第10章 07話 ドニエプル
「ぬぅっ!」
アッシュの振り下ろしたメイスは、危険な角度でドニエプルの前腕に突き刺さった。無防備で受ければちぎれ飛んでもおかしくない威力だ。
だがドニエプルは腕にオーラを集中させ、鎧以上に頑強な防御膜を作り出していた。
アッシュは一呼吸の間、目を丸くした。メイスが突き立てられても無傷で済ませる敵はそう多くない。亡霊のような非実体存在でもないのに、メイスが通用しないとは……。
「見事な一撃! 次はこちらからだ!」
ドニエプルの全身から、銀色のモヤのようなものが立ち昇る。これがモンクの戦い方だ。素手、丸腰であることはハンデにならない。肉体に蓄えたエーテルを体外に展開し、あたかも全身を魔力付与品であるかのように自己強化するのだ。
――簡単にはいかないか。
アッシュは手足の一本や二本へし折って戦闘能力を奪うつもりだったが、ドニエプルは恐ろしいほど――快感を覚えるほど強い。タイミングこそ最悪だが、全力で戦っても勝負がつかないかもしれない相手と殴り合いができることに、アッシュのうなじの毛はゾクゾクと逆だった。
「ぬぅん!」
ドニエプルの低い唸り声。オーラで鎧さえぶちぬくほどに強化された鉄拳が、アッシュの心臓に向かって放たれた。でかい。そして速い。アッシュは飛び抜けた敏捷性を活かして突き出された右腕の肘側にステップし、肩の付け根にメイスをぶち込んだ。
手応えはあった――だが軽い。
代わりにドニエプルの丸太のような足が飛んできた。巨漢にあるまじき反応速度の飛び蹴りがアッシュに叩き込まれる――その直前にしゃがみ込み、スライディングしてメイスを軸足のふくらはぎに打ち付けた。
「むぐ!!」
ドニエプルの顔が衝撃に歪んだ。オーラで体表を包んでいると行っても全身をくまなく覆うには相当の修練と精神力が必要となる。ドニエプルは強い、たしかに強いが全く手の届かない相手ではない。オーラの薄いところの防御に関してはそこまで堅牢ではない――とアッシュは見た。その程度の護りであれば、メイスを直撃させれば粉砕することは容易い。
「はぁっ!!」
龍骸苑の門徒、ドニエプルは左の足をかばい気味にしてタックルを仕掛けてきた。瞬間、アッシュは総毛立ち、飛び込んできたエーテル機関車を避けるかのごとく大きく飛んだ。
素手での至近戦闘に長けた行者である。タックルで足を刈られて馬乗りになられたら反撃不可能だ。
一旦距離が開き、お互いに呼吸を整える。
ドニエプルの表情はややこわばっていた。ふくらはぎのダメージはそれなりに痛手だったようである。モンクならではの不可思議な印と呼吸法で、傷めたふくらはぎに体内エーテルが集中していくのがアッシュにもわかった。集めたエーテルで傷を回復させるつもりだ。
その隙を突いても良かったがアッシュはそれを選ばなかった。
どうやら、もっとドニエプルの強さを試したくなってきたらしい。
一切声を発することができない状態だが、それでもアッシュはこう言った。
――第二ラウンド、やるかい?
*
真正面から。堂々とだ。
カルボは己の生まれ育った家であり、盗賊ギルド”青い葉”元締めヒューレンジの居所の、正面門から中へ入ることにした。
裏口から目立たぬように入れてもらうのではなく、真正面から。
ヒューレンジ邸は商業都市ヴィネの地上に建つ、控えめに言っても豪邸である。一見、盗賊や犯罪に縁のある場所とは思えない。
カルボはここで生まれ、おもちゃの代わりに鍵開けを、かくれんぼの代わりに隠密術を教わって育った。それが当たり前のことだと思っていた。マスターシーフであるイーソンの教えは優しくあるいは厳しくカルボの技を磨き、10の頃にはブルーハーブの中でも有数の技術を身に着けていた。
父のヒューレンジは、イーソンの教えは単なるお遊び、手慰みだと思っていたらしい。ところがカルボの才能はヒューレンジの予想をずっと超えていた。
『カルボ、お前は私の”表の顔”を支えてくれればいい。盗賊遊びはここまでだ』
ある日ヒューレンジはそう言って、カルボに盗賊としての修行を禁じた。
理由があった。
ヒューレンジは地下では裏の顔である元締めを勤めながら、表の顔である豪商としての生活もこなしていたからだ。しかし妻の――すなわちカルボの母親のラニューバの急死により表の顔を維持することに疲れを感じ、次第に商業界での地位を下げることになっていった。
表の顔が翳っては、裏の顔での便宜が図りにくくなる。流石にそのことを危険視したヒューレンジは、母ゆずりの美貌がじょじょに見え始めたカルボを、亡きラニューバの代わりに社交界にデビューさせ、己の豪商としてのステータスを再び取り戻すという線路を思い描いたのだ。
カルボは意外なほど素直にそれを受け入れた。
母の死以降、父の憔悴ぶりは子供の目からも明らかだったし、誰かが支えてやらねばならないという気持ちがあった。
そこまでは良かった。
カルボが12になった頃、ヴィネの上級学校の級友が魔薬中毒で死んだ。
カルボはブルーハーブとのつながりを疑うようになったのはごく自然の事だった。ブルーハーブは盗賊ギルドであり、それはすなわち犯罪組織なのだ。表では本来出まわらない商品が流通し、それが見過ごされているということはブルーハーブが関わっている以外にありえない。
ヒューレンジはドラッグとの関連を否定した。しかしカルボにはそうは思えなかった。父は何かを隠している。そう思った。
カルボはほぼ独学で霊薬学を身につけ、地下世界のギルド本部に入ると、新エリクサーを開発するラボラトリーに隠密術を使って入り込み”証拠”を掴んでしまった。
試薬液エリクサーの結果はクロ。
少なくとも、ブルーハーブが魔薬製造に関わっていることをカルボは確信した。
『お父様、どういうことか説明してください。ブルーハーブは魔薬には手を出していなかったはずでしょう!』
カルボは父に詰め寄った。カルボにとって、ドラッグだけは商売のテーブルに乗せない父の、そして組織の姿勢として誇りを感じていた。泥棒にも泥棒なりの誇りがある。たとえそれが犯罪者の手前勝手であろうとも。それを破ったら、本当にただの犯罪集団になってしまう。人に不幸を売り、血とカネを吸い上げるダニのような存在に。
父は一線を超えてしまったということか。
『カルボ……今すぐわかってもらえるとは思えないが、これには理由がある』
『ドラッグを売りさばくことにどんな理由があるんですの? わたしにはわかりません』
『お前はこの件を気にすることはない。私はただ、表舞台でのお前の幸せを……』
『勝手なことをおっしゃらないで!』
13になったカルボは実家を飛び出し、ひとりのシーフになって各地を放浪することになった――。
*
ドニエプルの中段蹴りがアッシュの腹を狙う。まともに喰らえば命に関わる威力を秘めたその蹴りを、アッシュはメイスで打ち返した。
――だんだんわかってきたぞ。
すでに数回ドニエプルの岩をも砕く徒手空拳を間一髪かわし続けたアッシュは、ドニエプルの動きの癖を理解しつつあった。
突きも蹴りも頭突きも、”素手の攻撃”と思ってはならない。手足の形をした岩のかたまりだ。手足にオーラを集中させるモンクの戦いかたとは、武器も防具も身につけず素早い動きでその手足を叩きつけることに真髄がある。手足の範囲に入る近接線は極めて危険だ。
そして、おそらく他のモンクは全身に偏りなくオーラを張り巡らせることで、攻防ともに隙のない状態を維持しているものだろうと推測できた。
ならば、メイス使いのアッシュとしてはどう対処すべきか?
アッシュが最も得意とする技は、自分に迫る武器を殴り返して破壊する”打ち返し”と、武器を持つ手首を粉砕する”手首砕き”、このふたつだ。人間型の敵であれば、このふたつの技術はほとんどの場合有利に働く。
しかし相手はドニエプルだ。
手足にオーラを集中させている間は、アッシュの持つ得物が鋼鉄のメイスであっても打ち返すことは難しい。おまけに両手両足最大四連撃を可能にするドニエプルに対しては必ずしも有利には働かない。
手首砕きも同様だ。オーラの力で守られている両手両足には直撃を加えても完全破壊まではいたらないだろう。
それに――そう、相手はドニエプルなのだ。
殺して構わないような命ではないし、そもそも悪人ではない。偶然から敵として相まみえただけなのだ。
ならば、やはり狙うのは……。
「せいっ……やー!!」
ドニエプルが動いた。巨躯を駆り立てるように跳躍し、アッシュに対し飛び蹴りを放った。直撃をくらえば顔面が陥没してしまうだろう。アッシュは身をかがめてスライディング、ドニエプルの背後に位置どる。そこから流れるようにベルトのケースに差し込んでいた小ぶりな投斧を二本、立て続けに投擲した。
「むっ」
広い背中に突き刺さり、血が流れた。ドニエプルに対しては急所に当たらないかぎり大したダメージにはならないだろうが、それでも小さくうめくほどには痛みがあるらしい。
アッシュの考え通りだ。攻撃型にオーラを張っているがゆえに、特に背後は防御が弱い。ならばやりようはある。おそらくドニエプルは大怪我を負うことになるが、相手は龍骸苑のモンクである。治癒の技を持つ人員が必ずいるはずだ。
アッシュは跳んだ。常人離れした敏捷性だ。鋼板を重要箇所に貼り付けたハードレザーアーマーを着込んでいるとは到底思えない動きでドニエプルの背中を駆け上がるようにして肩まで飛び上がり、後頭部にメイスの柄頭を叩き込んだ。かなり強烈な一撃だが、先端で殴りつけたわけではない――そんなことをすればドニエプルは脳みそを撒き散らしてしまう。
「おのれ!」
痛みと衝撃に耐えながら、ドニエプルは振り向きざまにアッシュに肘を当てにきた。
――ここだ!
声を出せないまま、アッシュは叫んだ。
肉体を吹き飛ばそうとする肘の先端に足をあわせ、アッシュは跳んだ。
エルボーの威力を跳躍力に取り込んでのまさしく曲芸である。
背後で何が起こったかわからなくなったドニエプルは、わずかな注意力の拡散によってアッシュを捕捉できなくなった。
ズムッ。
その音はドニエプルの体の内側を伝わって聞こえた。
それも、体の前面から。
背中側に着地したはずのアッシュは、氷上を滑るようにドニエプルの体を側面から周り、みぞおちに鋼鉄のメイスを叩き込んだのだ。
ドニエプルは悲鳴も、アッシュを賛辞する言葉もなく、一撃で意識を失って仰向けに倒れた。
――ギリギリまで威力を抑えた……普通なら死ぬけど、アンタなら何とかなるだろう。
そう声をかけてやりたかったが、いまだ声を発することはできない。
アッシュは咳き込み、疲れきった体を横たえ、しばし動けなくなった。