奢なヒューレンジ邸にまた新たな染みができる。
「すげえな、ジョプリンさん。いい腕だ」
アッシュはジョプリンの方を見て、そう言った。油断できない戦いの中でも、それだけはどうしても言っておきたかった。
「さあ、あとは最後のひと……り?」
最後に残っていたはずの小柄な暗殺者は、その場から忽然と消えていた。
「アッシュ殿!」
「アッシュ!」
ようやく追いついたドニエプルとカルボが叫んだ。
「後ろ!!」
最後の暗殺者はアッシュの真後ろに立ち、ナイフで首を掻っ切ろうとしていた――。