第05章 02話 信念の剣
アッシュたちは下級妖魔を何匹か抹殺しつつ通路を抜け、大広間に出た。
そこは下水とはまた違う生物臭がして、あちこちに無造作に置かれた鉄格子のボックスから”目のない猟犬”の群れが現れた。数は10匹以上。
「ぬうう!」
聖騎士クライヴは憤怒の表情を隠そうともしなかった。聖騎士にとって、世界の外にある”闇の勢力”から引きずり出される妖魔は”悪”そのものである。侵略者であり凶悪な殺人装置。そして召喚した妖術師の手先となり法と秩序を侵すモノ。すでに部下を3人も失い、今なお自らの前に立ちふさがろうとする怪物の群れに対し、彼の血は滾った。
「我が前から消え失せろ!」
クライヴのロングソードが淡いエーテルの光を帯びた。聖騎士の神聖なる呪文、”信念の剣”だ。固い信念を剣の鋭さ、頑丈さに変換するこの呪文は、短時間ながらただの剣を聖剣と化す。
飛びかかってくるアイレスハウンドを鼻先から尾に至るまで真っ二つにすると、次なる敵を目指して剣を構え直した。
――いい腕だな。
アッシュはクライヴを見、そして評価した。名ばかりではない本物の聖騎士であるようだ。多少行き違いがあったが、クライヴという男は信頼に値する人物だろう。
だがひとりに任せておく訳にはいかない。
アッシュは鋼鉄のメイスをぐっと力を入れて構え、前後から襲いかかってきたハウンドを踊るように回転して双方の頭蓋骨を陥没させた。ギャッと悲鳴を上げる妖犬をの顔面をさらに蹴りつけてとどめを刺すと、次の獲物を探し――と、そこでカルボの独特の悲鳴が上がった。
振り返ると、すみっこのほうに隠れていたカルボと黒薔薇、白百合が、三体の黒犬に取り囲まれていた。
「カルボ!」
アッシュは無造作に床に置かれた鉄格子の檻に一息で飛び乗り、そこからさらに飛んで大上段から思い切りメイスを振った。狙いはわずかにそれアイレスハウンド一体の後肢を一本だめにしただけにとどまったが三体の注意をひくことができた。
メイスをわずか下向きに構え、全身のバランスを調整する。どこからなにが来てもメイスで粉砕できるように。
アイレスハウンドが動いた。
後肢を破壊された一体はうずくまったまま。残りの二体はギャンギャンと鳴き吠えながら位置を変えた。
セオリーどおり一体は前から威嚇し、それに乗じてもう一体は背後に回ってふくらはぎを狙う。この世界とは異なる空間から招き寄せられた存在とはいえ、イヌの習性には大差が無いようだった。
ならば話は簡単だ。
アッシュは二体の挟撃が始まる半秒前に前方へジャンプした。威嚇してきた妖犬の背後を取り、メイスを叩きこむ。脊椎が砕け、衝撃が内蔵まで届いて血混じりの胃液をぶちまけながら沈む。
残り一体。
1回だけ呼吸を整え、アッシュは文字通り盲目的に突っ込んでくる敵の鼻先を思い切り蹴りあげた。ほとんど90°直立するほど体が跳ね上がり、腹が丸見えとなる。そこを横薙ぎにメイスを振るった。激突。鳥肌が立つほどおぞましい音を立てて肋骨が粉々になり、肺から心臓にかけてを完全に叩き潰した。
息絶えた妖犬はブクブクと泡立って、生木が焦げるような臭気を残して消えていく。妖魔の領域から呼び出される怪物は、死ぬとこの世界との縁を失って消えてなくなるのだ。
だが、アッシュが最初に後肢を砕いた一体はまだ生きていた。一瞬の隙だった。メイスを振りぬいて、姿勢を戻すまでのわずかの時間に残りの三本の足で飛び上がり、カルボたちへと襲いかかったのだ。
――しまった……!
今からでは殴りに行けない間合いだ。
このままでは、カルボは腕の一本二本食いちぎられるかもしれない……。
「せい!」
正しい気合の声が正しく発せられた。妖犬アイレスハウンドの牙が届く寸前、クライヴのロングソードの刺突により一撃で屠られた。
その場の全員が、安堵の溜息をもらした。
「間に合ってよかった。さ、残りの化け物どもを一掃しよう」
そう言ってアッシュに笑いかけるクライヴの顔は、まさしく聖騎士の鑑であるかのように眩しく見えた。
「うス。早めに済ませましょう」
アッシュは無骨にうなずいた。そうすることがふさわしいと思えた。
*
最初は鼻を刺激していた下水の臭気にも次第に慣れ、もしかすると地下も住みやすいかもしれないと錯覚し始めた頃。アーチ状の入口が姿を見せ、それをくぐると円形の大広間に出た。今まで通ってきた中で一番大きい。
「……いかにも、って感じ」
カルボがぽつりとつぶやいた。アッシュも同じ思いだった。何か仕掛けがあるに違いない――。
と、案の定一行の後ろで金属がぶつかる音がして、アーチ状の入り口に鉄格子が降りていた。
「逃がさないつもりか」クライヴはそう言ってロングソードの鞘を払い、「構わん、なんであれ妖魔は斬る」
その時。
天井から巨大な影が降ってきた。ズン、と石床を揺るがす巨体だ。想像よりふたまわりほど大きなその巨体に、アッシュたちは一歩後ろに引いた。全身を覆う剛毛と低い唸り声が、これは強敵だと知らしめている。全体的には人間に似た姿だが、そのシルエットは直立したゴリラと牛を合わせたような異様なものだった。そして頭に生えた大きく曲がった二本の角。これも巨大な牛の角だ。
角の生えた男。
アッシュたちにはその名を知っているものはいなかったが、今まで遭遇した妖魔と比べれば明らかに格上だと全員が理解した。
「ゴガァァッ!」
ホーンドマンの叫び声が下っ腹に響く。巨体で、どす黒く、その手にはいつの間にか両手斧を持っている。本能的な恐怖を引き起こされ、クライヴ、カルボは軽いパニック状態を引き起こしかねた。
「クライヴさん」アッシュが恐ろしいモノを秘めた眼差しでクライヴを見て、「しっかりしてください。自分が後ろに回り込みます。正面、押さえてもらっていいスか」
「……わかった。任せておいてくれ」
クライヴは冷や汗をかきながら承知した。私は聖騎士だ、”悪”を目の前に退く訳にはいかない――その思いが体を奮い立たせた。
「カルボ、俺と一緒に来てくれ。背後からエリクサーで足止め、いいか?」
「わ、わ、わ、わかった」
「クロとシロは高いところに」
逃げておけ、と言う前に妖魔ホーンドマンが動いた。咆哮を上げながら、馬鹿でかい両手斧を振り上げて突進してくる。
「フゴゥ!」
空気ごと破壊するような一撃をクライヴはかいくぐった。聖騎士の鎧は半端な威力では貫けないが、その両手斧はどう見ても半端なものではない。
「アッシュくん、カルボくん、頼んだ!」
クライヴは聖騎士の矜持を最大限胸の中で燃やし、ロングソードをジャキリと構えた。
聖騎士は悪に対して退くことを許されない。それは聖騎士団の教条であるだけでなく、クライヴの生き方そのものでもあった。
強敵を前に基礎的な訓練の記憶がよみがえる。巨体の敵、大得物を持った敵をどう攻めるか。ひとつにはバランスを崩すこと。もうひとつは、武器を持つ手を狙うこと。聖騎士はロングソードの構えを少し変え、切っ先を相対するホーンドマンの真正面に向けた。
その間にアッシュとカルボはホーンドマンの側面から背後に回りこみ、それぞれが武器を抜いた。
と、巨体の牛人間が両手斧を振りかざしクライヴの脳天をかち割ろうとした。
「ぬん!」
まさにその動きをクライヴは待っていた。気迫とともにホーンドマンの握り手を狙い、ロングソードの切っ先で斬りつけた。
「クワァッ!?」
ホーンドマンの指がポロポロと落ちる。中指と薬指が切断された。これでは両手斧を握るだけの握力が保てず、その刃先はあらぬところにズレて石床に激突した。
どうやらホーンドマンはなにが起こったのか瞬時に把握できるだけの知能に欠けるらしく、その意識に隙ができた。
それを見逃すアッシュではない。
ひとごろしの眼差しで牛人間の下半身を睨み、そのごつごつしたふくらはぎに向けてフルスイングでメイスを叩き込んだ。全身の剛毛がまるで装甲のようになっているホーンドマンだったが、強烈な打撃を無効化できるほどではない。
アッシュに手に反動が伝わる。足に握りこぶしほどのくぼみができた。血こそ流れないが、それが重いダメージであることは間違いないようだった。ホーンドマンはわずかにバランスを崩した。
「よし!」クライヴが叫んだ。「一気呵成に攻め立てる!」
ロングソードを再び構え直し、渾身の刺突を繰り出した。ホーンドマンの剛毛は斬りつけても刃が滑るという判断だ。実際それは正しく、剛毛をかき分けるようにして切っ先が脇腹に入り込んだ。
クライヴが正面から攻め、裏でアッシュのメイスが叩き込まれる。この連続攻撃は、身軽さに欠ける巨体のホーンドマンには最善の手であった。
これで片付くかと思われたホーンドマンだが――その膂力はアッシュたちの評価を上回っていた。
「ゴガアアアッ!!」
咆哮、そして狂乱。片手の指を切り飛ばされ、両手斧を保持できなくなったホーンドマンはそれを投げ捨て、駄々っ子のように無茶苦茶に暴れた。
その振り回された野太い腕が、クライヴの体に激突した。
クライヴは悲鳴を上げる余裕さえなく、吹き飛ばされた。大股で5歩ほどの距離もすっ飛んで、仰向けに倒れてしまう。
「クライヴさん!?」カルボが叫んだ。
聖騎士の鎧を身にまとっているクライヴはそう簡単に死ぬことはない。だが先程の攻撃には簡単という言葉は当てはまらない。
アッシュは無言のままホーンドマンの巨体にメイスを叩き込み、何とか動きを止めようとした。かかと。ふくらはぎ。膝の裏。足の付根。まさしく滅多打ちである。それでも巨体の妖魔の動きは止まらず、クライヴを叩き潰すことだけを考えているようだった。
「カルボ! エリクサー!」
アッシュの言葉にカルボははっと我に返った。自分の役目を思い出し、ベルトのホルダーに挿してあるエリクサーのポットを引き抜いてそれを投擲した。
カシャン。ポットはホーンドマンの足元で割れた。中のエリクサーが石畳にじわりと広がる。
外したか、とアッシュは見たが、そのエリクサーは”そういう使い方”をするものだった。
ホーンドマンがそのエリクサー溜まりに足を踏み入れた途端、つるりとすべって思い切り転倒した。
おう、とアッシュは口の中でつぶやいた。摩擦抵抗を思い切り減らすスリップ・オイルだ。
「いいぜカルボ、それでいい」
にやりと嗜虐的に唇を吊り上げ、アッシュはまずホーンドマンの顔面を踏みつけた。みしりと鼻先にかかとが食い込む。しかし怪物の耐久力はなみではなく、その程度ではダメージになっていない。
「いいッスねぇ、じゃあこれはどうッスか?」
アッシュは敵と対峙したとき特有の言葉遣いをして、今度はメイスを顔面に叩き込んだ。上段から振り下ろされる鋼鉄の塊である。踏みつけとは威力が違う。ホーンドマンの、牛よりもなお大きな鼻先が醜く潰れ、どす黒い血が両方の鼻の穴から吹き出した。アッシュの狙いは呼吸を整えづらくさせ、弱体化させることだ。足一本スリップさせられたとはいえまだ健在だ。ここで出来る限りダメージを与えなければならない。
「カルボ、クライヴを頼む!」
「言われなくてもだよ!」
倒れたまま動けないクライヴのことをカルボに任せ、アッシュはさらにメイスを顔面に叩き込んだ
「ギャウッ!!」
ホーンドマンは激痛にもんどりうった。メイスが左目に思い切り突き刺さったからだ。鼻、左目。次はどこを狙うか。アッシュは石床の上を転がる巨体の妖魔を睨み、喉元と鎖骨に標的を定めた。喉はさらに呼吸を苦しめる。鎖骨が折れれば腕を思うように動かせなくなる。
アッシュは戦闘中の陶酔感に駆り立たれ、一足飛びにホーンドマンの喉元にメイスを繰り出した。
そこに油断があった。
ホーンドマンは倒れ、傷つけられたもののまだ右手も首も無傷なのだ。
一瞬の隙をついてホーンドマンはその丸太のような首をめぐらし、その名のついた由来でもある曲がりくねった角の先でアッシュの足元を引っ掛けた。あっとバランスを崩されると同時に、アッシュの眼前には筋肉と剛毛の塊のような右の拳が迫っていた。
「がっ……!」
アッシュは正面から拳をくらい、体ごとすっ飛んだ。
いつもであれば命を救ってくれるシグマ聖騎士団の鎧もない。かろうじてメイスで拳の軌道をずらしたが、完全に弾き切るには威力がない。石畳の上に投げ出され、ごろごろと転がってようやく止まった時には意識がもうろうとし、立ち上がることさえできなくなっていた。
――まずい、まずい、まずい……クライヴが動けないなら、勝ち目がないぞ……。
薄れる意識の中でアッシュは仲間たちの身を案じた。カルボのエリクサーは便利だが、おそらくトドメをさせるものまでは持っていないだろう。クライヴはカルボから回復用のエリクサーで手当されている。しかしホーンドマンの拳で受けたダメージは外傷ではなく内蔵まで届いている可能性がある。黒薔薇と白百合は空中に逃れているが戦闘力には期待できない。このままだとパーティは全滅だ……。
「ゴオオガあああっ!」
激昂したホーンドマンはクライヴとカルボに向かって突進し、全てをなぎ倒すかに見えた。
もはや回避不能、絶体絶望の状況である。
そのとき、上空から澄んだ歌声が聞こえた。
ラー、ラー、ラー……。
アッシュは衝撃で息の詰まる体を無理やりねじり、大広間の天井付近で泳ぐ黒薔薇と白百合の姿を見た。