第05章 03話 ホーンドマン
黒薔薇と白百合が空中で互いの手を握り向かい合うその姿は、地下世界への入り口にかけられていた幻術を破った時と同じだ。
ダメージから復帰しきらぬアッシュは困惑した。その時と同じことをしてもどうにもならないのではないか、と――。
「白百合、いきますよ」「はい黒薔薇」
ふたりの少女がお互いにそう声を掛け合うと、次の瞬間思いもよらないことが起きた。
空中の、黒薔薇と白百合が互いの歌声をきかせ合うその狭間の空間がぐにゃりと歪んで、歪みが塊となってホーンドマンの頭上に落ちて――破裂した。
ホーンドマンはそれに巻き込まれ、再び転倒して四つん這いの姿勢になった。
アッシュは体にはしる痺れを無視して黒薔薇と白百合のことを見守った。幻術を打ち破ったように、このふたりは何か呪文を使えるのだろうか?
「まだ倒せませんね、白百合」「強さが足りないのかしら、黒薔薇」「だったら」「もっと近くへ」
ふたりの美しい少女は空中から石畳に降り立った。ホーンドマンの正面である。拳を繰り出されればふたりとも即死の距離だ。
アッシュは何も言えなかった。体の痛みだけではない。あのふたりならなぜか安心できるという、根拠に乏しいが確信めいたものがアッシュの脳中を占めた。
そのようなことはホーンドマンの預かり知るところではなく、黒薔薇と白百合を一気に引き裂くように躍りかかった。
ラー、ラー、ラー……。
再び歌が響き、黒薔薇と白百合の間で何かが形成される。
すると――跳びかかったはずのホーンドマンが、その重量級の体をはね返され、後ろにふっとんだ。
――念動波……なのか?
黒薔薇と白百合の繰り出した何かは、アッシュの知識による限り”超精神術師”が呪文無しで使える衝撃の超能力だ。
不思議で無力な少女とばかり思っていたが、どうやらまだ彼女たちには隠されたモノが残っているらしい。
「これなら……」アッシュはグラグラする頭のまま立ち上がり、メイスの柄をギシリと構え直した。「……いけるぜ」
黒薔薇と白百合の念動力で吹き飛ばされたホーンドマンへ、アッシュの猛攻撃が加えられた。
限界まで殴り付けられ、ホーンドマンはついに立ち上がることができなくなった。呼吸する度に鼻から血がこぼれ、粉砕された肘と足首が痙攣している。
「素晴らしい、腕前だ……アッシュくん」
ようやくダメージから復帰したクライヴはそう言ってホーンドマンに近づき、気管にロングソードを突き刺した。
これがトドメとなった。
生木が焦げたような匂いを残し、ホーンドマンは溶け崩れ、この世からいなくなった。
*
「いやはや、危うく死ぬところだった」
クライヴは胸甲の上から腹をさすり、未だ残る痛みに顔をしかめた。カルボの手持ちにあった医療用エリクサーを飲んで内臓へのダメージは最小限に抑えられたが、外傷そのものが消えてなくなったわけではない。いま鎧を脱いで裸になれば、胸から腹にかけてアザができていることだろう。
「自分もです。クロとシロが力を使わなかったら全滅してたッスね」
「そうだな。彼女らは何者か――いや、今は問うまい。先を急ごう」
一行は大広間を抜け、さらに奥へと進んだ。
*
トヴァ夫人の念入りにひっつめた髪が、はらりとひと房乱れた。
「ホーンドマンで止められないとは……」
地下世界のあちこちに仕掛けた監視眼からの映像を映し出す銀眼プレートを持つ指が、力を込めすぎて関節が白くなっている。そこには侵入者に対する足止め用の妖魔がことごとく消滅させられた動画がいくつも送られてきていた。
「申し訳ありません、私の力不足で……」
フードを被った妖術師が、慇懃に頭を下げた。
「アナタのせいじゃないわ。前にも言ったけど、サン・アンドラスでの商売は限界だった、それだけよ」
じゃあ行くわよ、とトヴァ夫人は頑丈な革の鞄を持ち、妖術師に先行して床の隠しハッチを開いた。背嚢に詰め込めるだけ詰め込んだ研究資料を溢れさせないよう注意しながら、妖術師の男も後に続いた。
ふたりの姿は消え、ふたりが通ったハッチもまた、どこにあったのかわからなくなっていた……。
*
「何だこの部屋は」
一足遅くトヴァ夫人と妖術師がいた場所に飛び込んだアッシュは、違和感に肌をなでられるような気分になった。
「ついさっきまで人がいた雰囲気」カルボが鼻を鳴らして部屋の匂いを嗅いだ。「それにこの机の上の燃えカス。まだ暖かいよ」
「これはなんだ? 魔法陣?」
クライヴは部屋の壁に蛍光エリクサーで描かれた魔法陣を見てそのままの感想をもらした。
「この部屋」「この魔法陣」「きっとここが」「妖魔の召喚場所です」
黒薔薇と白百合が断定するように言った。彼女らが”超精神術師”であるのなら、何かしらの痕跡のようなものを感じるのも不思議ではない。
「黒幕はこの部屋にいたというわけだな」クライブはあごに手を当てて、「しかしどこに行ったんだ? 来るまでに脇道らしきものはなかったし、この部屋にも出入り口は一か所しか無い……」
「また幻術で隠されてるのか?」とアッシュ。「クロ、シロ。お前たちの力をもう1回……」
「待って。ここに隠されてると思う」カルボはうず高く積まれた木箱の山を指差し、「時間がないから、爆破するよ」
「なんだって? お前、鍵開けとかしないのか」
「できるけど、時間が惜しいのっ! 黒幕はもうずいぶん前にここから逃げ出してる。鍵開けしてたら時間がなくなる……ほら、みんなそっちに隠れてて」
アッシュたちはそれに従い部屋の奥側へと引っ込んだ。
カルボは腰のエリクサーポットから2液混合式液体爆薬エリクサーを取り出し、手際よく鍵とその周りに流し込んだ。
ズド、と腹に響く爆音。カルボは白煙の中から親指を立ててみせた。
「よし、突入だ」
一行は手狭な隠しハッチを抜け、どこかに逃げたであろう黒幕を追って走りだした。
*
隠し通路は完全武装のクライヴが通れる程度には幅も高さもあった。
一行は妙に焦っているカルボに急かされ、通路の先にいるであろう黒幕の姿を追った。
件の”回収業者”の男が言うには黒幕は老婦人らしいがどこまで信じられるかわからない。これまで肝心なポイントに幻術を使っていたことを考えると、己の姿自体を変えている可能性もある。
「誰であっても、とっ捕まえればおなじことよぉ!」
カルボが言った。声色は嬉しそうでやる気に満ちていた。それもそのはず、回収業者に成功報酬として渡す予定だった合計1200金分のカネを持っているはずと踏んでいるからだ。それを手に入れれば、しばらくは食うに困らないどころか豪遊してもお釣りが来る。クライヴが同行している手前、横取りするような形になるのは問題ありだが、そこを丸め込むのが泥棒の技術である。
「さー捕まえるぞーう!」
カルボは拳を振り上げ、先頭を走るアッシュの背中に場違いなエールを送った。
*
背後から聞こえるかすかな足音、そして声が近づいてくるのを感じ、トヴァ夫人と妖術師は気が気でなかった。
幾重も仕掛けた妖魔の防御を超えてきた連中である。自信作であった角のある男まで撃破されているとあっては、その戦闘能力はただごとではあるまい。しかも聖騎士がひとりいる。捕まれば最悪その場で殺される。
トヴァ夫人も妖術師も、持ち逃げしている荷物が重く進むのに難儀していた。もう少し時間に余裕ができるはずだったのに予測は外れてしまった。
「……荷物を捨てることを考えないといけないかしら」
荒い息を吐きながらトヴァ夫人は言った。その顔には疲労の色が濃い。
「し、しかしこれは今まで蓄積してきた研究が詰まっています、それを捨てるのは……」と妖術師。
「わかっているわ。それがなくなれば商売の再建が難しくなる……」
と、体力の限界が近づいてきたふたりへの救い主のように、前方に光点が見え始めた。出口だ。サン・アンドラスの地下世界を抜け、脱出できる場所まで走ってこれたのだ。
さらに走る。
光点は徐々に大きくなり、四角い枠のように見えてくる。
一度外に出て、鍵をかけて――そこの鍵は物理的なものでなく呪文錠、つまり言葉を使って開け閉めするものだ――しまえば安全だ。とにかくもう少し、後もう少しの辛抱で……。
「え?」
フードの妖術師は、一瞬何がなんだかわからなくなって尻餅をついた。
それを見たトヴァ夫人も、訳の分からない力で首を後ろに引っ張られ、通路の壁に叩きつけられた。
ふたりは茫然となって、後ろを振り返った――そこには、魔法のような速さで後ろから追いついてきたアッシュが、猟犬のように荒く息を付いている姿があった。
「……なんだか知らないけど」アッシュはそこで大きく咳込んで、「アンタらもう、負けてるッスよ」
*
トヴァ夫人ことアンカレラ・スートは妖術師のファラン・ダランと組んで、召喚した妖魔の商品化及び販売・貸与・保守を一括して行う闇の事業を行っていた。
サン・アンドラスの地下に存在した妖魔領域との境界が薄いポイントを利用し、召喚とパッケージ化――妖魔を脱走させずに特殊な檻に閉じ込める――をたったふたりで行い、それを必要とする者に売りさばくというわけだ。
取引含め全てが地下世界で行われていたためこれまで足取りがつかめなかったのだという。
しかしこれがリッパーの地上脱出事件への対応を難しくさせ、呪文を使える傭兵三人を”回収業者”として雇い入れる形を取らざるを得なかった。それが原因となって今回の逮捕へとつながったことになる。
自らの足元で数年にわたって邪悪な犯罪が行われていたことでタウ聖騎士団支部長クライヴは誇りを大きく傷つけられたが、支部長本人が犯人捕縛に大きく貢献したため、その地位から追われることはなかった。
妖術師ファダンの研究成果は見る人が見れば非常に貴重な資料であり、悪行の産物であるが聖騎士団に燃やされることなく魔術大学へと送られることになった。
トヴァ夫人と名乗った老婦人は元はとある犯罪者集団のボスの情婦であったという。その生い立ちと歩んできた人生はそれだけで本が一冊書けるほどだが、真偽の程は不明である。確かなのは彼女は腕のある商売人であり、ことが露見しなければゆうにあと数年は荒稼ぎができていただろうということである。
なお、彼女は”回収業者”三人に成功報酬としてひとり400金を支払う契約をしていたようだが、これについては仕事――すなわちリッパーを”泡沫の檻”に閉じ込めて妖魔の領域に送還すること――終了後に殺す予定だったので、カネの用意はしていなかったとのことである……。