第09章 01話 もらえるものは
魔法都市エリゴスの大図書室から盗まれた本の一冊は、上位吸血鬼ガスコインが欲していた”生命の曙光”なる異端の秘術書であった。
著者はジャコメ・デルーシア――すなわち黒薔薇と白百合の創造主たる研究者が遺した本であることを知り、アッシュらは苦闘の末に吸血鬼を全滅させ、本を取り戻す。
依頼主であるエンセンは吸血鬼に噛まれた傷が原因で吸血鬼に変化し始めたが、魔術大学の治療院に任せることでそれは解決されるという……。
問題は、エンセンの依頼料である1000金というカネのありかである。
それを手に入れなければタダ働きになってしまう。
アッシュたちは契約金を手に入れうることができるのだろうか?
*
アッシュはカルボ、黒薔薇と白百合と一緒に喫茶店に入り、これからのことを話し合っていた。
「どう考えても1000金手に入れないと割が合わないよぅ」カルバが不機嫌そうに唇をつきだした。「前金の10金なんてもう使い込んじゃったし」
「そんなことはわかってるって。問題は、俺達がエンセンの住まいもカネの隠し場所も全然知らないってことだ」
アッシュは背もたれからずり落ちそうな姿勢になった。聖騎士の鎧はもう身につけていない。ヴァイパイア・ガスコインたちとの激戦でバラバラに壊され、もはや修理して直せる限界を超えてしまったからだ。
「エンセンに直接聞こうにも向こうはヴァンパイア症状の治療中で面会謝絶……っていってるけどそもそも治る見込みがどの程度なんだか」
「でも1000金だよ? それも正式な報酬として。どうやったって手に入れないと」カルボが頬を膨らませたり縮めさせたりして、不機嫌な表情をあからさに浮かべている。
「エンセンは素行の悪い不良学生だったはずだ。そっちの線をあたってみるか」
「面倒くさそう。それなら直接エンセンに聞いたほうが早いよ」
カルボはスネたように頭の後ろで指を組んだ。真っ白な二の腕と腋下があらわになる。
「そりゃ直接聞いたほうが早いのは早いんだけど、方法がないから困ってるんじゃないか」
「へっへ~ん」
「ん?」
「わたしの本職、なにか覚えてる?」
「そりゃお前、盗賊……」言いかけてアッシュは苦い表情になった。「まさかカルボ、治療院に不法侵入する気か?」
「そう。夜中にこっそりね」
「大学の施設だぞ? 夜に入り込んでただで済むか?」
「うまくごまかすよ」
カルボはどうやら本気のようだった。
「いや待て待て待て。そんなことして万一魔術大学の信用を失ったら何にもならんだろ。ここは面会できる状態まで待ってだな……」
「それがいつかわからないからいってるんっしょ? だあってさぁ、1000よ? 1000金だよ? 一刻も早く手に入れたいじゃん」
アッシュは腕組みして唸った。早く手に入れたいという点では異論はない。だが犯罪に手を染めるのはまずい。それは彼が元パラディンであったことにも由来しているだろう。
「アッシュ」「カルボ」「こうすれば」「どうでしょうか」
飲みかけのミルクティを置き、それまでおとなしくしていた黒薔薇と白百合が愛らしい声で言った。
「夜中に」「こっそり」「これは」「だめ」
「そりゃそうだ」とアッシュ。
「昼間に」「こっそり」「言い訳が」「ききます」
「あ、なるほど」カルボはテーブルの上の水滴をつっと直線に引っ張った。「昼間ならどこに入り込んでも”迷い込んでしまった”って言い訳すればまず通用する」
「白昼堂々と行けば案外ばれないか。クロ、シロ、それで行こう。それなら誰の信用も失わずに済む」
「よし、それできまり」カルボはそう言って、黒薔薇と白百合の頭をなでてやった。「いい子いい子。あなたたちどんどん知識が身についてるね」
黒薔薇と白百合はくすぐったそうにして、女三人でスキンシップをとっている。
アッシュはそれを見ていると、己の心の自由な部分が広がっていくような気がした。
*
ヴァンパイアに血を吸われた人間はグールになり、その一部はヴァンパイアになる――というのはこの世界でもよく知られている。
なぜそうなるのかを説明するのは難しい。
ましてやその”治療法”を門外漢が理解するのは至難の業だ。
原理的には、ヴァンパイアの穢れを魂から抜き取って、人格が崩壊しないように魂を戻すという方法を取るらしい。その際に場合によってはベッドの上で拘束されているヴァンパイア――この場合不良学生エンセン――が暴れ、被害者が増える可能性がある。だから面会謝絶になっているのだ。
「……ということなんですが、よく入り込めましたね」
エンセンが青黒い顔色で言った。まだ治療の最中で、いまのエンセンは人間ではなく”ブラッドサッカー”に分類される怪物である。
「だから、手っ取り早く聞くね」とカルボは周りの気配を探りつつ言った。「1000金。わたしたちの報酬がどこにあるのか知りたいの」
病室に忍び込んだのはカルボひとり。大勢で乗り込んでも見つかりやすくなるだけだから、当然の選択といえる。
「ははは、お見舞いに来たわけじゃないんですね」エンセンは気が抜けたように言った。
「正式に面会ができるようになったらちゃんと来てあげるよ。だから、とりあえず報酬をね」
「分かりました。拘束されてるのでメモに書くこともできませんが……」
エンセンは犬歯を微かに見せ、カルボの白い首筋に視線をやった。ヴァンパイアにとっては、美しい乙女の血は何よりもごちそうだ。一度血を飲んでしまえばヴァンパイアの”症状”が進み、断食の苦しみからも救われるはずだろう。もちろんそんなことを許す訳にはいかないが。
「この町の西側に少し荒っぽい地区があります。ぼくみたいにドロップアウトした学生とか、魔法の基礎を学んだだけで授業よりも悪党になることを優先する輩とか。あとは……まあ、とにかくそういう地区です」
「あなたもそこに住んでいたの?」
「そういうことです」
エンセンはそう言うと自分の住まいの住所を口頭で述べ、カルボはそれを手早くメモした。
「そこの机の中にロッカーの鍵がしまってあって。そのロッカーの中にもらった報酬の半分、1000金を隠してあります」
「用意周到なのか迂闊に扱ってるのか、よくわからない話ね」
「なにしろ血を吸われてヴァンパイアになりかかっていて……」
「できるだけ人目につきたくなかった?」
「そんなところです」
エンセンがそう言って苦笑いをした時、廊下側で何人かの足音が聞こえた。
「もう時間がない。機会があったらまたね」カルボはそう言って、投げキッスをしつつドアを開け――案の定魔術医や看護生に何をやっているのか見咎められながら、上手く丸め込んで去っていった。
「……機会があったら、か」
エンセンはその言葉が胸にあるかぎり、なんとかヴァンパイア治療も乗り越えられる気がした。
*
「で、ここがその荒っぽい地区か」
カルボの手に入れた情報を元に訪れたのは、夢の様な魔法都市からは爪弾きになったような場所だった。路地は入り組み、建物は崩れつつも修繕され無理やり延命されているかのようだ。ドブや排泄物のにおいがかすかに漂い空気も悪い。
地べたに座り込む傷痍魔法使い――魔法の実験の失敗によって手足を失った者のことを言う――の物乞いあちらこちらに座っていて、何かを監視するような目でカルボたちを見た。
「キケンな感じ……」
カルボは無意識にキャットスーツの布面積を増やした。魔力付与品ゆえにそういうこともできるのだ。
カルボは盗賊だが、同時にうら若き乙女でもある。
アッシュはその矛盾が前々から気になっていたが、あえて聞こうしなかった。それはカルボが聖騎士時代のことを詮索してこないでいてくれるのと同じことで、誰にも踏み込まれたくないこころの領域というのは存在するのだ。
「まずエンセンのヤサを探そう」
アッシュはそう言って、腰の後ろにマウントしてあるメイスの具合を確かめた。薄汚れたマントをカモフラージュに巻いているので遠目には武器を持っているようには見えないはずだ。
カルボが聞き出した住所はいかにもな安アパートだった。階段の手前で、誰かがやったエサを5、6匹の野良ネコがガツガツと食っている。
エンセンが住んでいたという奥まった部屋に着いて、ドアノブに手をかけた瞬間。カルボの盗賊ならではの感覚がビリっと危険を察知した。
いきなり内側からドアが開いた。物凄い勢いだ。中にいた何者かが体当たりをしてきたのだ。正面にいたカルボはその勢いをまともに食らい、尻餅をつく。途端にドアは閉じ、鍵がかけられる音がした。
「カルボ!? 大丈夫か、おい!」
カルボは額を抑え”それよりも中へ”のジェスチャーをした。
アッシュは逡巡した。ここは迷うことなくアパートに飛び込むべきなのだが、カルボの状態が気になってしまったのだ。
その遅れがまずい結果を招いた。
部屋の中から窓が割れる音がして、中にいた何者かがそこから外に逃げているらしい。
「くそっ!」
腰のメイスを抜き、アッシュはドアノブごと鍵を粉砕した。アパートに飛び込むと、家探しをされたのであろう、家具がめちゃくちゃに荒らされていた。
カルボがエンセンから聞き出したのは、机の下にロッカーの鍵が隠してあるということだった――机は念入りに荒らされ、引き出しの中の物が全部出されている。いちいち全部を確かめている暇はない。先ほどの逃げていった連中は何らかの情報を仕入れ、それでエンセンの部屋に忍び込んだのだろう。
「クロ、シロ!」
「はい」「なんでございましょう?」黒薔薇と白百合は顔を見合わせた。
「お前たち、上からさっきの逃げてった連中追いかけられるか?」
「できると」「思います」
「頼む。俺もカルボの状態を見てから追いかける!」
黒薔薇と白百合はこくりとうなずき、屋根から屋根へと飛び回るようにして賊を追った。