第08章 02話 バーガンディ砦
フードの男の名はエンセンといった。
元は真面目な呪文研究を行っていた学生だったらしいが、この世の中にはいくらでも、どこにでも陥穽が待ち構えている。
ギャンブルの負け分を大学の教材を売り払ったカネで穴埋めしたり、学費の当てに貴重な魔力付与品を闇に流したり、原因は様々だがとにかくエンセンは学生から学生崩れになっていった。
世の中というのはそういう不正を黙って見過ごすことはしない。
エンセンは事の発覚を恐れ、犯罪者にそれを付け込まれた。
大学の大図書館から希少な本を盗み出し、それを購入希望者のもとに持って行くという汚れ仕事を押し付けられたのである。
エンセンは、自分に残っていた最後の良心でそれを断ろうとした。大図書室の本は極めて貴重なもので、世界に数冊しか存在しない過去の書籍が残っているのだ。エンセンはタイトルまでは知らされなかったが、厳重に箱に収められて渡されたところから考えれば、どれほど貴重で高価なものかは想像がついた。
しかし提示された報酬額は、今まで背負った人生の負け分を精算するのに十分な金額だった。2000金。
中継ポイントのブネ村――今まさにアッシュたちが立ち寄っている村――で箱に詰められた本を受け取り、そして目的地のバーガンディにまで運んだのだが……。
「どうしても思い出せないんだ、ぼくはそこで何かをされた。具体的なものはわからない……が」エンセンはローブの袖をまくり、そこについた生々しい歯型を見せた。「これを見てくれ。ぼくはそこで、依頼主に”噛まれた”らしい。考えたくはないが、アッシュくん、キミの言うとおりぼくは……ぼくは……”血を吸う化物”になってしまったらしい……」
アッシュは厳しい目でエンセンを睨み、「つまり、本の盗難をしかけたひとりはヴァンパイアだった……ってことッスね」
エンセンはひどい顔色のままうなずいた。
「ぼくは話した通りとても世間に顔向けできるような善人じゃないし、大学からケチな横領をしていた犯罪者だ。だけど後から考えて、自分のしでかしたことの愚かさがわかった。ブネ村が全員グールにされたのも、目撃者を消すためにヴァンパイアのチカラをつかわれたんだろう。ああ……もう取り返しがつかない、ぼくの愚かな行動でいったい何人が犠牲になったのか……いや、これからも増え続けるかもしれない……」
エンセンは自分の吸血本能を抑えつつ、致命的な弱点になりうる日光にあたるのをローブとフードで防ぎながらなんとか協力者を探した。そこで白羽の矢が立ったのがアッシュたちだったのである。
「別に誰でよかったわけじゃない。ぼくはヴァンパイアにとって一番恐ろしい存在になりうる人を探していた。それがキミだったんだ」
「……聖騎士に頼むわけには行かなかったの?」とカルボ。「エリゴスなんて大きな都市なら、聖騎士団のひとつやふたつ駐在してるでしょ」
「確かに彼らは悪を掃滅するエキスパートだけど、ぼくがヴァンパイアだと明かした瞬間に斬られると思ってね。保身だ。死にたくなかった」
アッシュとカルボは同時にため息をついた。この男、人当たりはいいが人間的にはほめられるタイプではない。
「……自分たちも一度受けた仕事だから付き合いますけど。これで『実は報酬は渡せない』なんてことになるなら早いうちに言ってください。その瞬間に魂を解放して差し上げるんで」
アッシュの淡々とした死刑宣告に、エンセンは額に浮いた汗を拭うしぐさをした。その冷たくなった額からは、もう汗など分泌されてはいなかった。
*
グールの死体転がるブネ村から離れ、アッシュたちは強行軍でバーガンディ砦跡地へと赴いた。泊まる場所がなく途中で野宿を余儀なくされた。
真夜中。
野宿場所の近くには小川が流れ、そちらの方から何か物音がして、アッシュは浅い眠りから覚めた。カルボと黒薔薇、白百合は何も気づかずのんきに眠っている。
と、そこにはエンセンがいない。
アッシュは息を潜め、鎧が鳴らない静かな動きで小川へと木立を抜けた。
そこにいたのは、流れる小川の前にイヌのように四つん這いになって水を啜るエンセンの姿だった。
「……アッシュくんか」
振り返りもせず、エンセンは言った。
「こんなところで生水を飲んでいるなんて、昔のぼくなら考えもしなかった」
エンセンはすでにヴァンパイアになりかかっている。次第に吸血への渇望が増してきて、喉が異様な渇きに襲われていた。それを抑えるためにエンセンは必死でワインや水で喉を潤そうとしていた。
アッシュは同情するとともに、万が一にでもパーティの仲間に手をかけようものならその時点で即刻顔面をひき肉に変えてやるつもりでいた。
「不思議なもので、生水を直接飲んでも腹が壊れたりしないんだ」
「ヴァンパイアはほとんどの病気にかからないッスからね」
「詳しいな」
「職業柄、ってやつです」
「なるほど。じゃあ、ぼくがもうヴァンパイアになりきった時も安心だ。キミが殺してくれるなら、余計な人に迷惑をかけずに済む」
アッシュは首をすくめた。ずいぶん勝手な申し出だ。だが言われなくてもそうしてやるつもりだったから、同じようなものだ。
ヴァンパイアを滅ぼすのために情は不要――それがアッシュに染み付いたかつての教えなのだから。
*
「あれがバーガンディ?」
半生体馬車を十分な距離をとって停め、カルボは望遠鏡を覗いた。
「確かに砦の跡地って感じ」
石積みの壁と櫓は半ば崩れかけたところを後から補修してあり、見張り櫓は木材で作り変えられている。見張り台に立っているのはただの人間のように見えた。
「吸血鬼のもつ不死の力に憧れた信奉者、いや……狂信者といったほうがいいか」とアッシュ。
「あ、なるほど。日が差してる間はヴァパイアの力が落ちるから、普通の人間も駒に使ってるんだね」
カルボは納得し、その上で難しい顔をした。
三本の見張り櫓はそれぞれ吊橋で繋げられているが、狂信者たちが巡回して、死角ができないようにしているようだった。今はちょうど昼時である。ヴァンパイアは砦跡地のどこか――例えば地下施設など――に隠れているとして、見張りだけで三人。
どう攻めるか。潜り込むかはかなり難しい。
「ヴァンパイアは夜目が利く。夜陰に乗じるのは逆効果だ」とアッシュ。
「じゃあどうやって?」とカルボ。
「正面から突破する」
「え? ええ?」
カルボはさすがに慌てた。アッシュが並の腕前ではないというのはもう知っているし、敵の人数次第では本当にひとりで片付けてしまうかもしれない。
たがここは砦跡地である。
住み着いた人間あるいはヴァンパイアが修繕して使っている以上、その防備は手強いはずだ。
しかも砦の中の様子は見えない。当然、見張り以外の戦力が待ち構えていると見ていい。いくらなんでも無茶がすぎる。
「そりゃあ俺ひとりじゃ無理だ。でも今はひとりじゃない。カルボ、お前もシロもクロもいる。奇襲をかければ不可能じゃない。いいな?」
「でもどうやって?」
「作戦はこうだ」
アッシュは足元の砂地に、小枝で地図を描き始めた。
*
バーガンディ砦跡地、正門。
大きな鉄格子がガッチリと出入りを禁じている。巻上装置を使わないと開閉不能となっていて、人間の筋力でどうにかなるものではない。
そこに、フードを深く被ったエンセンが近づいた。
「止まれ! 何者だか知らんが早々に立ち去れ」
正門の見張りはふたり。そのうち片方が厳しい声で言った。
「信奉者の分際でぼく……私に指図するか、人間よ」
エンセンは可能な限りおどろおどろしげに掛け合った。
「何だと……? まさか」
見張りたちが顔を見合わせ、何ごとかを囁きあった。
「この砦はヴァンパイアのための場所だろう? 私が……」エンセンは光に目をやられないよう最小限フードを持ち上げて、「私がそうだと知ってもまだ入れないつもりかな?」
これは失礼を、と焦った狂信者の見張りは巻上装置のスイッチを入れた。鋼鉄の格子がギャリギャリと音を立って上がっていく。
その瞬間。
見張り櫓のひとつが、突然火を吹いた。カルボの焼夷エーテルが空中を浮遊できる黒薔薇と白百合の手でこっそりと運ばれ、投げ込まれたのだ。
そのわずか1秒後、狂信者たちの意識が櫓に集まった瞬間を狙って、甲冑を着込んだアッシュが、とても全身武装をしているとは思えないスピードで開いた正面入口に滑り込んだ。
「はぁっ!」
まずはひとりの狂信者の、槍を持った右手をメイスで粉砕した。文字通りの粉砕である。手首から先の部分がばらばらになり、指は全部飛び散って白い骨と動脈が顕になる。アッシュが最も得意とする”小手砕き”だ。
「うわ……あああああっ!」
ことの重大さに気づいた狂信者だがもう遅い。アッシュは残りのひとりに跳びかかり、耳の下にメイスを突き入れ、顎骨を砕いてからみぞおちに膝蹴り。体が前に傾いだところにメイスを振り下ろし延髄を破壊した。
「すんません、自分、こういうことしかできないんスよ」
いつもと同じように、なぜか敵に丁寧語を使ってアッシュは襲い来る狂信者たちを次から次へと肉塊に変えていった。
その戦いぶりは礼儀正しさとは裏腹に、まるで狂犬のようだった。