第10章 08話 ヒューレンジ邸へ
ヒューレンジ邸、朝。
日差しを浴びる庭園の花々が美しく咲く乱れている。庭園の中央には噴水があり、キラキラと太陽の光に反射して心を和ませるようだ。
花園に包まれた路を進むと、白亜の豪邸が見えてくる。白一色、左右対称の美しい姿。
カルボが生まれ育った家だ。
「カルボ様、とうぞお入り下さいませ」
家出する前にずっと懇意にしてきたメイドが三歩下がって深々と頭を垂れ、カルボに道を譲った。
目の前には両開きの背の高い扉。数年ぶりに見るそれは意外に小さく見えた。成長したからだろうか。ひとりでも生きられる自信がついたからかもしれない。たとえばこの扉に鍵がかかっていたとしても、今の腕前なら造作もなく開けることができるだろうとカルボは思った。
「ねえさん」
扉の前でためらっているように見えたのか、同行しているジョプリンがカルボの背中に声をかけた。
カルボは曖昧に笑ってドアの取手を握り、開いた。
懐かし匂いがした。
*
魔法の契約で”青い葉”の用心棒を倒さなければ爆発するという首輪を付けられていたアッシュたちだったが、その用心棒たるドニエプルを失神させたことで契約が果たされたと判断され、首輪は紙切れの集合体になってはらはらと崩れた。
どうやら”赤い頭”のしかけた契約とやらは意外に律儀だったようだ。
口封じ用のエリクサーの効果はまだ続いていてまだまともなコミュニケーションは取れないが、筆談と身振り手振りで即席パーティの三人はレッドトップの本拠地に戻ることをアッシュに告げた。当然だろう。一度戻らなければ報酬ももらえない。
アッシュはそうもいかず、ドニエプルが目を覚まし次第地上に上がって、カルボたちと合流するというのがそもそもの目的だ。
――さて、いつになったら目をさますんだか……。
威力を抑えたとはいえ、みぞおちにメイスを食らっては内臓にダメージがいっている確率がある。
アッシュは手持ちのエリクサーから、打撲骨折に効くという塗るタイプのものを取り出して使ってみた。僧服をはだけると筋肉の塊のような胸板の下辺りにひどい内出血を起こしていて、紫色になっている。そこに軟膏をチューブ一本分塗りこんでみると、じわじわと腫れが引いていく。さすが一本50銀(註:1銀は100円相当)もするエリクサー、見事な効きっぷりである。
「う、ううむ……」
ようやく動けるまでになったドニエプルは石床の上にあぐらをかき、みぞおちをさすった。
「アッシュ殿……?」
強烈に殴りあった相手がなぜ――という訝しげな目でアッシュを見る。
アッシュは無言でメモ書きを見せた。ここまでのいきさつを簡単にまとめたものだ。まだ声が出せないので、無用な時間を割かないようにドニエプルが気を失っている間に書いていたのだ。
「ううむ、なるほど……拙僧はとんだ勘違いをしてしまったようだ。許してくれ、アッシュ殿」
事態を飲み込んだドニエプルはしきりに頭を下げた。
アッシュはそれよりも地上に出てカルボたちと合流したいとジェスチャー混じりに伝えると、ドニエプルは慌てて立ち上がり―ーぐらりと体が揺れて倒れそうになった。
「すまぬアッシュ殿、どうやら貴殿の一撃が相当効いている」ドニエプルは顔をしかめ、アッシュの勧めるまま肩を借りた。「ここから奥に行けば地上への出口がある。行こう」
アッシュはうなずき、ドニエプルの巨体を支えて歩き始めた。
*
「大きなおうち」「きれいなおうち」「ここがおうち?」「カルボのおうち?」
黒薔薇と白百合はいつもの浮遊ではなく、礼儀として廊下の床を踏みしめて歩いている。前を行くカルボに声をかけたが、カルボは何も聞こえていないようだった。
と、廊下の角から黒服の男が現れた。黒薔薇と白百合、ジョプリンは反射的にびくりとしたが、カルボだけは全く動じない。
「お嬢様」黒服の男が低い声で言った。「失礼ながら、お連れの方はお控え願いますでしょうか」
「構いません」
「ありがとうございます。では、お連れの方はこちらへ」
さらにもうふたり黒服が現れて、カルボ以外の三人を別室へ案内した。
「カルボ?」「わたくしたち」「どうなり」「ますの?」
背中から問いかける黒薔薇と白百合の方へは振り返らず、カルボは少し待っていて、とだけ答え、黒服たちの案内にしたがって屋敷の奥へと行ってしまった。
*
「驚いたよ」
一流の調度品で統一された豪奢な部屋の中。白髪の目立つ白スーツの男が、なんとも表現しがたい難しい顔でカルボと相対していた。
「もうこの家には帰ってこないつもりかと思っていた」
男の名はヒューレンジ。
表の顔は一代にして富を築いた貿易商。
裏の顔は盗賊ギルド”青い葉”の元締め。
そして――カルボの実父である。
「わたしも本当はここに来るつもりはありませんでした」カルボは怖い顔をしてヒューレンジの白いエナメルの靴を見ながら言った。「どうしても……お願いしたいことが」
そう言われて、ヒューレンジは強張ったまま嬉しそうな顔――という複雑な表情で、部屋の真ん中にある恐ろしく豪華なソファへ座るよう促した。
カルボはぎこちなくそれに応じ、4年ぶりに親子は真正面からお互いを見た。
「ますますラニューバ(註:カルボの母親。すでに病没)に似てきたな」
ヒューレンジは努めて明るく言った。自分ではカルボに対する最大の賛辞のつもりだったが、カルボの反応は薄かった。
「今日は、その……お願いがあってまいりました」
「なんだね?」
「私の大切な……友人……仲間……が地下世界から帰ってこないのです。”赤い頭”にさらわれたまま」
ヒューレンジはその言葉にソファの肘掛けを握りしめた。
「……レッドトップに関わったのか」
「そんなつもりはありません。レッドトップなどという組織ができたと知ったのは、ここに……ヴィネに着いてからのことです」
カルボは感情を入れずに師匠であるイーリスの死に偶然行き合ったこと、マーケットで起こったブルーハーブ関係者の爆殺事件のことを簡潔に話した。
「でなければ、ヴィネは通りすぎて別の都市に行くつもりでしたから」
「そうか……」
ヒューレンジは目をつむり、四年分のため息をついた。
「友人を助けたいといったね。私に何をどうしろと? ほかならぬ娘のねがいだ、私にできることであれば強力は惜しまんよ」
カルボは地下世界に降りるハッチが軒並みレッドトップの支配下に置かれていて、どこから侵入すればいいのかわからなくなっている旨を伝えた。そのためにブルーハーブ元締めであるヒューレンジに助けを求め――それが終わったらまたこの家を出て行くと。
「むう……」
そういったきり、ヒューレンジは黙りこんだ。地下に降りられる場所などヒューレンジの権力を持ってすれば調べることは容易い。しかしその結果、せっかく帰ってきてくれた娘をまた送り出さねばならないことを考えると穏やかではいられない。苦みばしった表情は数分の間動かなかった。
一方のカルボの顔も翳っていた。
本当は――本心の本当の奥深くには、やはりどうしても捨てられない情がある。ヒューレンジと4年ぶりに再会した途端、今までこころを覆っていた砂の城壁が崩れてしまったように感じた。
だが、カルボは簡単に実家に帰るという選択をすることができない。
カルボが家出をした最大の理由は、ヒューレンジが、そしてブルーハーブが魔薬づくりとその流通に関わっていたというその一点なのだ。
それだけは許されるものではない。カルボは泥棒である。シーフである。犯罪者である。だが、それでも飲み込まれてはいけないものがあって、それが魔薬の流通だ。それだけは絶対に許せない。ヴィネの上級学校で友人を死に追いやった魔薬だけは、認めてはならない。
「わかった」先に口を開いたのはヒューレンジだった。「カルボ、お前の言うとおり、安全に地下世界に降りられるハッチを教えよう。レッドトップの構成員がうようよしているから、護衛もつけよう。だがその前に……私の話を」
聞いて欲しい、と言う前に、屋敷の中がいきなり騒然となった。
誰かが屋敷の中に入りこんだらしい。
*
「おい、ドニエプル。ここが本当に地上に出る出入り口なんだよな?」
地下世界の長い階段を上がってハッチを開けたアッシュは、どこだかわからない地下室――地上側の建物から見てという意味だが――へとたどり着いた。
みぞおちを抑えながらも自分で立てるようになったドニエプルは首をひねり、「いや、たしかに先ほどの出入り口で間違いないはずだが……」
「だが?」
「こんなところに出てくるとは思いもよらなかった」
「それ、道を間違ったってことか?」
「さ、さにあらず……といいたいところだが、その……実は拙僧、方向音痴で」
アッシュは左眉の古傷をしばらく指でなぞると、「しょうがない。ここからでも多分地上には出られるだろう。盗賊ギルド用のハッチが地下室にあるなら、もともとブルーハーブの一員の家かもしれない」
そう言って地下室を抜けたアッシュは全く予想もしていなかった光景に絶句した。ものすごい豪邸だ。この時点ではそこがカルボの実家であることは知らない。
「失礼いたす、失礼いたす。どなたかおられますかな?」
ドニエプルがよく通る声で言った。
現れたのは強面の黒服が5、6人。
「レッドトップか? どこから入った!?」
黒服たちの反応は当然だ。いきなり屋敷内に怪しい二人組が現れたとしたら、賊だと思われても否定出来ない。
「あいやいや、お待ち下さい……拙僧は龍僧正ベルナルダスが弟子、ドニエプルと申す者。ブルーハーブの用心棒として先程まで地下世界にて守りに努めておりましたが、その……わけあってこのお屋敷の地下室に上がってきた次第。ご当主ならご存知のはず」
「今は誰も通せない。どういうつもりかわからんが、監視つきで待っていただく。いいな」
ドニエプルはともかくアッシュは不服だったが、やむを得ず黒服たちの指示に従おうとした。
ところがその時、別の部屋から愛らしい声が聞こえた。ドアの隙間からにゅっと顔を出しているのは黒薔薇と白百合だった。
「クロ、シロ? 何でお前たちが…」言いかけてアッシュははっと顔を上げた。「いるのか? カルボが!」
黒薔薇と白百合はうなずいて、「ここは」「カルボの」「実家」「だそうです」
「実家だって?」
アッシュは困惑した。困惑したが、アウトラインが見えてきた。
「すんません、ここってもしかして、ブルーハーブの元締めのお屋敷ッスか?」
黒服たちにさあっと沈黙が広がった。何も答えないが、全部告白しているも同然の反応だ。
アッシュにもようやくわかった。
この屋敷はきっと、カルボが幼い日を過ごした場所なのだと。