第09章 06話 マーケット・チェイス
「……あいつ!」
アッシュの動体視力が人混みの中に消えていく”犯人”の姿をとらえた。
「待ってアッシュ!」
「俺はあの野郎を追う! カルボ、お前は情報を集めてくれ!」
アッシュの動きは人混みをまるでアスレチック器具か何かのように使い、観光客のかばんを台にしてジャンプしたかと思うとテントの支柱に飛びついてくるりと体を翻し、屋台の屋根に飛び乗っては再び人混みに着地する。
「まて! 止まらないなら手加減しねーッスよ!!」
後ろ髪の長い逃走者は、サルのように身軽な男が自分を追っていることに気づいた。人混みをかき分け、追跡をまこうとする。露天に並べてあったアクセサリを蹴散らして、女子供を突き飛ばし、果物屋の店先に並ぶスイカが転がって果汁をばらまき、何があっても捕まる気はないという必死さが見て取れた。
しかしアッシュの運動能力は半端なものではない。
特注の鎧はプレートメイルよりずっと軽く動きやすい。重いメイスを腰に差していても苦にもせず、人混みでごった返すマーケットの中を駆け巡る。
「そいつ爆弾魔ッス! 逃げてください!」
アッシュが大声でそう言うと、混雑したマーケットの通りを歩く客が騒然となって、流れがふたつに割れた。誰も爆弾魔となど関わりたくない。その真ん中を、後ろ髪の長い爆弾魔がチャンスとばかりに猛然とダッシュする。
――俺が追いつけない?
アッシュは走りながら疑問に感じた。アッシュの足の速さ、身のこなしは尋常ではない。猟犬にも例えられるその脚力を持ってしても、爆弾魔の後ろ髪を引っ掴むことができないのだ。かすかな敗北感すら脳裏に浮かんだ。
だが逃がす訳にはいかない。爆薬で人を殺している男なのだ。
「待て! この混雑の中じゃ逃げられないッスよ!!」
その叫びは、あるいは逆効果であったのか。
爆弾魔は懐から赤い液体の入ったバルブを取り出し、それを群集に向かって投げつけようとした。
――マズい!!
混雑する通りの真ん中で爆発を起こされれば、犠牲者が何人になるのかわからない。
できれば殺さずに口を割らせたかったがそんなことを言っている場合ではない、腰の革ケースからメイスを引きぬき、その背中に投擲する準備を整えた――メイスはもちろん投げつけるために作られてなどいないから命中率には期待できないが、何年も扱っている相棒である。それに賭けるしか無い。
そのとき思わぬことが起こった。
マーケットの人垣から、なにかむっくりしたものが現れたかと思うと、爆弾魔の手にしたエリクサーバルブが客の頭上はるか上まで投げられて、空中で爆発した。
悲鳴が上がり、爆風が大テントの内側に吹き荒れた。
が、おそらくけが人はゼロだろう。
アッシュは一瞬あっけにとられたが、犯人を押さえないと追ってきた意味が無い。マーケットの客が上に注意を引きつけられている間をぬって、大股で駆け寄り爆弾魔の身柄を拘束しようとした。
その前に、大男が現れた。
長身のアッシュだが、それより頭ひとつ半ほど大きい。肩幅もおどろくほど広く、全身の筋肉の盛り上がりで袈裟のような服がパンパンになっていた。
その男が、後ろ髪の長い爆弾魔の背中を石像のように踏みつけ、身動きひとつ取れないようにしていた。
この大男が爆弾魔の持っていたエリクサーバルブを頭上に投げ、マーケットの中は事なきを得た――ということだろう。
「すんません、ありがとうございます」
アッシュは呼吸を乱しながらも大男にひとまずの礼を述べた。
「いやあ、見ておりましたぞ」大男が、体格に見合ったいかにもという太い声で言った。「すごい身のこなしだ。拙僧には真似できん」
太い首の上に乗った顔のパーツはどれも大きいがつぶらな目だけは子どものようで、アッシュを見る眼差しも遊び仲間を見つけたような純粋さがあった。
「ドニエプルと申す。龍骸苑はご存知か? 龍の門徒――いわゆる行者にござる」
ドニエプルと名乗った男は大きな口でニイッと笑って、爆弾魔を踏みつける力をさらに強めた。
「おかげで助かったッス」
アッシュは危険なエリクサーを爆弾魔からもぎ取り、念のためボディーチェックをした。効果がよくわからないエリクサーの入った小瓶がいくつも隠してあって、アッシュはすぐにカルボの装備を思い出した。
「失礼、お名前は」
「アッシュ、です」
ドニエプルの問いに、アッシュはややぎこちなく答えた。できれば名前は明かしたくない。なにしろ、これから相手にしなくてはならないのは盗賊ギルド”青い葉”なのだ。何が起こるかわからない以上、面と名前は割れていないほうがいい。しかしドニエプルの快活な調子は、相対する者に素直に口を開かせる鷹揚さがあった。
「ヴィネはいま物騒になっておりましてな。こやつのような命知らずが、爆弾やら魔法で暴れているのですよ。日々死傷者が増えている」
ドニエプルは厳しい目をしてマーケット全体を見渡した。
「よく閉鎖しないで開いてますねこのテント」
「アッシュ殿、旅行者ですかな?」
「ええ」
「この都市は商業都市などと言われて景気よく金が動いている。だがその実、儲けを狙って犯罪組織が暗躍している場所でもある。損得のバランスが崩れたらすぐに制裁だ抗争だ何だのですぐに荒っぽいことが起こるのです」
「でもマーケットは開いている?」
「なにせこのテントの大きさあっての商業都市。観光の名所でもある。よっぽど無茶苦茶なことが起こらないかぎりマーケットを締めたら大損というわけです」
「屋台で人ひとり死ぬくらいじゃ無茶苦茶じゃないと?」
ドニエプルは相変わらず爆弾魔を片足で踏みつけながら、腕組みして唸った。
「衆生を助く僧籍にあるものとしては情けない限りですが、そのとおり。ヴィネはよくも悪くも回転する独楽が如き都市。止まるとあちこち崩れてしまう。回っている間は――誰も手を出そうとしない」
「良くも悪くも?」
「いかにも……おっとこれは申し訳ない、つい話しすぎてしまった。こやつは拙僧が責任をもって警察に届けに行きましょう」ドニエプルは爆弾魔の首根っこを掴んで軽々と担ぎ上げ、「ではアッシュ殿、機会があればまた……」
会おう、と言いかけて、ドニエプルの目は何かに釘付けになり、口を阿呆のように半開きにさせた。
アッシュがなんとなく視線の先を見ると、そこには体にピッタリとしたキャットスーツを身につけたカルボが走り寄ってくる姿があった。黒薔薇と白百合も一緒だ。大急ぎで走れば走るほど豊かな胸が上下左右に揺れている。アッシュはなんともいえない気分になった。マーケットの人混みがその様子を見ていることに嫉妬じみた感覚――何勝手に見てるんだ?
「……さっきの後ろ髪長いやつは?」
カルボに問われたアッシュは、ドニエプルに担ぎあげられた男を指差した。
「あの、すみません」息せき切りながら、カルボはドニエプルに近寄った。「その人、少しおろしてもらっていいですか?」
言われたドニエプルは相変わらず阿呆のような顔でカルボを、それからカルボの体を交互に見て、両方の鼻の穴からフハッと大量の息を吐いた。
「こ、こ、こやつですね!? わかりました、是非見てやってください!」
ドニエプルはまるで魚屋が新鮮さを誇るような調子で爆弾魔の男をマーケットの路上に投げ下ろした。
「……みて、これ」カルボは爆弾魔の首筋を見て、冷えた声で言った。「注射痕。運動能力を急激に引き上げる”アクセルレッド”っていう、最近流行りのエリクサーなんだって。一時的に足が早くなるけど、次第にエリクサーがないとナマケモノみたいにしか動けなくなるっていう」
「違法薬物だな」
「魔薬だよ。だからアッシュでも追いつけなかったのね」
「そこの坊さんがいてくれなかったらヤバかったよ」
「お坊さん?」
カルボが見上げると、ドニエプルがあからさまに鼻の下を伸ばして顔をでれでれにしていた。
「あ、あの……」
「は! 拙僧はドニエプルと申す龍骸苑のモンクにござる。そこなアッシュ殿にお手をお貸しいたしまして、いやぁ何事も無く片付いて何よりにございました!」
「えっと、あ、ありがとうございます……」
戸惑うカルボにドニエプルは巨躯をくねくねとさせ、「いやあ、なんという美しさか! 無礼ながら、お名前をお聞かせ願いませんでしょうか」
「カルボです」「黒薔薇です」「白百合です」
なぜか黒薔薇と白百合も一緒に名乗り、三人で同じ角度に頭を下げた。
「と、時にカルボ殿」
「はい?」
「アッシュ殿とはその、どのようなご関係で?」
「仲間です、傭兵のパーティの」とカルボ。
「ほう、仲間……仲間と」
「はい、仲間」
ドニエプルは何を考えているのかアッシュとカルボを交互に見比べて、大口を開けて笑った。
「いやあ、これは参りましたなあ。アッシュ殿、カルボ殿、ぜひこの街をご案内したく存じまするが、なにぶんこの爆弾魔を警察に突き出さねばなりません。もしよろしければ、明日にでも龍骸苑の精舎にお越しいただけませぬか?」
そう言って、ドニエプルは大きな顔と体をずい、と前に押し出した。巨漢だけあってその圧たるや一歩引いてしまうほどのものがあった。
「どうする、アッシュ?」
「……まあ、いいんじゃないか?」
アッシュたちはドニエプルの押しの強さに負け、待ち合わせ場所の龍骸苑の精舎と時間を教えられた。
「ではカルボ殿、明日またお会いしましょうぞ~!」
ドニエプルは快活に笑いながら爆弾魔を警察に連れて行った。
取り残されたアッシュとカルボは顔を見合わせた。
また妙な流れに巻き込まれつつある。
第9章 おわり
第10章に続く